政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません
夫となる人の部下にエスコートされながら、小さな教会の通路を歩く。

ここは夫となる人の所有する敷地内にある教会。参列者は夫の家の使用人だけ。

夫の家に代々伝わるティアラを被り、ヴェールの向こうに朧気に見える夫の顔を直視出来ず、彼の胸から下に視線を落とす。

彼はその朝早くにようやく戦地から戻って慌ただしく式は開始した。

披露宴はなし。今夜共に過ごして明日には戦地へ戻るという。

国王陛下の指示で仕方なく引き受けた結婚だ。彼から何度か手紙が来たが、どうせ形ばかりの夫のことを知ったからと言って何になるのだろう。そう思って封も開けなかった。

ーもう二度と裏切られるのはごめんだ

頭の中でそんな声が聞こえた。

もう二度と?これが初めての結婚なのに、なぜそう思ったのだろう。

ー純白のウェディングドレスを着たかった

誰が?

さっきから自分ではない誰かの意識が浮上する。頭の中で自分とは違う誰かの声がこだまして、目の前を見慣れない光景が見え隠れする。

黒い袖の長い上着に、あれはスカート?縦縞模様の踝までのスカートを履いた短い黒髪の男の人が見え、次の瞬間にはまた白い軍服の男性に変わる。

何が起こっているの?

今日初めて顔を合わせる人と結婚するという不安に加え、幻覚がちらついて見え、とうとう自分がおかしくなってしまったのだと思った。

お母さん………叔父に突き飛ばされて階段下に落ちた母の死に顔が脳裏に浮かび、ぎゅっと目を瞑る。

母が死んだことを知った叔父は慌てて私に言った。

ー私はいなかった。お前の母親は勝手に落ちて死んだんだ。

そう言って呆然とする私を一人置いて叔父は出ていった。

ふらふらと目を剥いて死んでいる母の側に行き、瞼に触れて目を閉じさせた。

どれくらい階段下にいただろうか。

叔父が一人の男性を連れて戻ってきた。

男は酒に酔っているのか鼻の頭も頬も赤く、近くにくるとむっと酒の匂いがした。

後で知ったが、彼は医者だった。診察よりお酒を飲む方が大事な男は、叔父から金を受け取り、母の死が病死だと偽装した。

いいか、このことは私とお前だけの秘密だ。黙っていれば悪いようにはしない。

叔父はそう言って私を脅した。

夫となる人の前にようやく辿り着く。
それまで一緒に歩いてくれた男性と同じくらい大きい手。剣を握るせいで出来たタコでごつごつしているが、それは不思議と嫌ではなかった。

彼はとても背が高い。軍人だからか体もがっしりしている。それだけで恐怖を感じる。この大きな手が鞭のようにうなり、ひとたびぶたれたら、あの時の母のようにぶっ飛ぶに違いない。

神父の問いかけに短く隣に立つ夫が答える。
どこかで聞いたことがある声だと思った。それがどこかは思い出せない。

次は私の番。震える声で何とか答える。

また幻覚がちらつく。手に持つ赤い皿に透明な液体が注がれ、私はそれを飲む。

神が二人を夫婦と認めました。

神父の声に幻覚が消え、二人で向かい合う。
たった今、夫になった人がヴェールを上げた。

目の前に青と黄の瞳が現れる。

黒目でも眼鏡も掛けていない。

想像と違う夫の顔に戸惑う。何て鮮やかな瞳の色……そして高い鼻梁に意思の強そうな口元。野外でいるせいか日に焼けていて、ダークブロンドの髪が一房額に落ちている。それをかき上げたいと思う衝動にかられる。

ーこの人もきっと同じ、いつか私を疎ましく思う……誰と同じ?

私の顔を見下ろし困ったようにぎこちなく微笑む。普段あまり笑うことがないのだろう。この人が心から笑うときはどんな時だろう。

でもそれはきっと私が笑わせるのではない。

ーあの人も笑わなかった。あの人って誰?

儀式として軽く羽が触れるようなキスをする。触れたのかどうかもわからない。

この人と今夜初夜を迎えるの?

ーあの人は義務のように私を抱いた
また誰かの声が聞こえる。本当にどうしてしまったのだろう。

細やかな晩餐の後、侍女のマリアンナに手を引かれて先に部屋へ戻る。

夫とは初めてだが、この屋敷には少し前から滞在していて皆とても親切だ。

ウェディングドレスを脱がされ、薄い夜着を着せられる。こんな透けた生地では何もかも見えてしまう。わざわざこれを着る必要などあるのだろうか。

夫婦が式を終えて一緒に寝ることはしっているが、具体的に何をするのかまでは知らない。
男と女の体の違いもわかっている。男には下半身に竿のようなものが付いていて、女の体の穴にそれを突き刺すのだ。針で刺されても痛いのに、そんなことが実際に可能なのか。
でも何千何万という夫婦がやって来たのだから、可能なのだろう。

扉が開いてこちらへ歩いてくる足音が聞こえ振り返った。

肩幅も広く大きな体格の夫を見て、母を殴る叔父の姿と重なる。洩れそうになる悲鳴を何とか飲み込んだが、私の顔に浮かんだ怯えを彼は察し、今日はもう疲れただろう。何もしないからゆっくり休みなさい。

そう言って寝台の反対側にごろりと横になった。
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