突然ですが、契約結婚しました。
主任のためを思えば、やっぱり私は“いい妻”を演じるべきだったんだろう。
頭ではわかっていたのに、言えなかった。

「さすがにうちに泊めるのは無理やぞ」

穂乃果さんが応えるよりも先に、主任が釘を刺した。
驚く私をよそに、穂乃果さんは困ったように笑う。

「さすがにそこまで迷惑かけへんよぉ」

お金もカードもちゃんとあるから、と穂乃果さんは足元に置かれた鞄に視線を落とす。肩からかけるトートバッグ一つで、彼女は大阪を飛び出してきたらしい。

「って言っても、もう迷惑かけてるか。すみません、環さん。服、借りてしもて」
「いえ。使い古した部屋着ですみません。着ていらっしゃった服は、今乾燥かけてるので」
「何から何までありがとうございます」

申し訳無さそうに会釈をする彼女の左の薬指には、変わらずシルバーの輝きがある。主任にとっては、シルバーブレットのような存在だろう。
主任を横目に盗み見るも、彼の表情はいつも通り。やっぱり仮面を被っている。

「真緒さん。料理の続きは私がするので、穂乃果さんの相談……というか、今夜泊まるところとか、一緒に探して差し上げたらどうですか」
「……悪いな。洗い物は俺やるから」
「ありがとうございます。穂乃果さんも、良ければご飯くらいは食べて行ってくださいね」


降り続く雨は止むことを知らずに、すっかり日の落ちた世界を更に薄暗くしている。

「ここからやったら都内よりも横浜のほうが行きやすいから、横浜で探し」
「えぇ、そうなん? 新幹線、品川まで行かんと横浜で下りたらよかった」
「スマホ持ってんねんから、それくらい調べーや」

すったもんだの末に決まった献立だけど、手際のいい主任がサラダを作るところまで進めていてくれたので、後はルウを入れて煮込む工程だけだった。
リビングに響く関西弁のやり取りを、お鍋にビーフシチューのルウを溶かしながら聞く。

「よし、予約完了っと。ありがと、真緒くん」
「……ええけど。今の予約画面、1泊って書いてなかった気するんは見間違いか?」
「え? うん。一応3泊でとっといた」
「はぁ!?」

この光景を会社の人に見せたら、さぞびっくりするだろうな。主任をここまで狼狽させられる人、他に思いつかないもの。

「家出やもん。関東まで来たのに、1泊だけしてのこのこ帰れるわけないやん」
「のこのこ帰れよ!」

なんつー会話だ。これが関西人のテンポか、とお見逸れする。
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