押しかけ婚〜あなたの初恋相手の娘ですが、あなたのことがずっと好きなのは私です
第2章
「お疲れ様、遠藤さん」
「お疲れ様、片桐さん。今日も忙しかったね」
「金曜日の月末ですから。月末月初は仕方ありませんね」

私は大学を卒業し、二年前から大手銀行 みぎわ銀行に勤めている。
窓口業務が主な仕事。
業務が終わって更衣室で私服に着替え帰るところだ。

「ねえ、それより。またあのお客さん閉店までいたわね」
「・・・・そうだね」

彼女が「あのお客さん」と言ったのは一ヶ月前に新規口座を開きたいと相談に来た橘 圭吾さんという名の四十歳くらいの男性のこと。
最近はやりの個人投資を始めたということで、それようの口座を作りに来た。その時たまたま私が担当した。
それから時々銀行の窓口が閉まる時間に来て、通帳の入出金を記帳したり、振り込みを依頼してくる。
記帳ならATMでも出来るし、振り込みも窓口よりキャッシュカードを使ってATMで行った方が手数料も安いと言っても、窓口での対応を誇示する。

「なんだか気持ち悪いのよね」
「お客様をそんな風に言ったらだめよ」
「わかっているんだけど。あ、ねえ、今日はこの後予定ある?」
「今日は・・・あ、ごめんなさい。電話出てもいい?」

仕事中は携帯の電源を切っていたため、電源を入れた途端、電話が鳴った。発信者は真奈さん。

「もしもし、真奈さん? え、えええ、はい。わかった。すぐに帰るね」

真奈さんからの要件を聞いて、私は慌てて帰り支度を急いだ。

「何、急用?」
「うん。そう。ごめん。じゃあお先に」

更衣室にいる他の同僚たちに別れを告げて、私は慌てて銀行を飛び出した。

「タクシー」

家から銀行まではいつも電車を使う。でも今日は駅まで歩いて電車が来るのを待っている時間が無い。

「片桐さん」

タクシーが停まって乗り込もうとすると名前を呼ばれた。

「はい?」

振り返るとそこに、さっき話題に上がっていた橘さんがいた。

「えっと・・・橘・・・様?」

今は夜の七時。銀行の窓口が閉まってから四時間が経っている。手には大きな薔薇の花束。

「あ、あの」
「お客さん、乗るんですか」
「あ、はい、乗ります。あの、急いでいますので」

運転手さんに急かされ、私は彼に頭を下げてタクシーに乗った。

「お客さん、彼氏、一緒じゃ無くて良かったの?」

タクシーが走り出し、後ろを振り返ると橘さんはまだそこに立ってこちらを見送っていた。

「え、違います。彼氏じゃありません」
「じゃあ、告白かな」
「それも違います。あの人はお客さんで」

タクシーの運転手さんの勘違いを必死で否定する。

「そうかい?」
「あの、それより少し急いでください」

どうしてそう思われたのかわからないが、今は一分一秒でも早く家に帰ることが重要だ。
真奈さんからの電話は、しいちゃんが帰ってきたという電話だった。
しいちゃんが秘境の写真を撮るために海外へ旅立ったのは六年前。当初は五年で帰ってくるはずが、途中でもう一件別の仕事が入り、そっちと平行していたため一年遅れた。
帰るときには連絡してと言ってあったのに、真奈さんが買い物から帰ってきたら、ちょうどマンションのエントランスで出くわしたのだという。
詳しいことは聞かなかったが、真奈さんの口調から最初は自分の息子だと気づかなかったらしい。
どんな風に変わっているのか。途中渋滞に巻き込まれたが、何とかマンションに辿り着き、電子マネーで決済してタクシーを降りた。

「しいちゃん」

慌てて玄関を開けて、叫んだ。

「・・・・?」

けれど返事が無い。もしかしたら真奈さんのところかとも思ったが、玄関には凄く汚い登山靴が転がっている。
不思議に思って浴室を覗く。脱衣所に湿気が残っていて使ったのがわかる。でもそこにもいなかった。
次に寝室を覗いた。

「あ、いた」

ベッドにうつ伏せになって、足も膝から下がはみ出した形でパンツ一枚で寝ている。近づいてみると、長い髪を乾かし切れていないままで、もみあげまで伸びている。よく日に焼けていて頬も痩けている。真奈さんが一瞬息子だとわからなかった理由がわかる。
でもそれだけ。目の前には六年ぶりに見るしいちゃんがいた。

「お帰りなさい」

ぐっすりと眠るしいちゃんの顔にかかった前髪を掻き上げ、私はそっと額にキスをした。
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