政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
新しい命
 初雪が舞い降りる歴史ある夜の街並みを、隆之はスーツ姿で駆け抜ける。
 最寄り駅からそれほど離れていないはずなのに、やけに自宅が遠く感じられるのは、隆之が胸に心配ごとを抱えているせいだ。
 愛おしい妻の由梨は、もう家に帰っているだろうか。
 隆之は額に汗を浮かべながら、人通りのほとんどない閑静な住宅街の坂道をくつ音を鳴らして駆け上がった。
 一刻も早く由梨の顔を見て、腕に抱きたい。あの柔らかな香りを胸いっぱいに感じたい。
 そもそも北部支社の副社長に就任した時から車での送迎があたりまえになっている隆之が、こうして会社から電車で帰宅することになったのは、今日の夕方に企画課へ寄ったことがきっかけだった。
 外出先から帰社した際、隆之は都合がつく限り各課に寄ることにしている。
 各課からの報告は定期的に滞りなく社長である隆之まで上がってくるが、そこに入れるほどでもないような些細な情報も拾い上げるためである。現場の社員から直接話を聞くことで、余計な報告書を減らすことができる上に、会社にとっての宝である彼らとの交流を図ることもできるのだから一石二鳥だ。
 由梨が企画課へ配属になってからも、隆之のその習慣は続いている。
 だが今日、企画課に彼女がいなかったのである。
 そして彼女の同僚である天川という女性社員から由梨が早退したことを告げられたのだ。
『……通院?』
『ええ、確かそうおっしゃっていましたけど……』
 思ってもみなかった情報に隆之は戸惑った。
『調子でも悪くなったのか?』
 尋ねると首を振る。
『そういうことではなくて、もともと決めていたようですよ。早退自体は一昨日くらいから申請していましたから。仕事もそのつもりで段取りされていましたし……』
 そう言いながら天川は少し不安そうに直属の上司である黒瀬を見る。
 由梨の夫である隆之が由梨の通院を知らなかったことに、不穏なものを感じているようだ。不用意に口にしてしまってよかったのだろうかと思っているのだろう。
『あの……社長?』
『あ、いや、おしえてくれてありがとう。……大丈夫、彼女には天川さんから私が強引に聞き出したと言っておくよ』
 そう言うと、天川の表情が少し緩む。
 彼女を安心させるように微笑みながら、隆之の頭の中はこの後のスケジュールをどうしようかということでいっぱいだった。
 急病ではないにしろ病院に行ったのなら何かあるのだろう。
 隆之は妻の体調の変化に気が付けなかった自分に心の中で舌打ちをした。
 ここのところ仕事が立て込んでいて深夜帰宅が続いていたてあまり顔を合わせられていないというのは言い訳にしかならない。
 ……いったいどうしたのだろう。
 胸に不安な思いが広がった。
 今すぐに全てを放棄して由梨いる病院へ行きたいくらいだった。
『ではまた。お疲れ様』
 心の中の焦りを隠しながら、隆之は社長らしい笑みを浮かべる。そして企画課を出ようとした時、黒瀬から声がかかった。
『社長、余計なことかも知れませんが、この雪の影響でさっき高速で玉突き事故が発生したようですから、下道も混んでいるはずです』
 車で帰宅するであろう隆之を慮ってのアドバイスだ。やはり彼は気が効くと隆之は内心で手を合わせる。
 いつものように車を使えば渋滞に巻き込まれてしまっていた。
 隆之は『ありがとう』と頷いて、企画課を後にした。
 それからすぐに午後の業務を片付けて徒歩で会社を飛び出した。途中何度も由梨の携帯を鳴らしたが、電源が落ちているようだった。
 病院へ行ったのならそれは仕方がない。
 でも連絡がつかない以上、なにがどうなっているのかがわからなくて不安だった。
 初雪が降りしきる家路を隆之はひたすら走り続けた。
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