三羽雀

生き甲斐と幸福(しあわせ)

 春が近づくにつれ敵軍は沖縄に上陸し、軍部は特別攻撃隊による一連の作戦を開始した。死を顧みぬ、文字通り生還をも期待しない戦いである。
 苛烈な爆撃に焼け野原となったまま帝都は春を迎え、五月に入ると標的は少しずつ西部へ移った。
 下町を焼き尽くした敵将は、今度は山の手を狙っている。
 三月の悲劇から、高辻家では女と子供達を(まと)めて疎開させようという話になった。
 ある晩、離れに住む康弘と志津は本宅のほうに呼ばれ、全員が食堂に集まった。
 亭主は腕組み、咳払いをして話し始める。
 「アキ、寛子(ひろこ)さん、志津ちゃん、律子(りつこ)健司(たけし)相馬(そうま)へ行かないか」
 それぞれの顔を見て名を呼んだその声は粛々(しゅくしゅく)としている。
 この家の主人(あるじ)の妻、そして兄弟のそれぞれの嫁は頷き半分目を合わせた。
 相馬には親戚が居る。いざとなればそこに疎開するほかないとかねてから彼は考えていたのであった。
 「ええ、行きましょう」
 「私も、律子と健司を連れて行きますわ」
 義母と義姉は口々にそう言うが、志津は行くと言うことができなかった。
 「志津ちゃんも行くでしょう?東京(ここ)はあまりにも危険だわ」
 (うつむ)いた志津は、震え声で話す。
 「私は……残りたいです。一人でも多くの人を助けたい。どんなに空襲が激しくても、街が焼け落ちようとも、私は薬剤師として出来ることをしたいです」
 義父はひとつ溜息を吐いた。
 「しかし志津ちゃん、下町の空襲を見て分かったろう。これからはあれが此方側で起こるんだよ。私も長いこと医者をしていたから志津ちゃんの気持も分からないではないが……」
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