楽園 ~きみのいる場所~

 彼女がゆっくりと顔を上げた。

 涙が滲んでいても、見えない距離がもどかしかった。

「早坂は、どうしてこの家に来た?」

「……」

 彼女は瞬きもせずに俺を見つめる。

「昔、何も言わずに消えた罪滅ぼし?」

「…………」

 俺の頭上の窓から差し込む陽の光で、彼女の瞳が輝いて見える。

「離婚して行き場がなかったから都合が良かった?」

「…………そんなんじゃ――」

 零れそうで零れない、彼女の瞳の中の涙が頬を伝う姿が見たい。

「それとも、俺に取り入って、自分を蔑む妹を見返してやろうとでも思った?」

「――やめて!」

 大粒の涙が下瞼を乗り越えて、頬に着水した。綺麗に真っ直ぐな筋をつけて滑り落ちていく。

「何も知らずに、もう一度きみを好きになった俺は、さぞ滑稽だったろうね」

「そんなわけないじゃない!」

「――だったら!!」

 興奮のあまり身を乗り出すと、楽が反射的に一段上に足を掛けた。

「どうして何も言わなかったんだよ!?」

「それは……」

「言うほどのことじゃないと思った? 思い出話には興味なかった? それとも――」

「――幻滅されたくなかった!」

「……幻滅?」

 彼女が、一段上に進む。

「転校なんかじゃない。中退なの。おばあちゃんに助けられてなんとか暮らせて、おばあちゃんの気遣いで結婚させてもらって、おばあちゃんがなくなった途端に離婚して。こんな私じゃ、間宮くんに幻滅されると思ったの」

 彼女が早口で、息継ぎもままならないほど早口で言った。それから、「はぁ」と音に出して大きく酸素を取り込んだ。

 噤んだ唇を噛み、不自然な速さで瞬きを繰り返し、その度に涙が頬に溢れ出す。

 訳が分からなくて、ムカついて、泣かせたいなんて思ったけれど、実際に泣かれるとツラかった。

 抱き締めたいのに、涙を拭いたいのに、身体が動かない。動ないけれど、諦めたくなかった。

 俺は彼女を見下ろしたまま、手摺りに手を伸ばした。右手で強く握り、自分の身体を引っ張り上げるように腕に力を込める。

「――っま、まみやく――!」

 腰を浮かせた瞬間、右手が滑った。

 正確には、今の右手の力では自分の体重を支えられず、力が抜けた。

 尻が元の位置に着地すると同時に、勢いよくタックルされてひっくり返った。

「うわっ!」

 ゴンッと床に後頭部を打った。

 胸の上には、楽。

 両腕でがっちりと俺の腹に抱きついている。

 俺が階段から転げ落ちると思ったのだと思う。

 シャツが彼女の涙を吸収し、胸にしっとりと張りついた。

 俺は、彼女を抱き締めるでも、突き放すでもなく、両手をだらんと腰の横に伸ばしていた。

「この部屋で……キス……したよね」

 楽の言葉に、首を捻り、今は楽が使っている、元は俺が使っていた部屋に目を向けた。

「私ずっと……戻りたかった」
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