政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
小さな変化
 昼時、社長室で昼食を済ませた隆之は、所用のため秘書室へ顔を出した。
 午後から向かう先の件で秘書室長の蜂須賀と打ち合わせをするためだ。

「この後二時ごろに出発すれば、先方には余裕を持って着けそうですね」

 彼の言葉に隆之は頷いた。

 以前ならこういう時は昼食を抜いて出発し、近くにある関係先を回ることも多かった。
 地元関係者との結びつきが強いこの地域、昔ながらのやり方を重視する者が多いから、電話やメールでどれだけフォローしても直接顔を合わせる機会がなければ話にならない。
 今もできるだけ顔を出すようにはしているが、昼食時間を犠牲にするようなやり方はここ一週間は控えている。

"昼食を食べろ、健康管理をしっかりやれ"

 秘書の長坂にそれこそ何年も前から耳にタコができるほど言われ続けていたことにようやく耳を傾ける気になったのだ。

 きっかけは少し前の長坂との雑談だ。

『私の友人が先日子供を出産したんですが』

 スケジュールに関しての打ち合わせ終わり、普段なら無駄口など一切叩かずに部屋を出ていくはずの彼女が、突然プライベートの話をしだしたのだ。

 不思議に思いタブレットから顔を上げると、彼女は続きを話し始めた。

『夫婦って、特に妻の方は子供ができると心境が少し変わるみたいですよ。先週末お祝いを持ってお家に伺ったんですが、それはそれはフラストレーションが溜まっているようでした』

 そう言って彼女はニヤリとして隆之を見る。
 隆之は椅子に背を預けて、黙ったまま腕を組んだ。

 社長の秘書に対する態度としては、少々よくない振る舞いだが、もともと彼女とは大学の同期という間柄で、しかも今は業務と関係ない話をしているのだから、多少は許されるはずだ。
 視線の先で、長坂がやれやれというようにため息をついた。

『本当に、たくさん愚痴を聞かされましたよ。内容はいろいろでしたけど、私から言わせれば、とにかく夫側に父親になったという自覚がないのが原因でしょうね』

 隆之は眉を上げて、彼女が言いたいことの核心を読み取ろうとする。
 長坂が、隆之との会話を楽しむためだけにこんな話をするわけがないからだ。なにか言いたいことがあるに違いない。
 この内容からして十中八九、由梨に関することだろう。

 妊娠中の由梨に対する隆之の態度に問題があると言いたいのだろうか?

 彼女は由梨の友人で、相談に乗ることも多いだろうから、由梨からなにか不満を聞いたとか。

 少し前の物産展の件で話をした時はなにも言っていなかったが……。

『一番腹が立ったのは、出産直後退院したばかりの頃に旦那さんが、体調不良で寝込んだことだそうですよ。新生児を抱えてただでさえ大変なのに、旦那さんの看病まで手が回りませんからね。病気なんだから仕方がないだろうって言われも、子供が生まれる前と同じように飲み会三昧、夜ふかししてお菓子を食べながらゲームが当たり前だったみたいですから、許せなかったって言ってました。手伝ってくれとまでは言わないから、せめて自分の体調管理くらいはしてほしいってね』

 ここまで聞いて、ようやく隆之は彼女がなにを言いたいのかを理解する。

 さっきの打ち合わせで、隆之が今日の昼食は移動中に済ませることにして、回る先を一カ所増やすと言ったからだ。
 移動中、すなわち車内で取るという意味だが、資料を読みながらという場合が多いから、必然的にドリンク剤や栄養剤などに頼ることが多かった。

 それではダメだと言いたいのだろう。

 長坂がいよいよ由梨に言及し始める。

『まだ生まれていなくても、妊娠中って気持ちが不安定になるそうですよ。無理ないと思います。自分の身体のことお腹の赤ちゃんが順調かどうか、幸せだけど心配ごとは尽きないってとこでしょう。それなのに、旦那の体調の心配までしなくちゃいけないなんて……』

『わかったわかった』

 隆之はため息混じりに、長坂の言葉を遮った。

『……さっき追加した件はなしだ。元の予定通り昼食を取ってから、出発する』

 もともとなかった予定だ。明日以降でも業務には差し支えない。

 長坂が満足そうに頷いた。

『では昼食は社内で取られるということで』

 隆之にとって唯一の異性の友人である長坂は、おそらくは随分前から隆之の由梨に対する気持ちに気が付いていたはずだ。
 無事に結婚してからはなにかにつけてからかわれる。完全に弱みを握られている状態だ。

 その彼女に言われてそのまま従うのは癪だという気持ちはあるものの、身重の由梨のことを考えれば、素直にそうするべきだという気になった。

 由梨も

『ご飯はちゃんと食べてくださいね』

といつも言っている。

 彼女の心配を分かち合い、不安を取り除いてやる立場にいる隆之が体調を崩して、彼女の負担になるなど言語道断だ。

「長坂、昼食は終わったから後を頼む」

 蜂須賀との打ち合わせ後、隆之は長坂にそう声をかける。
 社内で昼食を取る時は、役員用にピックアップされている出前を取ることが多かった。食べ終わったと連絡すれば食器を回収しに来てくれる。

「了解しました」

 答えながら長坂が向かいの席の西野と視線を合わせている。
 ニンマリとする二人を隆之は見ないフリをする。
 そして社長室へ向かいドアを閉めようとした瞬間、ふたりの会話が耳に飛び込んできた。

「由梨先輩を出して、説得したのは正解でしたね、長坂先輩」

「ふふふ、ここまで効果抜群だとは思わなかったわ」

 隆之は憮然として、ドアを閉めた。
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