わけあり家令の恋
 残された杉崎は途方に暮れたように夜空を仰いでいる。
 その視線がふと、私がいる東屋の方に向けられた。

「えっ?」

 杉崎は仰天した様子で、眉を寄せて目を凝らした。
 私がベンチに座っていることに気がついたのだ。

「……奥様?」
「杉崎さん」

 私は反射的に立ち上がり、走り出そうとした。

「ご、ごめんなさい! 立ち聞きするつもりはなかったの」
「奥様、待って! どうかお待ちください!」

 部屋に戻るには、杉崎のそばを通らなければならない。私はなんとか脇をすり抜けようとしたが――。

「あっ!」

 靴先が張り出した木の根に引っかかり、大きくバランスを崩してしまった。

「危ない!」

 次の瞬間、私は杉崎の腕の中にいた。転びそうになったところを抱きとめてくれたのだ。

「大丈夫ですか?」

 澄んだ瞳が心配そうにのぞき込んでくる。

「……え、ええ」

 それ以上、何も言えなかった。

 その腕の力強さ、広い胸のあたたかさ、ほのかな石けんの香り――初めて杉崎に触れたことで、私は改めて自分の気持ちを確信したのだ。

 もう自分をごまかすことはできない。

「ごめんなさい!」

 私は杉崎を突き飛ばして、彼のそばを離れた。

(もうここにはいられない。だって、わたくしは杉崎さんのことが――)

 いつの間にか涙が頬を伝っていたが、私はそれさえ気づかずに走り続けた。
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