楽園 ~きみのいる場所~



 翌朝。

 俺は九時を待って岡谷さんに電話をかけるつもりでいた。

 が、八時にはインターホンが鳴ってしまった。

 モニターの前で立ち尽くす楽に気づき、俺もモニターを覗く。

「おや……じ?」

 険しい表情でモニターに映るのは、明堂剛健(ごうけん)、株式会社明堂貿易の会長である俺の父親だった。

「悠久……」

 楽が俺の袖を掴む。

「なんで――」と言いかけた時、再びインターホンが押された。

 居留守なんて、きっと無意味。

 俺は覚悟を決めて、〈応答〉ボタンを押した。

「はい」

『さっさと開けろ!』

 スピーカーから低くて太い声が響く。

 俺はモニターを切って、楽の唇にキスを落とした。

「大丈夫だから。コーヒーだけ、頼む。その後は部屋に上がってて」

 楽は頷き、台所に行く。

 俺は肩を上下させながら深呼吸をして、玄関に向かった。

 顔を合わせても挨拶もなく、親父は我が物顔で家に上がり込んだ。

「おはよう……ございます」

 台所から、楽が丁寧にお辞儀をした。

「悠久さんのお世話をさせて――」

「――家政婦の挨拶などいらん。下がっていろ」

 親父は楽を一瞥し、眉間に皺を寄せて吐き捨てた。

 勝手に、ソファの真ん中に腰を下ろす。

「俺の家で、親父が偉そうに指示するな」

 俺は乱暴に椅子を引き、ダイニングに座った。

「なにを偉そうに!」

「何しに来たんだよ! さっさと帰ってくれ!」

 親父の声につられて、俺も声を張り上げる。

「それだけ大声を出せるようになったのなら、さっさと会社に戻らんか! いつまで引きこもっているつもりだ!」

「あんたが俺の身体の何を知ってるんだよ!  俺は――」

「――子供は作れても仕事はできないなど、都合のいい話はないだろ!」

「は……あ?」

 なぜ、親父が子供の話をするのか。

 答えは、萌花だ。

『まずはお祖父さまに認めてもらいましょうか』

 昨日の、萌花の言葉を思い出す。

 視界の隅にいる楽が、不安そうに俺を見ているのがわかる。が、親父と対峙している今は、彼女の不安を取り除いてやれるような言葉はかけられない。

「明日から出社しろ。この時間に迎えを寄こす」

 そう言って、親父が立ち上がった。

「勝手なことを――」

「――今後、移動は全て専用車でするように。二度と! 同じ醜聞は許さん!! 生きて子供の顔を見たければ、指示に従え」

「ふざけるな! 俺はもう――」

「――母親がお前を手放した意味を考えろ」

 いつもこうだ。

 親父(この男)は、いつもこの言葉で俺を黙らせる。

 そして、その度に母親を恨む。



 どうしてこんな男に俺を渡した――!!



「家政婦」

 親父がギョロッと目玉を楽に向けた。

「お前の仕事は今日限りだ。明日には荷物をまとめて出ていけ」

「息子の世話をしてくれた人に、礼の一つも言えないのか!」

「相応の報酬を受け取っているのだから、礼など必要ない」

 フンッと鼻息を荒くして、親父は来た時同様に勝手に帰って行った。

 俺は親父の車が走り出すのを確認して、玄関に鍵をかけた。

 楽の元へ急ぐ。

 彼女は台所で両手を握り締め、立ち尽くしていた。
「楽!」

「あ……。ご、ごめんなさい。コーヒーも……出さずに……」

「そんなことっ――!」

 俺は彼女を抱き締める。

 突然のこととはいえ、俺自身も驚いたにしても、親父に言いたい放題言わせてしまったのは俺の責任だ。

「ごめん」

「なにが? 悠久は悪くないでしょう?」

「けど――」

「――私より! 悠久はどうするの? 明日から、会社に行くの?」

「行かない! 俺はもう、明堂の家とも会社とも関わらない」

「だけど――」

「――とにかく、弁護士に連絡してみるよ。調停のことも、萌花の子供のことも。まずは、まずはそこから……だ」

 自分の動揺を誤魔化すように、やらなければならないことを彼女に伝えるように言葉にして、自分に言い聞かす。



 そうだ。

 まずは岡谷さんに電話を――。



 そう思うのに、俺は楽を抱きしめたまま動けなかった。

 親父に萌花の妊娠が知れた。

 当然、俺の子だと思っている。

 楽の素性がバレていないのは救いだが、このままここに置いておけば、いずれ勘ぐられる。



 なんとかして、萌花の子供が俺の子ではないと証明しなければ――!



 待ち構えている事態に、焦りと恐怖から立っているのがやっと。

 それは楽も同じで。

 俺たちは、スマホが岡谷さんからの着信を知らせるまで、強く抱き合うしかできなかった。
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