天敵御曹司は政略妻を滾る本能で愛し貫く
 井之頭さんは、前回の件があってからなぜか、私への警戒心を一段階下げてくれたように感じる。演技とはいえ冷たくしてしまい申し訳ございませんと、後日謝罪もされた。
 「どうかしましたか」と返すと、「少し外に出られますか」と言われたので、私はばあやを部屋に置いて縁側に出た。
「お願いというのは……?」
「優弦様が大事な資料を部屋に置いてこられてしまったようでして」
「はあ……」
 井之頭さんと一緒にどこかへ向かって歩きながら、私は気の抜けた返事をした。
 優弦さんが忘れものをしたことで、私に何をお願いしたいと言うのだろう。まさか、病院まで届けに行ってほしいとか……?
「優弦様のお部屋に入って、資料を取ってきてくださいませんか」
「え……?」
「優弦様が、本棚には奥様にしか触らせないとおっしゃっていまして」
 まさかすぎるお願いに、私は素っ頓狂な声をあげてしまった。
 どうしてそこまで信頼されているのか、全く持って謎だ。
 優弦様の部屋に勝手に入って、あんな事件を起こした私だというのに。
 難しい顔をして黙っていると、井之頭さんが「お二人は、なかなか話す時間もないようですね」と苦笑交じりに話しかけてきた。
「優弦さんは、お忙しいでしょうから……」
 なるべく顔を合わせないようにしている事実が悟られないように、無難な回答をする。
「奥様もお忙しいでしょう。雪島家手製の着物を私も着させていただいたことがありますが、とても着心地がよかったです」
「えっ、本当ですか。ありがとうございます」
 突然着物を褒められたことが嬉しくて、私は思わず笑顔になってしまった。
 そういえば、ばあやの前以外でこうして笑ったのは初めてな気がする。
 井之頭さんはそんな私を見て、「ぜひ優弦様の前でも、今のようにリラックスしてください」と優しい笑みを返してくれた。
 そうこう話しているうちに、奥にある優弦さんの部屋の前に辿り着いてしまった。
「本棚の一番下の段にある、緑色のファイルケースごと持ってきてほしいそうです」
「本当に、私が入ってもいいのでしょうか……」
「ふふ、奥様以上に信頼できる人なんて、他に誰がいましょう」
 有無を言わさぬ瞳に気圧され、私はしぶしぶ部屋の中へと入った。
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