会うことは決まっていた
 それから数日間、私は毎晩こみ上げる同じ疼きに翻弄されていた。
 その度に史さんのイメージは鮮明になり、実は彼と本当に交わっているのじゃないかと錯覚してしまいそうになる。

(まずいよ……こんなの、おかしくなる)

 微熱も続いていて、パン屋のスタッフからも顔が赤くて熱があるように見えると言われた。
 でも、風邪の時のような具合の悪さはないのだ。
 むしろ元気に仕事は続けられていて、自分でもどういうことなのかと思う。

(元気なのはいいけど、エネルギーの行き場がなくて時々眩暈がするんだよね)

 夏バテもあるのかなと思い、豚肉を多めに入れたゴーヤチャンプルーを作って夫を待つ。
 すると、いつもより少し早めに帰った夫は明らかに不機嫌な様子だった。

(何かあったのかな)

「おかえりなさい」

 ドアを乱暴に閉めて入ってくる夫を、少し引いた気持ちで迎える。
 すると彼はネクタイを荒々しく引き抜きながら、私を見ることもなくイラついた口調で呟く。

「ったく、なんであいつが課長に昇進で俺が主査なんだよ」
「人事の発表があったの?」
「ああ」

 ネクタイはソファに放り投げ、これみよがしに大きなため息をついた。

(これは、どういう反応をしたらいいんだろう)

 私は下手な言葉はかけられないと思いつつ、黙っていることもできずに口を開いた。

「その。あなたは頑張ってるんだし……次の人事ではきっと……」
「社会になんの貢献もしていないあなたに言われたくないな」
「え……」

 聞き間違いかと思ったけれど、夫の言葉は心臓に深く刺さって痛みを伴っていた。
 私が青ざめたのにも気づかず、彼はまだ続ける。

「パン屋でパートしてるくらいじゃ、俺がどれだけ苦しい思いをしてるかなんてわかるわけない。秘書の桃里さんならともかく……あなた世間の苦労なんて知らないでしょ」
「……」

 そうかもね、と言いかけて言葉にならずに口をつぐむ。
 存在否定されただけでなく、優秀な誰かと比べられてプライドも何もかもを踏み躙られた。

(そうか、この人そういう気持ちで私を見てたんだ)

 きっと桃里さんという人が優秀で素敵で。
 比べると私はとても色褪せていて……だから、私に対してこういう態度になっていたんだ。

 夫は黙ってしまった私をみて、流石に言いすぎたと思ったのか気まずそうに咳払いをした。

「風呂に入ってくる。上がったら飯は食べるから、そのまま置いといて」
「わかった」

(そのお風呂も、私が入れてなきゃすぐに入れないんだよ? ご飯だって自動で出来上がるわけじゃないんだよ? それでも私は何も貢献をしていない人間なの?)

 確かに痩せ細るような苦労はしていないのかもしれない。
 だからと言って、存在を否定されるほど価値のない生き方をしてきたつもりもない。
 夫を選んだのは私の選択だ。そこは後悔していない。
 
(でも、これを死ぬまで続けられる?)

 初めて今の結婚生活を続けることへの疑問を強く感じた。
 ただ、この生活から自分はどうやって抜け出せるんだろうという不安も同時に湧いてくる。
 それがつまり、夫からしたら甘ちゃんに見える部分なんだろう。

「生きてる意味って……なんだろう」

 ボソリと呟いてみると、胸から込み上げるもので涙が溢れた。

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