冷徹御曹司は過保護な独占欲で、ママと愛娘を甘やかす
ふと、遠くに見える建物に見覚えがあった。

「あのホテル……」

大学時代に笛吹製粉のパーティーで行ったことがある。そのとき、はじめて豊さんに会ったのだ。

『奥村社長、こんにちは。今日は娘さんとご一緒ですか』

多くの人に囲まれていた豊さんが、一度だけ私たちのところへ来てくれた。傘下企業に対しても横柄な態度を取る人ではないのだ。
ただ忙しそうで、あくまで礼儀できてくれただけなのだなとは感じられた。

『明日海といいます』

お辞儀をした私に彼は頷き言った。

『堅苦しくつまらないでしょう。疲れたら控室へどうぞ。紅茶でも運ばせます』

無表情で気遣う言葉を投げて、彼は行ってしまった。

本当にそれだけの出会い。
あれから少しずつ彼に興味を持って、憧れて。一緒に働くようになってからは、顔を見られるだけで幸せで。だけど、恋にはならないように自分の中で線を引いて……。

ああ、あれから八年ほど経っているのだ。
ホテルで初めて彼に会ったとき、数年後に彼の子を身ごもり、さらに数年後に妻になっている自分を想像することはできなかった。

「気持ち、ちゃんとしまっておかないと」

私はひとり呟く。石畳の公園、遠くたたずむホテルをながめて。

「あ、きゃあ。ままぁ」

未来は欄干の柵を握って遊んでいる。水の流れが面白いようだ。

「あの人は私を好きなわけじゃないんだから」

豊さんと再会し、未来と一緒に彼と暮らす。
これが不思議な家族の始まりで、そこに愛情はない。それなのに、私の心の奥でくすぶり続けているのはあの日の情熱なのだ。
蓋をして封をして、心の一番深いところに沈めたはずなのに、熾火のように燃え続ける切ない感情。
愛のない結婚生活はこうして始まったのだった。


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