楽園 ~きみのいる場所~

「楽、って名前も可愛い……よ?」

 恥ずかしさのあまり、変なところに間があった上に、「よ」の音を一音高く発してしまい、疑問形になってしまった。

 これでは、褒めているとは言えない。

 が、彼女は更に顔を赤らめて、手で口元を覆った。

 状況が違えば、躊躇なく抱き締めている。

 俺に妻がいなくて、俺の身体が自由で、俺の身体が女性を悦ばせられたなら、確実に彼女を抱き締めて、抱き上げて、ベッドの上で彼女の髪を解いていた。今日もしっかり留められているシャツのボタンを、外していた。

 そう思った後に感じるのは、自分の無力さ。

 どれも願うばかりで、今の俺には出来ないことばかり。

「楽、って呼んでいい?」

 彼女は口元だけでなく、両手で顔全体を覆っていた。余程恥ずかしいらしい。

 だが、小さく頷くのを、俺は見逃さなかった。

「ありがとう。ずっと……呼びたかったんだ。楽、って――」

 自分の言葉に、違和感を持った。



 ずっと……?



 お義姉――楽と出会ったのは十日ほど前。正確には三年前の結婚式で会っているようだが、俺に覚えがないからなしとして。だから、『ずっと』と表現するには、何か違う。

 なのに、すっと言葉が出てきた。



 いつから、ずっと……?



「間宮悠久、って……いい響きですね」

「響き?」

「はい」

 この家の玄関には、今も『間宮』の表札。

 戸籍上は『間宮家』は既に絶えているのだが、俺はこの家を壊すことも、表札を下ろすことも出来なかった。

 この家は、俺が『間宮悠久』だったことを証明する、唯一の場所。

 どうしてこうも、彼女の言葉は俺を過去に引き戻すのか。

「さん、いらないからね」

 俺は最後の一口を飲み込んで、言った。いつもより会話に夢中になったせいか、すっかり冷めたベーコン。

「え?」

「悠久さん、って言ったろ? 友達なら、さんは付けないでしょ」

「でも……」

「お――楽は、友達を下の名前で呼んだりしなさそうだよね」

「……」

 楽も最後のクロワッサンを噛み、コーヒーで流し込む。

「じゃあさ、『間宮くん』って呼んでみて?」

「ええ!?」

「友達、っぽいでしょ」

「……」

「ほら、ほら」

 好きな子を苛めるなんて趣味はないけれど、彼女の困った顔を見るのは、足の裏がムズムズするような、変なくすぐったさを感じる。

「俺も、楽ちゃん、とか呼ぶ?」

「それはっ――! ……やめてください」

「また、敬語」

「……っ!」

「一回だけ」

 別に、楽と早坂を重ねる気も比べる気もない。ただ、彼女の困った顔や、泣きそうなのを我慢する顔を見ていると、懐かしい感情に熱がこもる。

 もう呼ばれることのない名前が、恋しくなる。

「……間宮くん……」

 わかった。

 楽を見ていると早坂を思い出す理由。

 声が、似ている。

 そっくりってわけじゃない。

 じゃないけど、似ている。

 自分でも上手く表現できないし、思い込みかもしれない。

「楽の声、いいな」

「え?」

「話し方もイントネーションも柔らかくて」

「そう……ですか?」

「うん。好きだよ」
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