年下美形元ホストと年上地味教師は、なにがなんでも離れません。
メイ
目に焼き付いて離れない。
少年の面影を残した卵型の顔。
ミストを吹きかけたように艶のある白い肌。
大きく見開いた二重の目と、そこに覗く水を張ったような瞳。
通った鼻筋に、キュッとしまった形のいい唇。
そして──。
漆黒の髪には、トップから流れる華やかなゴールドのハイライト。
右耳には三日月のイヤーカフ、左耳にはダウンスタイルの星のピアス。
光沢のあるシャツの胸元には、大ぶりなパールネックレス。
そんな光るアイテムが、美しい顔を額縁のように飾っていた──。
私は一人夜のリビングで、目に焼き付いているメイの顔立ちをなぞると、深いため息をつく。
それから、私がこんな風になるに至った経緯を思い出す──。
今日の昼下がり、娘の万理とシネコンで人気のアニメ映画を観た。
高校の友人にドタキャンされたと、泣きつかれてのことだった。
推しの勇姿に「カッコよかったー」と涙目で言う万理と共に、物販の長い列に並び、アクスタとパンフレットを購入すると、お盆期間中で混雑したシネコンのロビーを二人で歩いた。
すると──。
突然、目の前に派手な格好をした若い男が現れて、進路を塞がれた。
いきなりの行為よりも顔立ちの良さに圧倒されていると、若い男は隣の万理ではなく、なぜか私に向かって声を放った。
「お紅っ」
えっ──?
知り合いのような物言いと、聞いたこともない名前に驚くと、若い男は少し困ったようにはにかんだ笑みを浮かべた。
美しい表情に、一瞬意識が吸い込まれる。
若い男は黒のサコッシュから、ハイブランドの名刺入れを取り出すと、パールのネイルを施した手で私の前に名刺を差し出した。
「姫、必ずご連絡ください」
反射的に受け取ってしまうと、若い男は口角をくっと上げてにっこりと微笑み、くるりと背を向け、人ごみの中に消えていった。
『勝舞メイ club 百花繚乱 l u x e』
ホストクラブの写真名刺だった。
「なに? それ」
隣にいる万理が覗き込んできた。
「ショウブ? メイ? うっ、やばくない?」
「意味がわからないわ」
すかさず私は言った。
「オベニって言ってたよね。変な名前。昔の人みたい」
「ええ、誰かしら、人違いね。捨ててくるから、待ってて」
私は小さなブロマイドのような名刺を手に、人をよけながら歩を進めた。
なんなの、あの子。誰かと私を完全に間違えている。
でも、すごく綺麗な子だった──。
あんな素敵な男の子から声を掛けられるなんて、きっと人生最初で最後の経験になるわね。
なにか焦っていたのかしら。
こんな年上の私に名刺を渡すなんて──。
そう思ったところで我にかえった。
いいえ、そもそも私は教師。
ホストととは、住む世界が全く違う。
もう考えないでいよう。
私は化粧室に入り、ダストボックスの前に立った。
けれども手に持った名刺を捨てることができない。
たとえ人違いにしても、煌びやかな夜の妖精のような若い男の子に声をかけられた──。
この記憶を形作る名刺を、記念に取っておきたい。
45歳なのに少女のような気持ちになってしまった。
私は写真名刺をそっとバックにしまい化粧室を出た。
戻ると万理がスマホを手に「調べたら姫って、ホスト用語だった。お客さんのこと、そう呼ぶみたい」と言ってきた。
「ママのこと、お紅っていうお客さんと間違えたのかな。
だとしたら、そのお客さん、ママと同じくらいの年ってことだよね。
しかもママと同じで地味なオバサン。
キショッ。そんな人がホストクラブ行くんだ」
万理の言うことは本当だった。
45歳はもうアネフォー。
しかも私はメイクもファッションも極めて地味。
額を出したボブスタイルに、平凡なメタルフレームの眼鏡。
これを10年以上続けている。
学校に来る保護者──富裕層の母親達──のような華やかな格好は、生まれて一度もしたことがない。
私は物心つき、自分を取り巻く状況がわかるようになった頃から、自分が人からどのように見られているか知っていた。
幼稚園の先生からは『大人しくて、扱いが楽』、『でも大人し過ぎて、つまらない子』
まわりの園児からは『言うことをきくから、邪魔にはならない』、『でも自分からはなにもしないから、つまらない子』
私は幼年期から中年期の今に至るまで、自分の自己主張しない性格を変えることなく、この性格に相応しい地味な髪型と地味な服装でずっと生きている。
離婚はしたけれど結婚できたのは、元夫がものすごい俺様系で、生涯にわたって威張り散らしたい相手として私を選んだだけだった。
「もう、忘れましょう」
私は万理にそう言って、シネコンを出ることを促したのだった──。
私はもう一度、ため息をつく。
リビングの時計は、午後の10時半を示している。
万理は自室で勉強している。
万理が幼稚園を卒園した後すぐに、公立高校の教師をしている夫と離婚した。
以後復職し、賃貸マンションで二人暮らしをしている。
職場は小中高一貫の私立女子校で、理科の専任教師として小学部と中学部を行ったり来たりしている。
今は小5のクラスを受け持ち、化学クラブの顧問をしている。
結婚前勤務していた公立と違い、私立は給与はいいけれど保護者の要求がとても高い。
放課後の電話応対も仕事の一つになっている。
それも含めて帰宅できるのは毎晩8時過ぎで、万理が小学生の時は民間の学童保育を6年間利用した。
自治体運営のそれと違い、18時以降も保育可能で、夕食も出るし、送迎もある。
だが至れり尽くせりの分、費用が高く、夏休みは長野県に住む実家の母に来てもらい、万理をみてもらった。
「どうして私だけ、お迎えが来て、違うとこに行くの?」
小学校に上がったばかりの万理が言った。
自分も学校のすぐ隣りにある自治体の学童保育に行き、そこで『みんなと遊びたい』と泣かれ、私は胸が痛んだ。
教師を辞め、残業のない仕事に就けばそれも可能だが、そうすると収入が減り、万理の将来の選択肢を狭めることになるかもしれない。
そのようなことを、子供向けの簡単な言葉で説明すると、万理は理解してくれたようで、泣くのをやめた。
万理が聞き分けがよく、しっかりした娘だったから教師を続けてこられたような気がする。
小学部の親が子育てについて、『×△で困っています』と相談を持ち込んでくるが、そういうのを聞く度に、私は親として恵まれていると思う。
これまで私は万理のことで悩んだことが、一度もなかったからだ。
今、高一の万理は国立大の経済学部を目指し、夏休みの今も勉強に部活に忙しい。
万理は長身の元夫に似て、小5で私の背を追い越した。
運動神経が抜群なのも、元夫に似ている。
細面の顔は、ありがたいことに元夫には似ていず、私の父の姉に似ていて、将来クールビューティーになるだろう造りだった。
小柄で丸顔の私とは、親子なのに見た目が全然違う。
そんな大人っぽい外見に反して、万理の趣味はアニメだった。
でも、それはそれで母親の私にはよいことだった。
リアルな異性愛の心配がないからだ。
万理はほとんどパーフェクトな娘として、成長を続けている。
そんな娘の万理のことを考えると、とても後ろめたいのだけど、今日の午後、シネコンで生まれた思いには逆らえない。
私は外出の時に持って行ったバッグを開け、内ポケットにしまった写真名刺を取り出す。
金粉を散りばめた黒地を背景に、迫力のある美しさで勝舞メイが微笑んでいる。
私はそこに印字された『club 百花繚乱 l u x e』をスマホで検索した。
大手ホストクラブらしく、百花繚乱グループが運営する15店舗のうちのひとつだった。
ゴールドとブラックで統一された店内と、アイドル顔した金髪の代表の画像が現れる。
ドキドキしながらスタッフ一覧をスクロールすると、確かに『勝舞メイ』はいた。
7月のナンバーというページには、No.3のところに勝舞メイの名と顔写真があった。
ナンバー?
意味がわからないので調べてみると、先月の店での売り上げが3位ということらしい。
売り上げランキング上位のホストのことを、ナンバー入りホストと呼ぶそうで、メイはまさにそれだった。
今月のラスソンカレンダーというのもあり、8月3日、6日、10日のところに、クロスのピアスをしたメイの顔写真があった。
『ラスソン』を調べるとラストソングの略だった。
閉店前、その夜一番の売上をしたホストが、自分をそうさせてくれた姫達に向けて、感謝を込めて歌うという。
毎晩が競争。
だから今日もお紅さんとかいう女性と私を間違えて、営業で声を掛けてきたのね。
ホスト業について他にも調べてみると、『育て』と言うのがあった。
甘い言葉や巧みな計略で、姫が沢山お金を使ってくれるように、育て上げていくらしい。
私はもう一度、写真名刺に載ったメイの魅惑的な若い顔を見る。
この子なら育てられても本望と、姫達は思うだろう。
私だって一度くらいなら、ラスソンのためにお金を使っても構わない──。
興奮気味に思い、名刺のLINE IDを見つめる。
『姫、必ずご連絡ください』
メイの声が蘇る。
人違いを理由にLINEしたら、ナンバー入りホストの勝舞メイとほんの少しだけ関われる──。
そう思ったけれど、すぐに首を振った。
11年前に別れた夫が、人生最初で最後の男だった私。
離婚を切り出してきた元夫からは、『つまらなくて、息苦しくなる女』と言われた。
事実その通りだったし、今もそうだ。
そんな私が──、しかもかなり年上の私が──、とびきり綺麗で若いホストに、LINEなんてできるわけがない。
私は大きく頷いた。
そうよ、私はどうかしてる。
ただ人違いされただけなのに、ラスソンとか育てとか、何考えてるの。
だけど──、でも──、やっぱり、連絡したい。
スマホを手に、迷いに迷って時は過ぎ、ついに午前0時。日付を跨いでしまった。
こんな気持ちじゃ、眠れない。
ああ──、もう──どうなってもいいから、LINEしよう。
そう決意した。
『勝舞さん
昨日の午後、映画館のロビーで名刺を頂いた者です
私は勝舞さんが言った、お紅さんという方ではありません
勘違いされたまま、連絡を待たれてもいけないので、夜分ですがLINEしました
失礼します』
45歳地味女に相応しい、分別ある内容であり、おばさん構文でもあるそれを、送信した。
すると──。
えっ?
すぐに既読が付き、秒速の速さで返事が来た。
『立木さん メイです
ご連絡、ありがとうございます
ご心配をおかけして申し訳ありません
お紅は僕の元カノです
立木さんが元カノの雰囲気にとても似ていたので、思わずそう呼んでしまいました
あの瞬間から、立木さんのことがとても気になって仕方がありません
あの場限りで終わりにすることは絶対にしたくないです
今日にでも会いたいです
ご都合はいかがでしょう?』
元カノに45歳の自分の雰囲気が似ているなんてこと、あるだろうか──。
そんな不可解さはあったけれど、それを除いた内容に胸が高鳴った。
LINEの名前表記にある私の名字を書いてくれたことも、ドキドキに拍車をかけた。
日付が変わった今は月曜日。
職場はお盆休みなので都合的には大丈夫だけれど、昨日名刺を渡されて翌日会うなんて、急すぎる。
でも──。
『わかりました
大丈夫です』
大胆にもOKしてしまった。
断ることも、ブロックすることも出来たのに、一度生まれた少女のような思いは止められない。
いいえ──止めたくない。
勝舞メイが指定したのは、都内の古い地区だった。
駅を降りた先には古書店が並び、並木道の先には煉瓦造りの大学がある町。
坂が多く、そのうちの一つ、緩やかな斜面を降りた所に、約束の喫茶店はあった。
ネットやメディアで紹介されるようなSNS映えする純喫茶ではなく、長い時を経たということ以外なんの特徴もない店だった。
煤けた白壁に蔦が這っている。
待ち合わせの午後3時よりも少し早く、私は扉を開けた。
ドアベルの響く店内には、メイがすでにいた。
真白いシャツを着て、窓側の席から私に向かって手を上げる。
向かいに座ると「来てくれて、ありがとうございます。本当に嬉しいです」と言って、満面の笑みを浮かべた。
そんな風に顔を崩しても、美しさは微塵も後退しないのがすごい。
地味な私に合わせたのか、今日のメイはアクセサリー類は一切つけていない。
髪にゴールドのハイライトが入っていても、シンプルな綿シャツ姿のメイはホストというより、育ちの良い青年に見える。
「立木さん。
そのテラコッタカラーのワンピース、リップの色ともよく合って素敵ですね。
よくお似合いですよ」
優しい声でメイに言わて、頬が赤くなる。
昨日のシネコンでは、ゆったりしたサマーニットに細身のパンツという、まるでシニアが好むようなスタイルをしていた。
だから今日の午前中は、駅ビルで買い物に奔走した。
クローゼット内の野暮ったい服で逢うことは、なにがなんでも避けたかったからだ。
私はメイとのLINEの後すぐに、40代向けWEBマガジンを購入し、若見えする美しい女性達のファッションを徹底的に研究した。
それをもとに洋服類とサンダル、メイク用品一式を買い、急いで帰宅すると、万理が部活で出掛けているのを幸に、完全武装してここに来た。
私の努力を見抜いて褒めてくれたのかもしれないが、嬉しかった。
アイスティーを頼み、あらためてメイと一対一で向かい合う。
すると急に恥ずかしさが込み上げてきた。
私は慌てて窓外に目をやる。
喫茶店の裏に小道があり、その先に木々や草に囲まれた小さな池が見える。
「あんな所に池があるわ」
「浮見池って言うんです。後で行ってみませんか」
「あっ、はい」
私は伏し目がちに言った。
「立木さん、下のお名前は、なんというんですか」
「理子です」
「可愛い名前ですね。理子さんと呼んでいいですか」
「えっ」
また顔が赤くなる。
「構いませんけど」
「では理子さん、あの時一緒にいたのは娘さんですか」
「──はい」
言いにくかったが、事実を言った。
「お幾つですか」
「──16です」
私が今とても暗い気持ちでいることを、メイは知るよしもなく、相変わらず唇に微笑みを載せている。
「僕はご承知の通り、ホストですが、理子さんのご職業はなんですか」
「教師です。女子校の小学部で理科を教えています」
「理科」と言ってメイが柔らかく笑った。
「僕と全く世界が違う。
理科と数学は勉強が苦手な僕が、とても苦しんだ教科です」
なんて返せばいいのかわからない。
心地悪さと来なければよかったという後悔で、胸が一杯になった。
そこへアイスティーが来た。
これを飲んだらすぐに帰ろうと思い、ストローを差してぐっと吸う。
「理子さん、これまでの僕の人生について話したいので、聞いてくれませんか」
唐突にメイが言ってきた。
メイの大きな二重の目が、とても真剣に私を見ている。
私は思わず「はい」と言って、頷いた。
「僕は現在21歳。本名は日室颯です」
年齢を言われ、私は暗澹とする。
21歳──。そこまで若いの。
やはりすぐに『帰る』と言えばよかった。
けれどもメイは話し続ける。
「実家は静岡にあります。
父母はクリーニング店、年の離れた兄は不動産会社を経営しています。
大学出の兄と違い、僕は勉強が嫌いで、普通科高校には行かず工業高校の機械科へ進みました。
勉強より物作りがしたかったんです。
けれど入学すると、そんな思いは錯覚であったことに気がつきました。
専門科目の授業に、全く興味が持てなかったんです。
すぐに工業高校の先輩達が多く所属する、暴走族のチームに入りました。
卒業後は地元の自動車整備工場に就職しました。
でもここでも全く仕事が面白くなかったんです。
1年間我慢して働いた末に、ホスト業に就くことを思いつきました。
派手な場所で、派手な服を着て、派手な振る舞いをする。
それでお金がもらえるなんて、最高だと思ったからです。
去年上京し、今の店に入りました。
5月生まれなのでメイ。この業界で勝って舞うために勝舞。
そんな願いを込めて、勝舞メイを名乗りました。
No.1ホストを目指して──。
そして昨日、理子さんと出会ったんです」
No.1を目指しているということは、今日のこれも営業。
やはり育てが目的なのね。
だから私がものすごいおばさんで、16歳になる娘がいても、涼しく微笑んでいられる──。
元カノに雰囲気が似ているとか、私のことが気になって仕方がないとか、あの場限りで終わらせたくないとか、LINEの文面は私を夢心地にするためのホストの常套句。
少女のような思いを止めたくなくて、不可解さや疑問をあえて考えないようにしていたけれど、意に反し、メイの底意を確認させられてしまった──。
「これが昨日までの僕の人生です。
今度は理子さんの人生を教えてください」
私が金づるになるか確かめたいのね。
寂しいことだけれど、仕方がない。
私を見つめる二つの瞳の深さに、誘導されるように口を開いた。
「見て察しがつく通り、私はメイさんの2倍以上も年上の45歳です」
一番痛いことを言ってから、自分自身の話をしていく。
実家は長野県。元教員の父母と兄が二人。
上の兄は教員、下の兄は公務員。
私だけが地元に戻らず、大学卒業後もこの地にいる。
そして28歳で結婚、34歳で離婚、それから今に至ることを話した。
「僕達、2人共地方から出て来て、昨日出会ったんですね」
メイがなぜか感慨深そうに言った。
驚いたことに大きな瞳が、涙を湛えるように潤んでいる。
その瞳が、私の空になったアイスティーのグラスを見る。
「出ませんか」
メイが言った。
「はい──」
結局、私はメイの美しさを前に『帰ります』とも『あなたの姫にはなりません』とも言えなかった。
喫茶店の外に出ると、メイが池の方を目で指して、「行きましょう」と言った。
池へと続く小道を歩きながら、メイが務める『club 百花繚乱 l u x e』のメンバー達の話を聞く。
皆若く、メイ同様野心があり、一人一人様々な特技があった。
閉店後は仲のいいメンバーと、よく焼肉に行くという。
メイは私にスマホを向け、焼肉屋のテーブルでリラックスした表情を浮かべる自分達の写真を見せた。
ホストクラブへの警戒心を解くのが目的なら、この話は成功だった。
意外と明るいものだな思ったところで、浮見池という池のほとりに着いた。
松や柳がかつての古い時代を偲ばせるように、池の回りに根を張っている。
晩夏の訪れを告げる白い百合が、あちこちに花を覗かせている。
陽が傾いてきた。あたりには人影がない。
虫の音を背景音楽にして、メイと並んで深緑の水面を眺める。
「理子さん」
名前を呼ばれて、横に立つ長身のメイを見上げると、両肩に手が掛かり、ぐっと引き寄せられた。
瞬く間にメイの体が私の正面にきて、抱き締められる。
──?
言葉を発する間も無く、唇が重ねられた。
驚いたのは一瞬で、私はすぐに目を閉じ、この世の出来事とは思えない行為に没頭する。
メイの柔らかい舌の動きに、頭の中までが掻き回される。
長い、長いキス。
唇が吸われ、身も心も蕩け──。
閉じた目の闇の中に風景が現れる。
格子の町並み──、川辺の柳──。
通りを駆けていく俥──。
メイの唇が私の唇から離れた。
「寿郎さん」
私はメイに向かって言った。
そう──何もかも思い出した。
少年の面影を残した卵型の顔。
ミストを吹きかけたように艶のある白い肌。
大きく見開いた二重の目と、そこに覗く水を張ったような瞳。
通った鼻筋に、キュッとしまった形のいい唇。
そして──。
漆黒の髪には、トップから流れる華やかなゴールドのハイライト。
右耳には三日月のイヤーカフ、左耳にはダウンスタイルの星のピアス。
光沢のあるシャツの胸元には、大ぶりなパールネックレス。
そんな光るアイテムが、美しい顔を額縁のように飾っていた──。
私は一人夜のリビングで、目に焼き付いているメイの顔立ちをなぞると、深いため息をつく。
それから、私がこんな風になるに至った経緯を思い出す──。
今日の昼下がり、娘の万理とシネコンで人気のアニメ映画を観た。
高校の友人にドタキャンされたと、泣きつかれてのことだった。
推しの勇姿に「カッコよかったー」と涙目で言う万理と共に、物販の長い列に並び、アクスタとパンフレットを購入すると、お盆期間中で混雑したシネコンのロビーを二人で歩いた。
すると──。
突然、目の前に派手な格好をした若い男が現れて、進路を塞がれた。
いきなりの行為よりも顔立ちの良さに圧倒されていると、若い男は隣の万理ではなく、なぜか私に向かって声を放った。
「お紅っ」
えっ──?
知り合いのような物言いと、聞いたこともない名前に驚くと、若い男は少し困ったようにはにかんだ笑みを浮かべた。
美しい表情に、一瞬意識が吸い込まれる。
若い男は黒のサコッシュから、ハイブランドの名刺入れを取り出すと、パールのネイルを施した手で私の前に名刺を差し出した。
「姫、必ずご連絡ください」
反射的に受け取ってしまうと、若い男は口角をくっと上げてにっこりと微笑み、くるりと背を向け、人ごみの中に消えていった。
『勝舞メイ club 百花繚乱 l u x e』
ホストクラブの写真名刺だった。
「なに? それ」
隣にいる万理が覗き込んできた。
「ショウブ? メイ? うっ、やばくない?」
「意味がわからないわ」
すかさず私は言った。
「オベニって言ってたよね。変な名前。昔の人みたい」
「ええ、誰かしら、人違いね。捨ててくるから、待ってて」
私は小さなブロマイドのような名刺を手に、人をよけながら歩を進めた。
なんなの、あの子。誰かと私を完全に間違えている。
でも、すごく綺麗な子だった──。
あんな素敵な男の子から声を掛けられるなんて、きっと人生最初で最後の経験になるわね。
なにか焦っていたのかしら。
こんな年上の私に名刺を渡すなんて──。
そう思ったところで我にかえった。
いいえ、そもそも私は教師。
ホストととは、住む世界が全く違う。
もう考えないでいよう。
私は化粧室に入り、ダストボックスの前に立った。
けれども手に持った名刺を捨てることができない。
たとえ人違いにしても、煌びやかな夜の妖精のような若い男の子に声をかけられた──。
この記憶を形作る名刺を、記念に取っておきたい。
45歳なのに少女のような気持ちになってしまった。
私は写真名刺をそっとバックにしまい化粧室を出た。
戻ると万理がスマホを手に「調べたら姫って、ホスト用語だった。お客さんのこと、そう呼ぶみたい」と言ってきた。
「ママのこと、お紅っていうお客さんと間違えたのかな。
だとしたら、そのお客さん、ママと同じくらいの年ってことだよね。
しかもママと同じで地味なオバサン。
キショッ。そんな人がホストクラブ行くんだ」
万理の言うことは本当だった。
45歳はもうアネフォー。
しかも私はメイクもファッションも極めて地味。
額を出したボブスタイルに、平凡なメタルフレームの眼鏡。
これを10年以上続けている。
学校に来る保護者──富裕層の母親達──のような華やかな格好は、生まれて一度もしたことがない。
私は物心つき、自分を取り巻く状況がわかるようになった頃から、自分が人からどのように見られているか知っていた。
幼稚園の先生からは『大人しくて、扱いが楽』、『でも大人し過ぎて、つまらない子』
まわりの園児からは『言うことをきくから、邪魔にはならない』、『でも自分からはなにもしないから、つまらない子』
私は幼年期から中年期の今に至るまで、自分の自己主張しない性格を変えることなく、この性格に相応しい地味な髪型と地味な服装でずっと生きている。
離婚はしたけれど結婚できたのは、元夫がものすごい俺様系で、生涯にわたって威張り散らしたい相手として私を選んだだけだった。
「もう、忘れましょう」
私は万理にそう言って、シネコンを出ることを促したのだった──。
私はもう一度、ため息をつく。
リビングの時計は、午後の10時半を示している。
万理は自室で勉強している。
万理が幼稚園を卒園した後すぐに、公立高校の教師をしている夫と離婚した。
以後復職し、賃貸マンションで二人暮らしをしている。
職場は小中高一貫の私立女子校で、理科の専任教師として小学部と中学部を行ったり来たりしている。
今は小5のクラスを受け持ち、化学クラブの顧問をしている。
結婚前勤務していた公立と違い、私立は給与はいいけれど保護者の要求がとても高い。
放課後の電話応対も仕事の一つになっている。
それも含めて帰宅できるのは毎晩8時過ぎで、万理が小学生の時は民間の学童保育を6年間利用した。
自治体運営のそれと違い、18時以降も保育可能で、夕食も出るし、送迎もある。
だが至れり尽くせりの分、費用が高く、夏休みは長野県に住む実家の母に来てもらい、万理をみてもらった。
「どうして私だけ、お迎えが来て、違うとこに行くの?」
小学校に上がったばかりの万理が言った。
自分も学校のすぐ隣りにある自治体の学童保育に行き、そこで『みんなと遊びたい』と泣かれ、私は胸が痛んだ。
教師を辞め、残業のない仕事に就けばそれも可能だが、そうすると収入が減り、万理の将来の選択肢を狭めることになるかもしれない。
そのようなことを、子供向けの簡単な言葉で説明すると、万理は理解してくれたようで、泣くのをやめた。
万理が聞き分けがよく、しっかりした娘だったから教師を続けてこられたような気がする。
小学部の親が子育てについて、『×△で困っています』と相談を持ち込んでくるが、そういうのを聞く度に、私は親として恵まれていると思う。
これまで私は万理のことで悩んだことが、一度もなかったからだ。
今、高一の万理は国立大の経済学部を目指し、夏休みの今も勉強に部活に忙しい。
万理は長身の元夫に似て、小5で私の背を追い越した。
運動神経が抜群なのも、元夫に似ている。
細面の顔は、ありがたいことに元夫には似ていず、私の父の姉に似ていて、将来クールビューティーになるだろう造りだった。
小柄で丸顔の私とは、親子なのに見た目が全然違う。
そんな大人っぽい外見に反して、万理の趣味はアニメだった。
でも、それはそれで母親の私にはよいことだった。
リアルな異性愛の心配がないからだ。
万理はほとんどパーフェクトな娘として、成長を続けている。
そんな娘の万理のことを考えると、とても後ろめたいのだけど、今日の午後、シネコンで生まれた思いには逆らえない。
私は外出の時に持って行ったバッグを開け、内ポケットにしまった写真名刺を取り出す。
金粉を散りばめた黒地を背景に、迫力のある美しさで勝舞メイが微笑んでいる。
私はそこに印字された『club 百花繚乱 l u x e』をスマホで検索した。
大手ホストクラブらしく、百花繚乱グループが運営する15店舗のうちのひとつだった。
ゴールドとブラックで統一された店内と、アイドル顔した金髪の代表の画像が現れる。
ドキドキしながらスタッフ一覧をスクロールすると、確かに『勝舞メイ』はいた。
7月のナンバーというページには、No.3のところに勝舞メイの名と顔写真があった。
ナンバー?
意味がわからないので調べてみると、先月の店での売り上げが3位ということらしい。
売り上げランキング上位のホストのことを、ナンバー入りホストと呼ぶそうで、メイはまさにそれだった。
今月のラスソンカレンダーというのもあり、8月3日、6日、10日のところに、クロスのピアスをしたメイの顔写真があった。
『ラスソン』を調べるとラストソングの略だった。
閉店前、その夜一番の売上をしたホストが、自分をそうさせてくれた姫達に向けて、感謝を込めて歌うという。
毎晩が競争。
だから今日もお紅さんとかいう女性と私を間違えて、営業で声を掛けてきたのね。
ホスト業について他にも調べてみると、『育て』と言うのがあった。
甘い言葉や巧みな計略で、姫が沢山お金を使ってくれるように、育て上げていくらしい。
私はもう一度、写真名刺に載ったメイの魅惑的な若い顔を見る。
この子なら育てられても本望と、姫達は思うだろう。
私だって一度くらいなら、ラスソンのためにお金を使っても構わない──。
興奮気味に思い、名刺のLINE IDを見つめる。
『姫、必ずご連絡ください』
メイの声が蘇る。
人違いを理由にLINEしたら、ナンバー入りホストの勝舞メイとほんの少しだけ関われる──。
そう思ったけれど、すぐに首を振った。
11年前に別れた夫が、人生最初で最後の男だった私。
離婚を切り出してきた元夫からは、『つまらなくて、息苦しくなる女』と言われた。
事実その通りだったし、今もそうだ。
そんな私が──、しかもかなり年上の私が──、とびきり綺麗で若いホストに、LINEなんてできるわけがない。
私は大きく頷いた。
そうよ、私はどうかしてる。
ただ人違いされただけなのに、ラスソンとか育てとか、何考えてるの。
だけど──、でも──、やっぱり、連絡したい。
スマホを手に、迷いに迷って時は過ぎ、ついに午前0時。日付を跨いでしまった。
こんな気持ちじゃ、眠れない。
ああ──、もう──どうなってもいいから、LINEしよう。
そう決意した。
『勝舞さん
昨日の午後、映画館のロビーで名刺を頂いた者です
私は勝舞さんが言った、お紅さんという方ではありません
勘違いされたまま、連絡を待たれてもいけないので、夜分ですがLINEしました
失礼します』
45歳地味女に相応しい、分別ある内容であり、おばさん構文でもあるそれを、送信した。
すると──。
えっ?
すぐに既読が付き、秒速の速さで返事が来た。
『立木さん メイです
ご連絡、ありがとうございます
ご心配をおかけして申し訳ありません
お紅は僕の元カノです
立木さんが元カノの雰囲気にとても似ていたので、思わずそう呼んでしまいました
あの瞬間から、立木さんのことがとても気になって仕方がありません
あの場限りで終わりにすることは絶対にしたくないです
今日にでも会いたいです
ご都合はいかがでしょう?』
元カノに45歳の自分の雰囲気が似ているなんてこと、あるだろうか──。
そんな不可解さはあったけれど、それを除いた内容に胸が高鳴った。
LINEの名前表記にある私の名字を書いてくれたことも、ドキドキに拍車をかけた。
日付が変わった今は月曜日。
職場はお盆休みなので都合的には大丈夫だけれど、昨日名刺を渡されて翌日会うなんて、急すぎる。
でも──。
『わかりました
大丈夫です』
大胆にもOKしてしまった。
断ることも、ブロックすることも出来たのに、一度生まれた少女のような思いは止められない。
いいえ──止めたくない。
勝舞メイが指定したのは、都内の古い地区だった。
駅を降りた先には古書店が並び、並木道の先には煉瓦造りの大学がある町。
坂が多く、そのうちの一つ、緩やかな斜面を降りた所に、約束の喫茶店はあった。
ネットやメディアで紹介されるようなSNS映えする純喫茶ではなく、長い時を経たということ以外なんの特徴もない店だった。
煤けた白壁に蔦が這っている。
待ち合わせの午後3時よりも少し早く、私は扉を開けた。
ドアベルの響く店内には、メイがすでにいた。
真白いシャツを着て、窓側の席から私に向かって手を上げる。
向かいに座ると「来てくれて、ありがとうございます。本当に嬉しいです」と言って、満面の笑みを浮かべた。
そんな風に顔を崩しても、美しさは微塵も後退しないのがすごい。
地味な私に合わせたのか、今日のメイはアクセサリー類は一切つけていない。
髪にゴールドのハイライトが入っていても、シンプルな綿シャツ姿のメイはホストというより、育ちの良い青年に見える。
「立木さん。
そのテラコッタカラーのワンピース、リップの色ともよく合って素敵ですね。
よくお似合いですよ」
優しい声でメイに言わて、頬が赤くなる。
昨日のシネコンでは、ゆったりしたサマーニットに細身のパンツという、まるでシニアが好むようなスタイルをしていた。
だから今日の午前中は、駅ビルで買い物に奔走した。
クローゼット内の野暮ったい服で逢うことは、なにがなんでも避けたかったからだ。
私はメイとのLINEの後すぐに、40代向けWEBマガジンを購入し、若見えする美しい女性達のファッションを徹底的に研究した。
それをもとに洋服類とサンダル、メイク用品一式を買い、急いで帰宅すると、万理が部活で出掛けているのを幸に、完全武装してここに来た。
私の努力を見抜いて褒めてくれたのかもしれないが、嬉しかった。
アイスティーを頼み、あらためてメイと一対一で向かい合う。
すると急に恥ずかしさが込み上げてきた。
私は慌てて窓外に目をやる。
喫茶店の裏に小道があり、その先に木々や草に囲まれた小さな池が見える。
「あんな所に池があるわ」
「浮見池って言うんです。後で行ってみませんか」
「あっ、はい」
私は伏し目がちに言った。
「立木さん、下のお名前は、なんというんですか」
「理子です」
「可愛い名前ですね。理子さんと呼んでいいですか」
「えっ」
また顔が赤くなる。
「構いませんけど」
「では理子さん、あの時一緒にいたのは娘さんですか」
「──はい」
言いにくかったが、事実を言った。
「お幾つですか」
「──16です」
私が今とても暗い気持ちでいることを、メイは知るよしもなく、相変わらず唇に微笑みを載せている。
「僕はご承知の通り、ホストですが、理子さんのご職業はなんですか」
「教師です。女子校の小学部で理科を教えています」
「理科」と言ってメイが柔らかく笑った。
「僕と全く世界が違う。
理科と数学は勉強が苦手な僕が、とても苦しんだ教科です」
なんて返せばいいのかわからない。
心地悪さと来なければよかったという後悔で、胸が一杯になった。
そこへアイスティーが来た。
これを飲んだらすぐに帰ろうと思い、ストローを差してぐっと吸う。
「理子さん、これまでの僕の人生について話したいので、聞いてくれませんか」
唐突にメイが言ってきた。
メイの大きな二重の目が、とても真剣に私を見ている。
私は思わず「はい」と言って、頷いた。
「僕は現在21歳。本名は日室颯です」
年齢を言われ、私は暗澹とする。
21歳──。そこまで若いの。
やはりすぐに『帰る』と言えばよかった。
けれどもメイは話し続ける。
「実家は静岡にあります。
父母はクリーニング店、年の離れた兄は不動産会社を経営しています。
大学出の兄と違い、僕は勉強が嫌いで、普通科高校には行かず工業高校の機械科へ進みました。
勉強より物作りがしたかったんです。
けれど入学すると、そんな思いは錯覚であったことに気がつきました。
専門科目の授業に、全く興味が持てなかったんです。
すぐに工業高校の先輩達が多く所属する、暴走族のチームに入りました。
卒業後は地元の自動車整備工場に就職しました。
でもここでも全く仕事が面白くなかったんです。
1年間我慢して働いた末に、ホスト業に就くことを思いつきました。
派手な場所で、派手な服を着て、派手な振る舞いをする。
それでお金がもらえるなんて、最高だと思ったからです。
去年上京し、今の店に入りました。
5月生まれなのでメイ。この業界で勝って舞うために勝舞。
そんな願いを込めて、勝舞メイを名乗りました。
No.1ホストを目指して──。
そして昨日、理子さんと出会ったんです」
No.1を目指しているということは、今日のこれも営業。
やはり育てが目的なのね。
だから私がものすごいおばさんで、16歳になる娘がいても、涼しく微笑んでいられる──。
元カノに雰囲気が似ているとか、私のことが気になって仕方がないとか、あの場限りで終わらせたくないとか、LINEの文面は私を夢心地にするためのホストの常套句。
少女のような思いを止めたくなくて、不可解さや疑問をあえて考えないようにしていたけれど、意に反し、メイの底意を確認させられてしまった──。
「これが昨日までの僕の人生です。
今度は理子さんの人生を教えてください」
私が金づるになるか確かめたいのね。
寂しいことだけれど、仕方がない。
私を見つめる二つの瞳の深さに、誘導されるように口を開いた。
「見て察しがつく通り、私はメイさんの2倍以上も年上の45歳です」
一番痛いことを言ってから、自分自身の話をしていく。
実家は長野県。元教員の父母と兄が二人。
上の兄は教員、下の兄は公務員。
私だけが地元に戻らず、大学卒業後もこの地にいる。
そして28歳で結婚、34歳で離婚、それから今に至ることを話した。
「僕達、2人共地方から出て来て、昨日出会ったんですね」
メイがなぜか感慨深そうに言った。
驚いたことに大きな瞳が、涙を湛えるように潤んでいる。
その瞳が、私の空になったアイスティーのグラスを見る。
「出ませんか」
メイが言った。
「はい──」
結局、私はメイの美しさを前に『帰ります』とも『あなたの姫にはなりません』とも言えなかった。
喫茶店の外に出ると、メイが池の方を目で指して、「行きましょう」と言った。
池へと続く小道を歩きながら、メイが務める『club 百花繚乱 l u x e』のメンバー達の話を聞く。
皆若く、メイ同様野心があり、一人一人様々な特技があった。
閉店後は仲のいいメンバーと、よく焼肉に行くという。
メイは私にスマホを向け、焼肉屋のテーブルでリラックスした表情を浮かべる自分達の写真を見せた。
ホストクラブへの警戒心を解くのが目的なら、この話は成功だった。
意外と明るいものだな思ったところで、浮見池という池のほとりに着いた。
松や柳がかつての古い時代を偲ばせるように、池の回りに根を張っている。
晩夏の訪れを告げる白い百合が、あちこちに花を覗かせている。
陽が傾いてきた。あたりには人影がない。
虫の音を背景音楽にして、メイと並んで深緑の水面を眺める。
「理子さん」
名前を呼ばれて、横に立つ長身のメイを見上げると、両肩に手が掛かり、ぐっと引き寄せられた。
瞬く間にメイの体が私の正面にきて、抱き締められる。
──?
言葉を発する間も無く、唇が重ねられた。
驚いたのは一瞬で、私はすぐに目を閉じ、この世の出来事とは思えない行為に没頭する。
メイの柔らかい舌の動きに、頭の中までが掻き回される。
長い、長いキス。
唇が吸われ、身も心も蕩け──。
閉じた目の闇の中に風景が現れる。
格子の町並み──、川辺の柳──。
通りを駆けていく俥──。
メイの唇が私の唇から離れた。
「寿郎さん」
私はメイに向かって言った。
そう──何もかも思い出した。
