政略結婚から逃げたいのに旦那様から逃げられません

あれ？私って今何語を喋ったらいいのかな。

「えっと……新しいお手伝いさん？」

取りあえず日本語で話してみる。

「クリスティアーヌ様、私です。マリアンナです」

取りあえず向こうも日本語を話しているみたいだ。それより、彼女は何て呼び掛けた？

「クリスティアーヌ？誰ですか？」

「え！」

側に来た彼女は何かに驚いて顔を覗き込む。

「クリスティアーヌ様……どうされたのですか！」

「クリスティアーヌ？私はそんな名前じゃ…」

そう言いかけてはっと気づく。

彼女は明らかに私に向かってクリスティアーヌと呼んでいる。

「か、鏡……」
「はい？」
「鏡、見せてください」

マリアンナと名乗った女性に詰め寄ると、お待ちくださいと言って彼女は寝台脇のサイドテーブルから手鏡を取って渡してくれた。

それを手に取り一度目を閉じてから軽く３つ数えて目を開けた。

鏡の向こうから見知らぬ女性がこちらを見返している。

ひと言で言えば気が弱そう。

染みソバカスのまったくない白い肌。
鼻も口も小さめだが目はぱっちりとしている。
瞳の色は少し中央が色濃い金色。それを縁取る睫毛はさっき泣いたせいで少し濡れている。

卵形の顔の周りに緩やかに波打つキャラメル色の長い髪。黒髪、黒目の日本人、如月 愛理とは似ても似つかない。

「あの……クリスティアーヌ様？」

どれくらい鏡を覗き込んでいただろう。呼吸するのも忘れるくらい凝視している私……クリスティアーヌにマリアンナさんが声をかける。

「まだお加減が悪いのですか？昨日、急にお倒れになって気を失われてしまわれて、丸一日お眠りになられていたんです」
「倒れた？私が？」

ぐるっと首を動かし鏡からマリアンナさんへ視線を移す。

「は、はい。廊下を歩かれている時に急にばったり。本当に、何の前触れもなく、急に。打ち所が悪ければ大変なことになっていました」
「倒れた？どうして？」
「それが、お医者をお呼びして診ていただいたのですが、理由がわからないと。これまでこんなこと一度もなかったのに」

そう言われて少し考えてみるが、倒れたことどころか昨日何をしていたのか、そして自分が誰なのか、如月 愛理であったという記憶以外まったく思い出せないことに気づく。

「やはりお医者にもう一度診ていただきましょう。クリスティアーヌ様の夫である侯爵様がお留守の間に奥様にもしものことがあったら。こちらの侯爵邸に仕える私どもの職務怠慢とお叱りを受けてしまいます」

「え？今なんて？」

「ですから、お医者に……」

「じゃなくて、夫とか……私……結婚……」

「もちろん、こちらの侯爵家、リンドバルク侯爵家御当主のルイスレーン様ですよ。 半年ほど前にご結婚されてすぐに国王様の命令で遠征に出られてしまわれましたので、新婚生活も殆どございませんでしたけど、旦那様に奥様のことも含め留守を頼むと言われておりましたのに」

マリアンナさんは一人べらべらと話を続けているが、私の耳には二つの単語しか入ってこなかった。

夫？結婚？半年前だかそんなことは重要じゃない。

昨日倒れたことは覚えていなくても、自分が誰と結婚しているかを忘れるなんてことがあるだろうか。