政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
 妊娠十週目を超えて胎児の心拍が確認できた段階で、由梨は妊娠を企画課の仲間へ伝えることにした。
 本来なら職場へはもう少しあとに伝えるのがセオリーと由梨が買った本には書いてあったのだが、母親としての先輩である山辺に相談したところそうした方がいいとアドバイスをもらったのだ。

『お腹が大きくなれば、皆気がついて配慮してくれるんだけど、お腹が目立たない妊娠初期の方が体調不良は起こりやすいのよ。つわりもあるし、貧血になるし。加えて、企画課は社内でも一番ハードな部署で外出もしょっちゅうだから、私はそうしたけど』

 幸いにして、激しいつわりは今のところ感じないが、食欲の減退し疲れやすい状態ではある。
 眠気を強く感じるから朝もなかなか起きられず隆之に起こされる始末だ。
 妊娠中であることを黙ったまま今まで通りのスケジュールをこなせる自信は正直いってなくなりつつあったのだ。
 そしてある日の終業後、あらかじめ伝えておいた課長の陽二から皆へ伝えてもらうことにした。

「あの……特別な配慮はいりません。今まで通り精一杯やらせていただきますので……」

 ひと通り説明し終えた陽二の隣で由梨は頭を下げる。するとすぐにメンバーから声があがった。

「それじゃ意味ないわ」

 天川だった。

「一番大切な時期なんだから。そのために発表したんでしょ。主任、これから雪も降るし、道が滑りやすくなります。今井さんの外出は最小限にしてください」

 自分の口から配慮してくれとは言えない由梨に代わって話をしてくれるのありがたかった。

「わかってるよ」

 黒瀬がそれに応えた。

「当面は内勤を中心にしてもらうことにする。割り振りは追って考えるから、今井さんさっそく明日打ち合わせを」

「ありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 由梨が外出を減らせばその分別の誰かにしわ寄せがいく。それが申し訳なかった。

「謝ることなんてないよ。こういうことは誰にだってあるわ。べつに妊娠じゃなくてもさ。そのためのチームでしょ」

「体調に不安がある時は我慢せずに言ってね」

 ありがたい天川の言葉と温かい山辺の言葉で、その場が一気に祝福ムードになる。

 由梨の胸に熱いものが込み上げた。
 この会社でこのメンバーで働けていることを心からありがたいと思う。

「それにしても、あの社長がパパなんてな」

 黒瀬がふふふと不敵な笑みを漏らしている。なにやらよからぬことを考えているのは明白だった。
 天川が呆れたような声を出した。

「主任、また社長をからかおうとしてるんでしょ」

「いや、そんなわけないじゃないか。相手は社長だぞ? ……でもあの完璧なお殿様がどうなるのか楽しみだろ」 

 そしてくっくと笑っている。

「えー、まさか社長がオツムを替えたりするのかな?」

「そりゃするでしょ。でなきゃ父親失格よ」

「えー見たいー! 今井さん、絶対に写メ送ってよね」

 皆口々に言いたいことを言い合っている。
 そこへ隆之が通りかかった。

「なんだ、盛り上がってるな」

 外出先から戻ってきたようだ。
 皆が一斉に隆之に注目して、すぐに祝福の声があがった。

「社長、今井さんの話を聞いていたんですよ。おめでとうございます!」

「おめでとうございます!」

 おそらく、彼にとっては意外な反応だったのだろう。一瞬動きを止めて、目を瞬かせる。そして、照れたように視線を逸らして、

「ああ、ありがとう」

と呟いた。
 いつも堂々としている彼らしくないその反応に、どっと皆から笑いがあがる。
 タイミングがいいのか悪いのか、どちらともいえない展開に由梨は真っ赤になってしまった。

「ふふふ、あの社長が、照れるなんてね。やっぱり普通の人なんだ。なんか安心しちゃうよね」

 山辺に囁かれてもろくに返事もできなかった。

「社長、ジュニアが生まれたら企画課一同すぐにお顔を拝見させてもらいにあがります!」

「そんなの絶対迷惑だよー。女子だけでいきまーす!」

 口々に声があがり、隆之が頭をかいている。その視線が由梨とぶつかった。
 会社の皆に伝えることを、もちろん由梨はあらかじめ隆之に相談していた。皆の反応を心配する由梨に彼は大丈夫だろうと言ったのだ。

『俺が副社長になってからは、女性社員に長く働いてもらえる環境を整えてきたつもりだ。ここしばらく秘書課では産休育休はなかったが、他の課ではあたりまえになっている』

 由梨は隆之を見つめ返して小さく頷く。彼の言う通りだった。
 すると不意にある社員から、声をかけられる。

「でも……、今井さん。……復帰されますよね」

「……え?」

 このまま出産を期に由梨が退職してしまうかどうかの確認だった。

「辞めないですよね」

 不安そうに問いかける彼女は、最近由梨にできたばかりの企画課での後輩だった。ガッツはあるけれど少し慌てん坊なところがある彼女の指導は由梨に任されている。
 その彼女の問いかけに、場が静かになった。
 本当のところそのことに関する答えを由梨はまだ見つけられていなかった。
 何代もつづく加賀家という名家に嫁いだという立場で、それを望んでよいものかがわからなかったからだ。隆之は家のことは考えずに由梨の好きにしていいと言ってくれてはいるだが……。

「今井さーん。辞めないでください」

 由梨の腕を取って懇願する後輩に、天川青筋を立てる。

「ちょっと! そんなことこんな場で聞くもんじゃない! 答えにくいでしょう⁉︎」

 その時。

「今井さん」

 低くて落ち着きのある声が由梨を呼ぶ。
 顔をあげると、隆之が静かな眼差しで由梨を見つめていた。

「君はどうしたい?」

 由梨は彼を見つめてから、企画課の面々を見回した。頭には五年間共に過ごした秘書がのメンバーが浮かぶ。
 たくさんの案件をともに乗り越え、その成功を分かち合った。
 まだまだやりたいことはたくさんある。
 由梨は真っ直ぐに隆之を見つめて、決意を込めて口を開いた。

「許されるなら、また戻ってきたいです」

 大変だとはわかっている。もしかしたら、途中でうまくいかなくなるかもしれない。でもやってみてもないうちに諦めるのは嫌だった。
 六年前、この街に来た時は、なにもできなかった弱い自分を、成長させてくれたのは、北部支社の仲間であり大好きな仕事だったのだ。
 簡単に諦められるはずがない。

「戻りたいです。社長」

「——わかった」

 強い思いを受け止めて彼は一旦目を閉じる。そして次に開いた瞬間に、由梨の胸がドキンと鳴った。
 強さを湛える彼の瞳に、なにかが灯ったような気がしたからだ。

「許されるに決まってるじゃない!」

 山辺が明るく声をあげて、その場の空気がホッと緩む。
 隆之は「彼女を、よろしく頼む」と頭を下げて、また皆を驚かせてからエレベーターの方向へ去っていった。

「まだまだ教えてほしいことがたくさんあるんですー」

と言う後輩と、

「教えたことが無駄にならなくてよかったわ」

と微笑む天川に挟まれながら、由梨は彼の背中を見つめていた。
 なぜだかはわからないけれど、胸がざわざわと騒いだ。
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