ヤンデレくんは監禁できない!

対決と混乱

芽衣里は翔吾の母親を先に案内すると、後から自分も入って電気を点けた。2、3秒ほどかかってから一気に部屋が明るくなる。
カーテンが締め切られた部屋には、グランドピアノを始め、木琴や鉄琴、ドラムなどの大きめの楽器が壁際に寄せてある。それぞれに被せられた布は綺麗なライトグリーンのままだ。
芽衣里が後ろ手にドアを閉める。蝶番が軋む音が虚ろに響く。その音はまるでコングが鳴るようで、芽衣里はリングに上がる選手のように、相手から目を離さずにドアから離れた。

「ここは…確か、この間のパーティーで演奏した場所よね?」

芽衣里は、目の前にある温厚そのものな笑顔を見た。笑窪が可愛らしいな、と現実逃避をしそうになる。

「ええ、パーティーの時はお世話になりました」

「とんでもない、翔吾たちの演奏は先生たちが指導してくれたんでしょう? 修吾さんも感心しててね…優しくて指導の上手い先生がいて、翔吾は幸せだって」

彼女の話からすると、“修吾”とは翔吾の父親だろう。芽衣里はすぐにその人の顔を思い出した。丸っこい目を輝かせた、愛くるしい感じの人だったと記憶している。
彼とはパーティーと同時開催されたバザーで立ち話をした。だがほんの数分で、話題もありきたりなものだったはずだ。天候とか翔吾の様子とか、そんなことを話していたように思う。

「翔吾もね、よく家で先生の話をしてくれるの…」

「そうなんですね」

芽衣里は間を置かずに続けた。

「それで、本当は?」

彼女の目から光が消えた。だが表情は変わらない。怒りも悲しみも、〝何も〟伝わってはこない。

「いやだ、先生」

「横手山さん?」

「最初から本題に入っているじゃないですか」

「何を──」

彼女の手元で何かが閃った──と思う前に、芽衣里は脊髄反射で飛び退いた。左腕に痛みが走る。恐る恐る目を向けると、トレーナーの袖が真横に裂けて鮮血が滲んでいた。

「先生、運動神経が良いんですね」

「ああいえ、それほどでは」

何言ってんだあたしは。どうして和やかに会話してんだ。向こうは刃物で傷つけてきたんだぞ。そう自身を叱責して、芽衣里はじりじりと後退する。だが相手も同じだけ距離を詰めてきた。すぐに背中は壁にぶつかって、芽衣里は意味もなく平手を後ろに押しつけた。

「何を考えてるんですか? こんなことをして」

「惚けても無駄よ」

「惚ける?」

翔吾の母親は笑みを深める。完全に優位に立ったと思っているのだろうと芽衣里は確信した。

「修吾さんは渡さない」

「え」

何をどうしたらそうなるの。そう芽衣里は聞きたかったが、聞いたら逆上されてしまうかもしれないと疑問を胸に押し留める。

「翔吾まで利用するなんて、とんだ恥知らずね」

「利用?」

「翔吾に色々と吹き込んで、修吾さんに近寄ろうとしたんでしょ」

どうも彼女の中では、芽衣里は修吾に好意があってなりふり構わず略奪しようとしている……ということらしい。
芽衣里はこの狂人を改めて見据えた。右手に果物ナイフを持ちながら、堂々と視線を受けている。自身の妄想を、一分一理も疑っていないのだ。

「私を…殺すの?」

「まさか! ちょっと怖い思いをしてもらうだけよ」

いや十分怖い思いをしているんですが、とつっこむ暇もなく刃をくぐり抜けた。姿勢を低くしてドアへと突進する。だが強い力で阻まれ、膝から崩れた。
エプロンのすそを引っ張られたのだと気づいたのは、馬乗りにされた後だった。腕ごと脚で押さえられて自由がきかない。髪を振り乱し力の限り暴れようとも、大の大人ひとりをよかすのは不可能だった。

「ちょっと…暴れないでよ! 目に当たってもいいの!?」

それでもそこそこ妨害にはなっているのか、声に苛立ちがにじむ。芽衣里が思わず顔を向けると、今まさに両手でナイフを振り下ろそうとしているところだった。

「美那子!」

もうダメだ、と芽衣里が諦めそうになった次の瞬間、ドアが荒々しく開けられて誰かが飛び込んできた。芽衣里の目に先ず革靴が入る。しっかりと手入れされた、チョコレート色の革靴だ。それから明るい紺色のパンツスーツが目に入った。

「修吾さん…!」

美那子の意識が修吾へと向いた。その一瞬の隙をついて逃げ出そうとしたが、大人ひとり分の体重はやはり重すぎる。芽衣里は芋虫のように身を捩らせるだけに終わった。

「美那子、お願いだ、こんなこと止めてくれ」

「……やっぱり、この女と浮気してたのね」

「違う! どうしたら信じてくれるんだよ!」

ギラギラした切先が芽衣里の頸動脈に突きつけられた。指はかわいそうなくらい白くなって痙攣している。血が流れているのかどうか判断できなくて、ただ深呼吸を繰り返して冷静になろうと努めた。

「この女からプレゼント貰ったんでしょ!?」

「プレゼントって何だよ!?」

「クッキー貰ってきたじゃない!!」

「パーティーのあれ!? あれは保護者みんなに配ってたやつ!!」

「ハートだけのクッキーでリボンだって赤かった!! あなたが貰ったやつだけ赤よ!? バザーの時に二人してコソコソして…どう考えても浮気じゃない!?」

お互いのせいでヒートアップし始めた。完全な悪循環だ。
芽衣里はもう一か八か、勝負に出ることにした。

「すいません、ちょっと良いですか?」

突然、緊張感の欠片もない声が投げ込まれた。二人の目が芽衣里に集中する。芽衣里は唇を湿らせてから話し出した。

「リボンはあれです、赤いのが元々足りなかったんです。どうせだから使いきっちゃおうってなっただけです。他意はありません」

「だったらハート型は…!」

「あれハートじゃなくて桃です」

「桃?」

「…そう言えば、桃のフレーバーだって先生が説明して」

パーティーと共に開催されたバザーでは、ひと家族に一袋だけクッキーが配られた。フレーバーは桃以外にもいちごやメロン等があり、好きなフレーバーを選べる──そう修吾に説明した。それを聞いた修吾は桃を選んだ。妻と息子が好きな味なのだと、はにかみながら芽衣里に教えてくれた。

「な? これで違うってわかっただろ? 真岡先生から離れて──」

「じゃあ顔を切るだけにするわね」

美那子の発言に、修吾も芽衣里も脳が理解を拒否した。それでも音は意味を形作り、否が応でも二人に現状を認識させた。

「何、美那子、なに、言って」

「だって修吾さん、こういう顔した女が好きでしょ?」

「好きって…え?」

「前言ってたじゃない。“素顔は地味でも、化粧映えするタイプとかギャップが良い”って」

「そんな理由で先生を傷つける気か!?」

まるで理解できない、と言わんばかりに修吾は怒鳴る。だが、夫の混乱こそ意味がわからない、とばかりに美那子は首を傾げた。

「あなたが好きになる可能性があるなら、潰さないと」

無邪気に虫を潰す子どものような、そんな稚い声で語られる狂気に、二人が言葉を失った──その瞬間、

「ママ!」

本物の子どもの声が、翔吾の声が姿と共に転がり込む。

「先生! 何やってんですか!?」

修吾の悲鳴がほぼ同時に上がる。無理もない、翔吾は一人ではなく、ある人物からカッターナイフを首に当てられた状態で現れたのだから。
そのある人物は逆さまの状態で見ても端正な顔立ちだと見てとれた。手足のバランスも良く、男性向けファッション誌のモデルでもできそうな体格だ。その彼が眉一つ動かさず、翔吾をまるで人質のように扱っている。…全く現実味がなくて、ドラマを見ている感じがした。

「こいつを助けたいなら、その女を離せ」

ぶっきらぼうな言い方だったが、彼は芽衣里たちの味方らしい。彼を“先生”と呼んだ修吾にもその意図は伝わったらしく、目だけで妻に解放するよう訴えた。
美那子は想定外の出来事に、芽衣里の頬に突き立てようとしたナイフを下ろした。ふくよかな胸が大きく上下して、別の生き物のようだった。
そして芽衣里の腹から重石が退いた。腕や足がちょっとだけ痺れたように動かしづらかったが、ゆっくりと立ち上がった。そのまま美那子に手のひらを上に向けて差し出した。

「横手山さん…ナイフを」

一度預からせてください、と続けようとしたが、翔吾が美那子に抱きつくほうが早かった。

「ママ! 僕もっと良い子になるから…! もうこんなことしないで……」

「翔ちゃん」

やたらと平坦な声に、緩みかけていた空気が凍る。美那子はナイフを持ったまま翔吾の背に手を回した。たわんだシャツからのぞく、日に焼けた頸に鈍色の刃が近づいた。美那子はそのまま翔吾と会話を続ける。

「ママ言ったじゃない……『いい子で待ってなさい』って。どうして言うこと聞けないの?」

「だってママ…先生を…」

「そっか、翔吾は先生の味方なんだ。ママじゃなくて先生が良いの、そっかそっか…」

美那子が纏う異様な雰囲気に気圧されて、三人はその場に固まった。声の調子は穏やかで、一見するとぐずる翔吾を宥めているように見える。だが目は弓の形にしなって、ナイフと同じような光を宿して──そして、耳まで裂けんばかりの口が揺らめいた。

「もういらない」
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