【一部】倉敷柚子葉の浮世事情【完結】

壱ー三


 時刻は十一時十八分。
 コンコン、コンコン。と窓ガラスを突き続ける(カラス)に目を向ける。

 彼なのか彼女なのかは分からないが、奴を追い払わなければならない。でなけれ延々と窓を突かれそうだ。
 
 窓ガラスを小突く鴉に合わせ、こちらも指先で小突き返す。それでも奴は立ち去らなかった。

 仕方なく窓を開けた。
 シゲシゲや千代子お祖母ちゃんを起こさないよう、シッシと手を扇ぐ。
「うるさいよ。カーカー鳴かないのはマシだけど、夜中なんだから勘弁してよ」

 屋根の上を飛び跳ねる鴉。俺の手の動作に反応したのか、彼は首を傾げた。

 それにしても妙に人懐っこい奴だ。
 人間を見ても動じないなんて、本当に頭がいいんだな。と考えながら鴉の首元を見る。

 そこにはネームプレートのような首飾りがあり、プレートには"ヤタ君"という文字が彫られていた。

 近づいてきた鴉の頭を撫で回す。
「お前、ヤタ君って名前なのか。なあ、ヤタ君。昼間の出来事は気にしなくていいよ」

 俺が昼間にやった事は、あくまで運転手からされた親切を鴉に与えただけだ。

 親切を与えたものに更なる親切をされても、何も返せやしない。

 瓦の屋根を飛び跳ねる鴉に手を振る。
「お前は良い奴かもしれない。でも、正直な話、お前の態度は恩着せがましいよ」

 コクリと頷く鴉。
 だが、言ってる事が理解できないらしく、ヤタ君は再び窓ガラスを突き始めた。

 世の中では鴉は頭が良い鳥だと言うけど、ヤタ君の場合は違うようだ。
 コツン、コツンとヤタ君は窓を突き続けた。

 頭が悪いヤタ君。そんな彼に呆れ果てた。
「分かった分かった。昼間は喉が乾いて、今度は腹が減ってるんだな? 何か用意してあげるから、静かにしてろよ」

 ヤタ君が立ち去るのを祈りながら、窓ガラスを閉じてみる。
 すぐさま部屋を飛び出した俺は、一階に続く階段を駆け降りた。
 
 階段を駆け下りて廊下を見回す。
 
 シゲシゲのイビキが廊下にまで聞こえて来る。
「よかった。二人とも寝てるっぽいな。しかし、夜中に冷蔵庫を漁るって泥棒みたいだな」

 二人を起こさないように壁を沿うよう歩き続ける。
 一歩、二歩、三歩と廊下を進んだところで後ろを振り返る。嫌な気配がしたからだ。

 通って来た廊下を凝視してみるが、微かに影が動いているだけで誰も居なかった。

 すかさず冷蔵庫の取手に手を掛ける。
 冷蔵庫の前に立ち「配置に着いた。目標を視認した」と、ふざけたミッションを報告。

 冷蔵庫に到着したはいいものの、ヤタ君の好物はなんなんだろう。

 ラップに包み込まれた料理やむき出しの野菜が目に入る。
「茹でたトウモロコシ、きゅうり、里芋の煮っ転がし、あとは――」

 都内の鴉はなんでも食べると言う。コンビニのゴミを漁ることもあれば、生ゴミや小動物でさえも。

 でも、ヤタ君の場合はどうなんだろう。
 ネームプレートを首にぶら下げているからするに、どこかの家で飼われてるペットなのかもしれない。
 
 もしそうだとしたら、相当アイツの舌は肥えてるのかもしれない。

 もしも倉敷家のトウモロコシ畑を彷徨いていたとするならば、奴はトウモロコシの味を覚えてるのかもしれない。

 かもしれないの連続が脳裏を過り、俺は考えに考え抜き、冷蔵庫から一本のきゅうりを取り出した。
「ヤタ君には贅沢すぎるけど、まあいいか」

 冷蔵庫の扉をそっと閉めてしゃがみ込む。ついでに冷凍庫からアイスを拝借。

 包装紙を破ると、禍々しいほどに輝く"黄金のパピコ"の姿を現した。
「本当は志恩と葉月と分けて食べたいけど、こればっかりは三人では分けられないし、仕方がないよな」

 パピコの片割れを冷凍庫に戻した。その時。廊下の奥から襖の開く音が聞こえた。

 バタバタと足音を鳴らす誰かは、俺がいる厨房へと一直線に向かって来てるようだ。
「バレたら恥ずかしい。隠れなきゃ」
 
 きゅうりを片手に、俺は居間へと続く襖を開いた。
 何者かが厨房へたどり着く直前に居間へと身を隠す。

 密閉された居間は熱気がこもっていた。
 緊張で喉がカラカラになり、すかさず持っていたきゅうりをかじり、襖を閉じる。
「こんな時間に誰なんだろう。いや、そもそも俺も深夜に何やってんだよ」

 襖の間から何者かを見る。
 厨房の照明を点灯した何者かは、既視感のある人物だった。
「千代子お祖母ちゃんだ。こんな時間に何やってるんだろう」

 まな板の上に石を乗せた千代子お祖母ちゃん。間髪入れず、彼女は包丁棚に突き刺さっていた包丁を取り出した。

 割烹着姿のお祖母ちゃんは、スルリ、スルリと包丁を研ぎ始める。
 
 襖の隙間から覗く俺は、厨房に立った千代子お祖母ちゃんを目で追った。

 目を凝らしてよーく見ると、何だか違和感を感じた。
「あれ、お祖母ちゃん?」

 包丁を研ぐ女性の後ろ姿は、紛れもなく千代子お祖母ちゃんだった。でも、なんだかいつもと雰囲気が違う。

 眉を擦り目を擦る。

 包丁を研ぎ続けるお祖母ちゃん顔が徐々に若返っていき、俺は自身の目を疑った。
「寝ぼけているせいなのかな。さっさと部屋に戻るとするか」

 千代子お祖母ちゃんに気づかれないよう、居間から縁側に向かった。

 目を擦りながらお祖母ちゃんの横顔を思い出す。
 そこには俺が写真でしか見た事がなかった、若い頃の千代子お祖母ちゃんの姿が確かにあった。
「縁側を通り、庭園を抜けて玄関に戻ろう。それなら千代子お祖母ちゃんに気づかれないはずだ」
 
 庭園へと続く踏み石に足を置いた途端、強烈な違和感を感じた。
 月明かりが照らされた縁側に、人影のようなものが写っているのに気づいたからだ。
 
 縁側に写った2つの黒い影を目で追っていく。するとその先には立派な松の木があった。
 
 いや、松の木だけではない。そう思ったのは、松の木に寄り掛かる人間の姿。そして、松の木にぶら下がる"小鬼"の姿があったからだ。

 突如やってきた非日常的な光景に息を呑むしかなかった。

 紙覆面で顔を覆い、松の木に寄りかかる陰陽師。
 相手が陰陽師だと思ったのは、紙覆面に太極図のような印が描かれていたからだ。

 通りすがりの陰陽師が何の用だろう。もしかすると、河口町に一軒しかないコンビニが深夜に閉まっているからか? だとしたら、コイツはトイレが借りたくて訪れたのだろうか。

 馬鹿げた考えが脳内に駆け巡るなか、彼らを刺激しないよう平然を装い、横目で陰陽師を見る。
「貴方たち、申し訳ないけどトイレは貸してあげられないわ。倉敷家は先祖代々、他人にトイレは絶対に貸さないという家訓を重んじる家系よ」
「……(かわや)を借りようと思って訪れたのではない。お主に用があって来たのだ」

 不審者に対して何を言っているんだろう。俺はやっぱり馬鹿なのかもしれない。

 下げていた頭を上げる。そこには二人の現実離れした非日常的な存在が居たままだった。
「警察を呼ぶ……からね」

 ポケットに入っていたスマホを手に取るが、恐怖のあまり、思うように指が動かなかった。
 
 体の震えを抑えながら、陰陽師の顔を見る。思わず目が合ってしまう。
 
 紙覆面。紙覆面越しでも、ハッキリと分かるほど、男と目が合う感覚があった。

 十年前のあの時の感覚が蘇る。
 恐怖の感覚が俺の全身を包み込もうとしていた。

 現実には存在しない物。それが目の前にいるんだと、五感の全てが俺に言い聞かせる。

 ジャージに縫い付けられた鬼避けの護符へと手を伸ばす。しかし、そこには鬼避けの護符がなかった。
 いや、正確にいうのであれば、部屋着でいたからジャージを着てなかっただけだ。

 十年前のあの日、赤鬼に襲われた時の事を思い出す。
「に、逃げないと……」
 
 なるべく視線を合わせないように振り返ろうとする。でも、不気味な程に笑みを浮かべる鬼が目に入った。
 
 突如、陰陽師が振り上げた腕の動作と共に、松の木の枝にぶら下がっていた小鬼は動き出した。

 死ぬ。そう直感したのは十年前の出来事が脳裏に浮かんだからだ。
 
 松の木から飛び出した小鬼は、縁側に立っていた俺に向けて突進してきた。

 恐怖で数ミリも動けなかった俺は、数センチの距離まで迫ってくる小鬼を睨みつける。
 その時。俺に突進してきたはずの小鬼は、見えない何かに弾かれてしまって庭園の池に吹っ飛んだ。

 驚きのあまり、俺は腰を抜かしてしまう。
「今の――何なの」

 見えない何かに弾かれた小鬼。
 ボンっという音と共に紙人形に姿を変えるのが見えた。

 宙に浮かんだ紙人形を見る。そこには草書体で書かれたようなふにゃふにゃの文字が書かれていた。
「何かの文字?」

 何の文字かは分からない。でも、文字を囲うように五芒星のマークがあったのには気づけた。

 陰陽師の指先に戻る紙人形。それを目で追っていた俺は、紙覆面から顔を出した陰陽師と目が合う。

 縁側で腰を抜かしながらも、陰陽師が寄り掛かっていた松の木の方へと手を伸ばす。
 
 あの顔。間違いない。俺が忘れるわけなんてない。と思い、縁側から身を乗り出した。
「葉月――兄さん」

 葉月兄さんの顔をした陰陽師へと手を伸ばす。
 その時。背後にいた何者かが、俺の小さな両肩をガッシリと掴んだ。

 背後を振り返る。そこにいたのは千代子お祖母ちゃんだった。
 居間からこっそり見てた通り、お祖母ちゃんの姿は縁側に立っても、数段に若くなっている。

 さっきのは見間違いじゃなかったんだ。

 お祖母ちゃんの姿、陰陽師の顔、小鬼。現実離れした全てを理解できず、俺はたじろいだ。
「お祖母ちゃん。あの人――もしかして」
「柚子葉。あれは葉月ではないわ。落ち着きなさい」

 千代子お祖母ちゃんはそう言っていたが、陰陽師が紙覆面から覗かせた顔は、紛れもなく葉月兄さんの顔をしていた。

 兄さんだという確信があった。でも、同時に千代子お祖母ちゃんは、あの陰陽師が葉月兄さんではないと否定している。
 
 呆然とする俺をなだめるお祖母ちゃん。

 お祖母ちゃんに合わせていた視線を庭園へと向ける。
「ほら、あそこに葉月兄さんが」
「落ち着きなさい。柚子葉」
「こんな時に落ち着いていられねえよ! それに、さっきのは何なの? 陰陽師みたいな格好してたし、式神みたいな鬼も出してきた。一番疑問なのは、今の千代子お祖母ちゃんの姿だよ!」
「ごめんね柚子葉。今度話してあげるわ」

 十や二十じゃない。それ以上は若返ってるお祖母ちゃんに指を向けたあと、松の木の方へと指を向ける。
「あれ? 消えてる」
 
 庭園に生えた松の木へと指を差す。そこには陰陽師の姿がなかった。

 そこから俺は取り乱した。
 十年前に消えた葉月、十年振りの妖怪との遭遇、美人なお姉さんに姿を変えた千代子お祖母ちゃん。

 何から何まで、理解が出来なかった。
 非日常的な出来事に頭が追いつかない。

 俺と千代子お祖母ちゃんの話し声に気付いたのか、シゲシゲが居間に現れた。

 一直線に縁側へと向かうシゲシゲは、前方の松の木に目を向けていた。

 非現実的な光景を目にした俺は、シゲシゲに伝えようと駆け寄る。
「シゲシゲ。さっき葉月兄が来てた。葉月兄――」
「落ち着け柚子。あれは葉月じゃあない。あれは怪異、物の怪、妖怪と呼ばれる存在だ」

 シゲシゲに抱きつく。何か違和感があった。

 硬い何かで身を包んだシゲシゲを見る。そこには鴉天狗の仮面を被り、武士の甲冑に身を包み、薙刀を握りしめるシゲシゲの姿。

 薙刀を持ち、シゲシゲは庭園に飛び降りる。
 
 シゲシゲの言葉が理解できない俺は、薙刀を振り回すシゲシゲと物干し竿を金砕棒に変えたお祖母ちゃんを目で追うことしかできなかった。

 二人は「千代ちゃん。屋敷の結界に穴が空いてたようじゃな」「あらあら、面倒な事になったわね」等と言って、屋敷を見上げている。

 若いお姉さんの姿に変わったお祖母ちゃんを見ても、何事もなかったように縁側に戻るシゲシゲ。

 さも当たり前のように、金砕棒を物干し竿に変化させた千代子お祖母ちゃん。

 まただ。また"結界"っていう言葉を聞いた。

 十年前の八月二十日。俺が赤鬼に霊魂の半分を奪われた日、志恩と葉月がそんなような事を言ってた気がする。
「柚子。薬王院の参拝だが、やはりワシも着いていくとするよ」
「その方が良いかもしれないわね。柚子葉、シゲちゃんを嫌わないでちょうだい」
「…………」

 二人に屋敷へと戻される。
 結局、俺は二人に何の説明もされないまま居間に戻された。

 居間から廊下を通って階段を登り、葉月兄の部屋に入る。

 さっきまで起こってた非日常的な出来事とは異なり、葉月兄の部屋は日常的な景色をしていた。

 勉強机に乱雑に置かれた人形。志恩が部屋に置いたエロ本の束。
 
 何が起こったのか理解できず、手にきゅうりとパピコを持ったまま布団に入る。
「何が何だか理解できない。さっきのは葉月兄さんじゃないの?」

 俺のか細い声は、部屋に置かれた扇風機によって掻き消された。
 きゅうりをひとかじりした直後、窓ガラスがコンコン、と鳴った。
「ああ忘れてた」

 敷布団から起き上がり、窓を突くヤタ君の傍へと向かう。

 小鬼や陰陽師の事を思い出し、もしかしたらヤタ君も妖怪なんじゃないかと思った。

 でも、違ったようだ。バカな……アホな鳥は、瓦の屋根を飛び跳ねているだけだった。
 
 ヤタ君は相変わらず人懐っこい。人に警戒心を持たないところをみると、やはりどこかで飼われているカラスなのだろう。

 ヤタ君の頭上を飛び越えるようにきゅうりを投げる。
「忘れてた。はい、きゅうり。ヤタ君の口に合うか分からないけど。それじゃあ、おやすみ」

 きゅうりを食べ始めたヤタ君は、一言だけカーッ、と鳴いた。どうやら屋根から飛び立ったようだ。
「なんだ。ちゃんと鳴くじゃん」

 バカな……アホなヤタ君が普通の鴉だと安心し、ガラス窓をしっかりと閉じた。勿論、鍵をしっかりと掛けた。

 それから敷布団の上で横になり、数分や数十分おきに窓へと目を向けた。しかし、ヤタ君は帰ってこなかった。

 万年床の上に乱雑に置かれた赤いジャージに手を伸ばし、胸に抱き抱える。
「大丈夫。今日起こった事は夢だ。鴉も小鬼、シゲシゲも千代子お祖母ちゃん、全部、夢なんだ」

 鬼避けの護符から伝わる霊力を感じ取る。
 段々とまぶたが重くなっていき、ゆっくりとまぶたを閉じた。
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