愛を知るまでは★イチゴキャンディ編★
偽の彼女?③
そして日曜日。

鹿内さんに連れられて行った所は、三軒茶屋にあるこじんまりとした美容室だった。

「ギャランドウ」という女子高生が口に出すには少し恥ずかしい名前のついたこのお店は、

透明の自動ドアで中には外国から日本の俳優まで色んなイケメンのポスターがびっしりと貼られていた。

それ以外はアジアン調のインテリアを施した、普通にお洒落な内装だ。

店の真ん中に置かれた水槽にはのんびりとウーパールーパーがくつろいでいる。

「あら~弘ちゃんいらっしゃい!久しぶりねえ。」

私達を出迎えたのは、少し髪の毛が薄くて色の白いちょっとふっくらした、男の人だ。

綺麗に剃られた髭あとはまだ少し青かったが、ニッコリとした瞳は無くなってしまいそうに細く、まるで赤ちゃんのように無垢な笑顔だった。

「薫、この子の髪型、少しだけ流行なカンジに変えてくれないか?」

鹿内さんは私を指差すと、自分は待合の黒いソファにどっかりと座って、

本棚にあったヤングジャンプを読みだした。

信二兄ちゃんはマガジン派だけど、鹿内さんはジャンプ派か。

「この子、だあれ?」

「信二の姪っ子。」

「あら、信ちゃんの?」

薫と呼ばれたその人は私を見て驚きながらも、手招きした。

どうやら信二兄ちゃんの事も知っているらしい。

「あの・・・山本つぐみと申します。」

「私は磯野薫。この店のオーナー兼スタイリスト。さ、こっち座って。」

私は回転式の椅子に座り、鏡に映る自分をまじまじと見た。

確かに流行は取り入れてないけれど、それなりに手入れはしているつもりだ。

黒髪にぱっつん前髪のセミロング。

生活指導の先生お墨付きの優等生な髪型。

これのどこがいけないっていうの?

「どんな感じにしようかしらね。ちょっと毛先を遊ばせるってのはどう?」

「お、お任せします。」

「じゃあ先にシャンプーしましょ。」

シャンプー台のある椅子に移り、顔にふわりと柔らかいタオルをかぶせられる。

薫さんの大きな手が私の頭皮をゴシゴシとかき上げ、

グレープフルーツの香りがするシャンプーを擦り付けていく。

なんとも言えない気持ちよさが、私の頭を包んでいく。

男の人なのに、全然嫌な感じがしない。

身体も強張らない。

それはこの人、薫さんの女性らしい言葉遣いのせいだろうか?

ん?女性らしい言葉遣いって、もしかしてマツコとかミッツとかいわゆるソッチ系の方?

「安心しろ。薫は見かけは男でも心は女だから。コイツなら君の男嫌いも発動しないだろ?」

頭の上から鹿内さんの声が降ってきた。



髪を下ろして綺麗に整えられた自分の顔を見て驚いた。

これが私?

なんだか別人に見える。

サイドに適度なシャギーが入って、心なしか前より大人っぽくなった気がする。

肩のあたりがスースーして首筋が露わになり、なんだか裸にされたみたいで恥ずかしい。

「見て、弘ちゃん。つぐみちゃん可愛くなったわよ。元が可愛いから、腕がなったわ!」

鹿内さんはヤングジャンプを本棚に戻すと、私の側に来て鏡を覗いた。

「まあ、いいんじゃねえ?」

自分から誘っておいて、そのそっけないリアクションはなに?

「ねえ。今日はもうお店閉めるから、飲みにいきましょうよ。いつものと・こ・ろ。

マスター、また美味しいおつまみ開発したらしいわよ。」

「確かに腹減ったな。」

時計を見ると午後2時を過ぎていた。

「つぐみ、君もおいで。」

は?ちゃん付けはどうした?!

「私はいいです。帰ります。」

「いいから来いって。行かないと腕離さないよ。」

私の右腕は鹿内さんの左手でガッチリと掴まれている。

「痛いですって!!わかりました!行きます。行けばいいんでしょ?」

「わかればよろしい。」

私は成り行き上、鹿内さんと薫さんに付いて行くことになった。

三軒茶屋から電車で渋谷駅まで移動して、

道玄坂を上ると細い路地を曲がり、古ぼけたビルの地下を螺旋階段で降りていく。

ビルのボロさに反比例して黄金色に輝いた扉の横には

「花と乙女」

と書かれた紫色の看板が掲げられている。

店の中に入ると

「いらっしゃいませ~」

と甲高い声がした。

カウンター席とボックス席が2つという、縦に細長いウナギの寝床みたいな店だ。

まだ太陽が高いせいか、お客さんは私達の他には誰もいなかった。

私達はカウンター席に並んで座った。

「面白い組み合わせだね。薫と弘毅と・・・どこのお嬢ちゃん?」

「この子ね、信ちゃんの姪っ子さんなんだって。今この子の家に弘ちゃん居候しているのよ。」

「あらそうなの。お嬢ちゃん、弘毅のパンツ見た?

硬派気取っているくせに結構派手で笑っちゃうよね。

この前なんてヒョウ柄のトランクス履いていたし。」

「私は男なら白ブリーフ一択だけど。」

「ブリーフなら男は赤でなきゃ。千原ジュニアみたいな。」

薫さんとバーテンダーさんは男性のパンツの好みで盛り上がり始めた。

私が鹿内さんの下着事情なんて知るわけないでしょ?!

「お前らのパンツの好みなんかどうでもいいから、早く酒とつまみ出してくれ。

こっちは昼飯抜かして来てるんだ。」

「弘ちゃん何飲む?私は赤ワインとチーズ入り揚げ餃子お願い。」

「俺は角ハイボールとカルボナーラとミックスピザ。」

鹿内さんは炭水化物料理をダブルで頼んだ後、私に小さなメニューを手渡した。

「つぐみは何頼む?お子様ランチはないけど、ここのつまみは結構うまいって評判だよ。」

「・・・じゃ、ウーロン茶と出汁巻き卵お願いします。」

ワインにバーボンにウイスキーとあらゆるお酒の瓶が並んだ戸棚、

黒い細身の制服を小粋に着こなしたバーテンダーのマスターさん、

店の奥に配置された7色に光るカラオケ装置。

鹿内さんが常連だというオトナの世界。

私は初めて来るバーという店を前に、頭がクラクラして、

お腹の空きも忘れてしまっていた。

「ふふふ。こういう所、つぐみちゃんは初めてよね。」

薫さんがキョロキョロと店内を見渡す私を見ながら、赤ワインの入ったグラスをマスターから受け取った。

あっという間にカウンターにはグラスとおつまみが並ぶ。

鹿内さんは水を得た魚のように、ハイボールを一気に飲み干し早速お代わりをしている。

「初めて弘毅と信二がこの店に来たのは、まだ大学入ったばかりの時だっけ。野球サークルの五郎ちゃんに連れられて来たのよね。」

「野球サークルでは先輩の命令は絶対だからな。」

「そういえばこの前信ちゃん来たわよ。

ひと昔前のガングロ娘みたいな彼女連れて来ていた。」

「信ちゃん素敵なのに、女の趣味は悪いのよね。」

薫さんがため息をつきながら、赤ワインを口に含む。

信二兄ちゃんが素敵?

「信二はここのソッチ系の姉さん達に、人気があるんだぜ。」

「へえ・・・そうなんですか。意外。」

「オカマの姉さん連中は信二みたいなムチムチしてて、童顔の男が好きらしい。

でも信二は根っからの女好きだから、相手にしてないけど。」

そう言うと鹿内さんは熱々のピザを口に含んだ。

確かにここの料理は絶品だった。

出汁巻き卵も、鹿内さんから一切れ貰ったピザも、とても美味しい。

「つぐみ、LGBTって知ってる?」

私がウーロン茶をすすっていると、鹿内さんは突然私の方を向いて言った。

右手に持ったままの、ハイボールが入ったグラスの中の氷がカランと鳴った。

「聞いたことはありますけど、具体的にはあんまり・・・。」

「Lはレズビアン、Gはゲイ、Bは両性愛、Tはトランスジェンダー。

レズビアンは女が好きな女。

ゲイは男が好きな男。

両性愛はバイセクシャル、つまり男も女も愛せる人間。

トランスジェンダーはまたの名を性同一性障害、

つまり心と体の性が一致していない奴。

この店にはそんな連中が集まってくるんだ。」

「そうなんですか・・・」

「薫はゲイだしマスターはトランスジェンダー、本当は女だけど心は男。」

あのスラリとした格好いいマスターが、実は女性だったとは驚きだ。

私はカウンターの向こうで、グラスを白い布で磨いているマスターの端正な横顔を眺めた。

「奴らはみんな性的マイノリティだ。

白い目で見られることも多々ある。

でも奴らは奴らなりに自分に正直に生きようとしているのさ。」

そう言うと鹿内さんは4杯目のハイボールを口に流し込んだ。

「・・・何が言いたいかっていうと、結局人間っていうのは千差万別だということ。

男だろうが女だろうが良い奴もいれば腐った奴もいる。

君が今まで出会って来た男はたまたま相手が悪かっただけだ。

男だってだけで毛嫌いするのは、人生損するよ。」

まるで沙耶みたいなこと言う。

「鹿内さんだって女嫌いじゃないですか。」

「俺は女の友達はいる。ただ女を全面的に出して迫ってくるヤツが嫌いなんだよ。」

「そのボーダーラインはなんですか?」

「人間として尊敬できるかどうか、かな?」

「人間として・・・ですか。」

「そう。」

たしかに私は「男」ってだけで避けて、人間関係を狭めてきたのかもしれない。

男だからといって勝手に壁を作るのは違うのかな・・・。

そのとき私はひらめいた。

「鹿内さん。私、わかっちゃいました。なんで私なんかを彼女役にさせたのかを。」

私はニヤニヤしながら、ピザをモグモグと口の中いっぱいにしている鹿内さんの肩をつんつんと人差し指でつついた。

「ん?」

私は周りに聞かれないように精一杯小さな声で鹿内さんの耳元で囁いた。

「鹿内さんもソッチの人なのでしょ?」

「ああ?」

声が小さすぎて鹿内さんに聞こえなかったようなので、もう少しだけ声を大きくした。

「鹿内さんもゲイってヤツなんですよね。男の人が好きなんでしょ?」

「はあ??」

「そりゃ女性に言い寄られたら嫌ですよね?心中お察しします。」

すると鹿内さんは飲んでいたハイボールが気管支に入ってしまったように大きくむせ返った。

「ちょっと待て。勝手に決めつけんなよ。」

「いいんです。私には本当の自分をさらけ出してください。私、そういうの偏見ありませんから。」

「いや、たしかに俺はLGBTの奴らとつるんでるし、尊敬もしているけど、男をそういう目で見たことは一度もない。」

「あ・・・そうなんですか?私、てっきり」

「今、俺の彼女は誰なの?つぐみだろ?そこんとこ忘れんなよ?」

「あ、そうか」

私は考え事をするときの癖で、爪を噛んだ。

すると鹿内さんは薫さんをちょいちょいと手招きした。

「あのさ。実は言い忘れていたことがあってさ。ここだけの話にして欲しいんだけど、いいか?」

「えーなになに?弘ちゃんの秘密が聞けちゃうわけ?!」

薫さんはエサに食らいつく猫ように、目をランランと輝かせた。

「つぐみは俺の女だから。」

「えええええー!!」

薫さんは大阪の芸人のようなリアクションで目を見開き、大袈裟にのけぞった。

それ以上に私の目も見開いた。

「マジで??」

「うん。マジで。」

「どうしよう。私、大変な秘密知っちゃったわ。ああ、どうしよう。」

「どうもしねーだろ。別に。」

「あの女なんか腹の足しにもならないと毛嫌いしていた弘ちゃんがねえ。

しかもそのお相手が女子高生だとは。

美也子ちゃんよりつぐみちゃんか。

いや、いいと思うわよ。

豪華なデコレーションケーキより可愛くて素朴なショートケーキを選ぶ、みたいな?」

薫さんはここだけの話と言われたのにもかかわらず、今手に入れた情報を誰かに報告しなければ我慢ならないようで、さっそくマスターに耳打ちしている。

「ちょ、いきなり何言っているんですか?!」

「藍色のマグカップ。」

「わかっていますって!水戸黄門の印籠みたいに言わないでください。」

「薫ひとりに言っておけばいいんだ。明日中には仲間内全員に知れ渡るから。

アイツ、隠し事なんか出来ない奴だからな。」

私たちは口に両手をあてて右往左往している薫さんを眺めた。

お酒も飲んでないのに少し酔ったみたいだ。

私はこの薄暗い空間につられて茶色い液体が入っているグラスを両手で持ちながら、

ぽつりと鹿内さんに本音を漏らしてしまった。

「私だって出来ることなら、本当は男嫌いなんて治した方がいいとは思っているんです。」

「へえ。そうなの?」

「将来結婚して子供も産んで、孫をパパとママに見せてあげたい、

親孝行したい、そう思っているんです。

でも叶えてあげられそうもない、そんな自分が情けないと思うこともあります。」

鹿内さんは頬杖したまま、少しの間、沈黙した。

「結婚だ出産だと考えるのはちょっと早いと思うけど?

まだ高校生だろ?それに結婚ていうのは親のためにするものじゃない。」

「でも私が結婚すればパパやママだって安心するでしょ?私の幸せな結婚がパパやママの幸せになると思うんです。」

「結婚したからって幸せになれるとは限らないぜ。結婚は人生の墓場って言うからな。」

「人生の墓場だろうがなんだろうが、親を安心させてあげられるなら上等ですよ!」

私は語気を強めてグラスをテーブルに置いた。

グラスが音を立てて、中に入っていたウーロン茶がこぼれ、テーブルを濡らす。

「ご、ごめんなさい」

私は紙ナプキンであわててテーブルを拭いた。

鹿内さんは手に持ったグラスの中の氷を揺らした。

カランと小さく氷がグラスに当たる音がした。

「どこかの偉い学者が恋は3年、愛は4年で冷める、ってさ。

なんでも恋愛を促す脳にあるドーパミンという物質がなくなるらしい。

だからもし結婚するのなら、愛だの恋だのという一時的な衝動に流されないで、経済力があって価値観が同じ男を選ぶのがいいと思うよ。」

鹿内さんは私をなだめるように背中をぽんと叩いた。

「そう思い詰めるなよ。」

「・・・・・・。」

「どこの馬の骨ともわからない男と打算的な結婚をする覚悟があるのなら、俺にしとけば?

俺ならその条件を満たしていると思わない?

愛なんてあやふやなものは与えてあげられないかもしれないけど、女が嫌いだから浮気は絶対しない。教師は安月給かもしれないが、職業としては安定しているから金の心配もいらない。子供だって作ってやるよ。

セックスなんて愛がなくても出来るからな。こんな優良物件そうそうないと思うけど。」

「・・・そうですね。私も愛なんて一生かけても理解できそうにないですから。」

だったら信二兄ちゃんの親友であるこの男と偽装結婚でもなんでもして、両親を安心させてあげるのもひとつの手かもしれない。

「ま、そういう選択肢があるってことも頭に入れておいてよ。

俺はそれが君にとってbestな選択肢だと思うけどね。」

鹿内さんは鼻で笑った。

「つぐみはまず、男に慣れることだな。」

「男に慣れる?」

「同じクラスの男子と友達になってみるとか。」

「私、女子校なんです」

鹿内さんは顎に指を添えて真剣に考えてくれている。

「じゃあ、とりあえず合コンとか行ってみたら?」

「合コン・・・ですか。」

「合コンであった男と俺を比べてみてよ。俺の良さがわかるから。」

「はあ?」

どれだけ自分に自信があるんだろう?

「でもヤリモクな男には絶対についていくなよ?」

「ヤリモクってなんですか?」

「女とヤるだけが目的な男。ヤるだけヤってすぐ女を捨てる男。昔の俺みたいな。」

鹿内さんはそう自嘲気味に語気を強め、ハイボールを一気飲みした。

「・・・さっきからエッチなことばかり言わないでください。」

「でもこういうことはハッキリ教えないと、君の身を守れないだろう?」

「私が合コンに行ってもいいんですか?」

「それを止める権利は、いまのところ俺にはないからね。」

「もしそれで本当に彼氏が出来たら、彼女役なんて辞めさせてもらいますから。」

「そしたら、つぐみが「愛」を知ったお祝いとして、マグカップを買ってやるよ。」

そう言い捨てると、鹿内さんは煙草を切らしたと言って、店を出ていった。

なによ。馬鹿にして。

なんでこんなに冷たい男がモテるのか、私には全然理解できない。

私だってその気になれば彼氏のひとりやふたり、余裕で作れるわよ。

そう憤慨する私の両隣にいつの間にかマスターと薫さんが神妙な顔で、頬杖を突きながら矢継ぎ早に質問してきた。

「ねえ、最近の弘ちゃん、お家ではどう?」

「落ち込んだりしてない?」

私は迫力の二人組からドアップで迫られ、あたふたしながら答えた。

「わ、私の目には元気そうに見えますけど。食欲もありすぎるくらいありますし。」

「そう?ならいいけど。」

薫さんはホッとした顔になると、内緒話をするように小声になった。

「弘毅の家、複雑らしくてね。」

「複雑?」

「うん。弘毅が中学生の時に、お父さんが外で女作っちゃったの。

ようするに不倫ね。

それで弘毅の実のお母さんは、ノイローゼになって弘毅を置いてひとりで家を出て行っちゃったんだって。そしたらすぐにお父さんとその浮気相手の女が結婚しちゃったってわけ。そればかりか、実のお母さんにも別の男がいたらしくて。でも中学生っていったら多感なお年頃じゃない?ひどい話よね。」

「じゃあ鹿内さんは、中学生のときからお父さんと義理のお母さんの元で暮らしていたってことですか?」

「それがそうでもないみたい。弘毅はお父さんが再婚して2年も経たずに、従兄の家に居候していたみたいよ。でもその従兄さんが結婚しちゃって追い出された感じ?」

だからどこにも行くあてがなくて、鹿内さんはウチに居候しているの?

鹿内さんが女嫌いなのも、実のお母さんに捨てられたと思っているから?

私は鹿内さんについて、疑問に思っていたパズルのピースが、少しづつはまっていくような気がした。

「そんなことも女嫌いの要因のひとつなんじゃないかしら?

だから美也子ちゃんのことも受け入れられなかったのかも。」

マスターが腕を組んでうんうんと頷く。

「あら。今はもうつぐみちゃんがいるから大丈夫よ。ね?」

薫さんの言葉に私は申し訳ないような気持ちで

「はい・・・」と相槌を打つことしか出来なかった。

そういえばさっきも「ミヤコ」って固有名詞が出てきたっけ。

「あの・・・ミヤコさんて?」

「弘ちゃんのことを追いかけまわしている、ミス早慶大学。

私も一回だけ会ったことあるけど、すごい美人。

花に譬えると胡蝶蘭みたいな?」

「いや、あれは真っ赤な椿よ。」

「美也子ちゃんはゴージャス美人だからやっぱり胡蝶蘭!」

「いや、あの子は和風美人だからやっぱり椿よ!」

薫さんとマスターが言い争いをしている間、私はウーロン茶の入ったストローをくるくる回しながら、いまさっき聞いた話を頭の中で反芻していた。

あの偽悪的な言葉や態度の裏には、そんな複雑な事情が隠されていたんだ。

そんなことも知らなかった自分が子供に思えて、なんだかショックだった。

鹿内さんには単に自分に付きまとう女が鬱陶しいだけでない、大きな女嫌いの理由があったのだ。

それにしてもミス早慶大といったら、その大学で一番綺麗な女性ってことだよね。

そんなすごい美人が鹿内さんを付きまとっているんだ。

そんな人をダマすなんて私に出来るの?

「でも、弘毅がこのお店に連れてきた女性は、つぐみちゃんが初めてよ。

弘毅ったらモテるのにどんな女の子にもなびかなかったんだから。」

「自分でも俺はモテるって、いつも言っています。」

「つぐみちゃんは妬いたりしないの?」

「別に。」

「今どきの女子高生はドライね。」

だって本当の恋人同士じゃないし、煮ても妬いてもあの男は食えそうにない。

「そうだ!つぐみちゃん、連絡先教えて?お友達になりましょ。」

「いいんですか?」

「早くスマホ出して!」

「は、はい!」

なかば強引に薫さんと連絡先を交換させられてしまった。

「お前ら、いつの間にライン交換なんてする仲になったんだ?」

私の後ろにはいつのまにか店に戻ってきていた鹿内さんが、煙草をくわえながら、私と薫さんを見下ろしている。

「んふふ。内緒!」

「つぐみ。俺にも連絡先、教えて。」

鹿内さんはポケットから黒いスマホを取り出した。

さすがに連絡先くらいはお互い知っておかないとまずいか。

「いいですけど。」

「なに?あなた達恋人同士なのに、まだ連絡先の交換もしてなかったの?それになんか二人の会話、よそよそしいわね。」

薫さんが信じられないという目で私と鹿内さんを不審げに眺めた。

「まだ付き合って間もないんです、私たち。」

「そういうこと。なっ!つぐみ。」

鹿内さんは自分の腕に私の腕を絡ませた。

鹿内さんのラインのアイコンは可愛いトイプードルの写真だった。

多分これがマルコだ。



「無理!ほんとに無理!!」

私は店に出た途端に鹿内さんの腕を振りほどいた。

「ははは!そう嫌がるなよ。あれくらいしなきゃ皆信じないだろ?

つぐみだって結構ノリノリだったじゃないか。」

「あれは仕方なくです。大体、あの人達を騙す必要あったんですか?」

「敵を欺くならまずは味方からってね。」

「花と乙女」を出た私と鹿内さんは、渋谷駅から山手線で帰ってきた。

行楽帰りの人々で、電車の中はかなり混雑していた。

私は知らない男の人の波に押されて、息が出来なくなった。

運悪く、周りは皆、男だらけだった。

なんだか気持ち悪くて、呼吸が苦しくなった。

その時鹿内さんはドア側に私を誘導し、自分の身体と両手で囲い込むように守ってくれた。

いつになく顔と顔が近づいて、鹿内さんの煙草の匂いが私の鼻孔を刺激した。

「嫌だろうけど、少し頑張ってくれ。」

鹿内さんは私の耳にそう囁いた。

私はただ頷くことしか出来なかった。

お礼の言葉さえも声に出せなかった。

心臓が50メートル走のタイムを測ったあとのように鼓動を鳴らすのは、電車の中の男達が怖かったからなのか、鹿内さんの体温が近かったからなのか。

鹿内さんが透明なバリアで外界から守ってくれているのを、ふわふわした気持ちでもう一人の自分が眺めていた。

私を囲い込みながら、どこか遠くをみつめている鹿内さんは、まるで別人のように私の知らない顔をしていた。



気が付くと私は昔に戻っていた。

暗闇の中、どこに進んでいいかわからなくてただ怯えていた。

今にも何か恐ろしいことが起こりそうな騒音が聞こえてくる。

何かの叫び声。

それが自分のものなのか、他人のものなのかもわからない。

顔にぬるりとした冷たいものが当たる。

怖い!

怖い!

側にこないで・・・触らないで・・・追いかけてこないで!

叫びたくても声が出ない。

助けて・・・誰か助けて!

その時、誰かが強い力で私の手を引いてくれた。

誰かの顔がぼんやりと霞んで見える。

私を助けてくれたのは誰?

でもどうしてもそこから先は、霧の中でぼやけて消えてしまう・・・。





その時目覚まし時計のじりりりという耳障りな音が響き、

ハッと目を覚ますとそこにはいつもの白い天井が見えた。

夢か・・・。

私はベッドから布団を蹴とばすように飛び起きた。

カーテンを開けると、朝日が眩しく、小鳥たちの声が聞こえてくる。

久しぶりに怖い夢を見た。

今でも心臓がバクバク音をたてて、汗がうっすらと素肌を濡らしている。

なんであんな夢を見たんだろう?

最近はもうとっくに記憶の奥底に沈んでいると思っていたのに。

私は私を助けてくれる誰かを探しているの?

ううん。自分で自分を助けなきゃ。

誰かに救ってもらうのを待っているだけじゃダメだ。

いきなり彼氏を作るのはハードルが高いけど、男の友達を作るのはいいことかもしれない。

同じ人間として男と接する・・・それは最初から毛嫌いしていた男という異性への偏見の目を無くすという意識の変換方法だと思った。




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