全てを失っても幸せと思える、そんな恋をした。 ~全部をかえた絶世の妻は、侯爵から甘やかされる~

妻に恋情を抱き出した夫、拒絶する妻

 夫である侯爵に、これから自分が受ける屈辱を明言されてしまったアベリアは、見てはいけない葛藤に勝てず、デルフィーを横目で確認していた。
 彼女には、口唇を噛み、拳を握る彼の姿が目に入った。

 嫌っ――――。
 アベリアは、これから他の男に抱かれる自分の事を、デルフィーに見送られるのは、絶対に受け入れることは出来なかった。何としても、今だけは、夫に自分の体を許すのは避けたかった。
「ヘイワード侯爵、――今日は月のものがありますから、無理でございます。今日のところはお引き取りください」

 必死に伝えるアベリアの言葉に、納得しない侯爵。
 その様子を見かねたデルフィーから、「月のものであれば、後継者も授かりにくい」と説得され、渋々納得する素振りを見せる。
 だけど、侯爵は違う事を考えていた。
「破瓜のものが分からないなら、アベリアが否定していた裏切りも、証明できないからな。まぁいい。来月からは社交界シーズンだ。1か月後に王都から迎えの馬車を送るから、それに乗って戻ってこい。お前が新調した夫婦の寝台を使って、じっくり確認してやろう」
 アベリアは、妻の役目と言われても、やっぱり侯爵との関係を受け入れられなかった。
 それと同時に、あの邸へ戻れば、あの愛人がどんな行動に出て来るかが分からなかった。再び、毒を盛られるかもしれないし、他に何か……。だから、侯爵の命令にはどうしても同意する訳にはいかなかった。
 今更、侯爵へ「あの時に口に含んだスープに赤い花の球根が仕込まれていた」と言っても、信じてもらえるはずもなかった。あの事を、誰にも言わなかったのは自分だったし、夫に愛されない自分が、寵愛を受ける愛人に嫉妬して妄言を吐いているとしか見えないはずだと、思ったアベリア。

「昨年の社交界の時には、私の参加は不要だと申したではありませんか。今年も私などの参加は不要でしょう。エリカさんが新調されたドレスもありますし、彼女と出席なさった方がよろしいかと思います」

 ほんのわずかな時間、――沈黙が広がる。
「エリカでは駄目だ。ここ最近の貴族の話題は、アベリアが作った化粧水だ。貴族夫人と令嬢達がその話を聞くのを待っている。アベリアが出席しない訳にはいかない」

 侯爵は、この一連のやり取りで、これまでほとんど真面に話したことの無い妻に対して、興味を抱き始めていた。
 王都の邸では常にすました顔をしていたアベリアが、瞳を潤ませて怯えている姿に、これまでは少しも感じたことの無い、女性としての魅力を感じていた。

 そして侯爵の心の中に、アベリアに対して少しの罪悪感を持っていた。
 いつも、自分を馬鹿にしているかのように男の仕事に口を出す忌々しい妻が、自分が告げた言葉に傷つく、1人の「か弱い女性」に見えた。
 目元の力が急に抜けた侯爵は、おもむろにアベリアの頭を優しく撫で、そのまま彼女の頬に手を置く。
「きつく言い過ぎてすまなかった。アベリアが戻って来るのを王都で待っているから、気をつけて帰って来てくれ」
 侯爵はそう言い残し面談室を後にした。

 この面談室で、侯爵の止まったままの歯車が、一つ動き出してしまった。

 デルフィーは執事として侯爵を見送りに行ったが、実際の所は、侯爵がこの敷地から立ち去るのを確認していた。
 そして、しばらくしてからデルフィーが面談室へ戻ってきた時には、既にアベリアの姿は無かった。
 デルフィーはアベリアの部屋へ行き彼女の様子を確認したかったけど、行けなかった。
 もし、彼女が全力で侯爵を嫌がり自分に助けを求めたら、侯爵を殴り倒してでも彼女を護ろうと思っていた。だけど、彼女自身でこの場をやり過ごしていたのだから、執事の彼には夫婦の間に入ることは出来なかった。

 侯爵との行為を、彼女が貴族の義務として受け入れるのであれば、止めることは出来ない。
 貴族であれば、愛が無い結婚や課せられる夫婦の営みも、受け入れるしかないと知っているから。
 執事でしかない自分が、彼女を無理やり手に入れるのは、彼女の幸せではないはずだと思っていたデルフィー。

 そして、自分とは結ばれることは決してなくても、彼女が侯爵夫人であれば、デルフィーの父が好きだった、海が綺麗なこの土地で、まだまだ一緒に過ごすことができると疑っていなかった。

 この日の夜、アベリアは部屋に籠ったまま、食堂に現れることは無かった。
 心配した侍女のマネッチアが部屋を訪ねても、ただ静かに「食事はいらない」と断っていた。

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