『政略結婚は純愛のように』番外編集

 コーヒーとお茶が載ったお盆を手に由梨がキッチンから出てくると、リビングから「あうー」という可愛い声が聞こえてくる。
 ソファで隆之に抱かれている沙羅だ。
 隆之が、小さな足を愛おしそうに指でなでて、ご機嫌の彼女の表情を一瞬も見逃さないぞというように、優しい目で見つめている。
「コーヒーどうぞ」
 センターテーブルにお盆を置いて由梨は隆之の隣に腰を下ろす。
「ふふふ、沙羅、お父さんに抱っこしてもらって嬉しいね」
 沙羅に向かって声をかけると、彼女は手足をパタパタさせた。
 隆之が微笑んだ。
「ありがとう。俺に抱かれるといつも沙羅はご機嫌だ」
 そう言う彼も、彼女に負けず劣らずご機嫌だ。
「……もうすでにお父さんっ子だな」
 なんて得意そうに言うものだから、由梨は思わず笑ってしまう。昨日届いた隆信からのメッセージに対抗しての言葉だろう。
 くすくす笑いながら「そうですね」と答えると、彼は満足そうに頷いて、今度は沙羅の頬をくすぐるように指で触れる。
 沙羅がまた「あっうー!」と可愛い声を出した。
 久しぶりに夫婦の時間を過ごした夜から一夜明けた今日は、土曜日だ。隆之は、朝からずっと沙羅を抱いている。それこそ授乳中以外ずっとである。
 まずは散歩だと言って広い庭をゆっくりと一周して、戻ってきてからはオムツを替えて、買ったばかりのおもちゃをカラカラと振ってやったり……。
 とにかく、どれだけ見ていても飽きないようだ。
 その間に由梨は、少しゆっくりさせてもらった。
「コーヒー冷めないうちにどうぞ。私が抱いていましょうか?」
 由梨は手を出して尋ねるが、彼は頷かなかった。
「由梨が先に飲めばいい。いつもはゆっくり飲めないだろうし。それにちょっと眠そうなんだ。ほら、目を擦った。……このまま寝かせる方がいい」
 優しい声でそう言って、沙羅を離さない。
 由梨はふふふと笑った。
 きっと、寝たら寝たで起こさない方がいいと言って抱いたままなのだ。そして結局最後は、冷たくなったコーヒーを嬉しそうに飲むのだろう。
 由梨は無理強いはせずに、ありがたくお茶をいただくことにする。今彼が言った通り、沙羅とふたりきりの時は熱いものを熱いうちに食べたり飲んだりすることなんてほとんど不可能だ。
 するとそこでセンターテーブルに置いてある隆之の携帯が震え、メッセージが届いたことを知らせる。
 隆之が沙羅をしっかりと抱いたまま手を伸ばして画面を確認する。そしてなにを思ったか、由梨に向かって口を開いた。
「陽二だよ」
 それが、昨夜由梨が彼の女性関係を疑ってしまったことを受けての言葉だ、と気がついて由梨は慌てて口を開いた。
「私は、べつに……!」
 隆之が眉を上げて「そう?」と言う。
 そしてフッと笑って携帯を置いた。
 両手で茶呑みを持ったまま、由梨はしょんぼりとした。
「隆之さん、昨日はごめんなさい。私、隆之さんを疑うようなことを言って……」
 昨夜もなんか変だと思ったが、後から考えてもやっぱりどこかおかしかった。
 たったあれだけのことで、あんなにも不安になるなんて。
「どうして泣いちゃったりしたんだろう?」
 隆之が由梨の頭を優しくなでた。
「気にすることはないよ。産後の母親は精神的に不安定になるって本に書いてあったじゃないか。ちょっとしたことでも不安になるんだろう。由梨に負担がかかりすぎてたんだと思って昨日は俺もちょっと焦ったけど」
 彼の言葉に、あれがそうだったのかと由梨は思う。確かに本にはそう書いてあった。
「不安な気持ちは、俺にぶつければいい」
 彼は優しくそう言うが、だからといって申し訳ない気持ちは消えなかった。
「だからって、あんな思ってもないこと言うなんて……」
 呟いてため息をつく。
 彼が女性と会っているなんて、ありもしない妄想に取り憑かれたのが恥ずかしい。
 すると隆之がそれを見て、ぷっと噴き出した。そのままくっくっと肩を揺らして笑っている。
 由梨は首を傾げた。
「隆之さん?」
「いや、ごめん。でも、思ってもないってわけじゃないんじゃないか?」
 そう言ってまた笑っている。そして意外な言葉を口にする。
「由梨は覚えてないだろうが、前も君は俺を疑って怒っていたことがある」
「え……? 疑って……怒って?」
 まったく身に覚えのない話に、由梨は目をパチパチさせた。
 隆之が楽しげに話しはじめた。
「そう確かあれは、俺が婚礼酒を買って帰った夜だ。あの時由梨が疑っていたのは、俺の過去のことだったな。由梨が北部支社へ来てからは、俺は誰とも付き合っていないという話が信じられないとか言って。ぷんぷん怒ってた」
「あ、あの夜に……?」
 由梨の頬が熱くなった。
 まったく記憶にないけれど、彼が嘘をついているとは思えなかった。そもそも由梨はあのお酒のせいであの夜の記憶があまりない。気がついたらベッドの上で朝を迎えたのだから。
「つまり由梨は、心の奥底で俺の過去にこだわっているということだろう。普段は理性で抑えているが、なにかあると言わずにいられなくなるというわけだ」
 自分が疑われているという本当ならめんどくさい状況のはずなのに、彼はどこか楽しげだ。
 一方で由梨の方は、彼のこの指摘を、否定することができなかった。
 だってこんなに素敵な人が自分の旦那さまだなんて、いまだに信じられないと思う時があるくらいなのだ。
 彼の歴代の恋人たちのことは意識して気にしないようにしている。
「じゃあ私、また言っちゃうかもしれないってこと……?」
 愕然として由梨は言う。
 お酒の件は気をつけていればいいが、産後の精神状態の不安定さは……あまり自信がない。昨日は本当に自分で自分が止められなかった。
「どうしよう、隆之さん……」
 隆之が、はははと声をあげた。
「いいよ、いいよ。ぶつけてくれって言ったじゃないか。俺、由梨にやきもちを焼かれるのは好きなんだ」
 呑気にそんなことを言って、心底楽しそうに笑っている。
「で、でも……」
「妻が不安を感じるなら安心させるのが夫の役目だろう。いくら疑われても俺は由梨だけだし、君が安心できるように伝え続けるよ」
 そう言って、なにやら意味深な表情になり由梨の耳に唇を寄せた。
「……昨日の夜、みたいな方法で」
「つっ……!」
 昨日の夜という言葉と耳にかかる甘い息に、由梨の頬は熱くなった。
 昨夜ふたりは本当に久しぶりに夫婦として愛し合った。
 彼は由梨の身体を気遣い大切に扱いつつ、情熱的に何度も由梨を求めた。
 不安などあっという間に吹き飛んだのは事実だけれど……。
「き、昨日みたいな方法はあまり良くないと思います……」
 真っ赤になるのを感じながら由梨が言うと、隆之が首を傾げた。
「なんでだ? 嫌だったか?」
「い、嫌じゃないです。でも……」
「でも?」
「つ、疲れすぎちゃうからです……!」
 そう言って、由梨は頬を膨らませ彼を睨んだ。
 確かに昨夜は幸せだった。ひと時、母親としての自分から、ただ彼に恋をしているだけの自分に戻り彼に愛されたのだ。
 幸せを感じたのは事実だが……そのあとがよくなかった。
 由梨はそのまま深い眠りに落ちてしまい、次に目を覚ましたのはなんと朝。つまり、夜中の沙羅の授乳に起きられなかったというわけだ。
 もちろん沙羅が放っておかれたというわけではない。隆之が由梨の代わりにミルクをあげてくれたのだ。
「沙羅の授乳に起きられなくなるなんて……」
 由梨は両手で顔を覆う。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 眠くて眠くてなかなか起きられないことはあったけれど、まったく気がつきもしないなんてことは今までなかったのに……。
 それなのに隆之はどこ吹く風で肩をすくめる。
「べつに、大丈夫だよ。夜中の授乳は母親じゃないとダメだという決まりはないんだし」
「でも、起こしてくれればよかったのに……」
「気持ちよさそうに眠る君を起こしたくなかったんだよ。そもそも眠い時は俺が代わるといつも言っているじゃないか」
 確かに彼はそう言うが、だからといってお願いすることなどできるはずがない。彼の仕事がいかに激務か元秘書の由梨はよく知っている。
「隆之さんに夜の授乳を代わってもらうなんてことできません!」
 きっぱりと言い切ると、隆之が首を傾げ咎めるような目で由梨を見る。
 それでも由梨は引かなかった。
「絶対にダメ」
 この話は、沙羅が生まれてからずっとふたりの間で平行線だ。
 隆之が肩をすくめて、息を吐く。そして少し考えるような表情になってからとんでもないことを呟いた。
「じゃあ、次からもこの方法でいくことにしようかな」
「なっ……!」
 その言葉に、由梨は目を剥いた。
 つまりは昨日みたいなことをして、由梨を疲れさせ夜の授乳を代ろうということだ。
「ダメですよ! そんな目的で……!」
「もちろん目的はそこじゃない。ただ俺が由梨を抱きたいからだ。でもその結果、由梨がゆっくり寝られるなら一石二鳥じゃないか」
 しれとそんなことを言う隆之に由梨は頬を膨らませた。
「それでもダメです、そんなことならもうしません」
 隆之が首を傾げた。
「……もうしない?」
「……さ、沙羅の授乳がある間は」
 彼が由梨の身体を第一に考えてくれるように、由梨だって彼の体調が大切だ。
「……なるほど。だけど由梨はそれで大丈夫なのか?」
 そう言って、隆之が由梨をジッと見つめた。
 ……すると、ただそれだけのことなのに、由梨は心はぐらぐらと揺れはじめる。
 見つめられるだけでこんな風になってしまう自分自身が情けないと思いつつ、由梨はごにょごにょと言う。
「わ、私が疲れないように、気をつけてくれるなら……その……大丈夫なんですけど……」
 愛されていることだけを感じつつ身体は元気でいられれば、夜の授乳もできるはず。
 その由梨のお願いに、隆之は不意を突かれたように瞬きをして、次の瞬間、はははと声をあげて笑い出した。
「由梨を疲れさせないようにって? 俺、そんなやり方知らないよ! なにを言い出すかと思えば。かわいいなぁ、由梨は」
「で、でも、隆之さんがその気になればできるはずです……!」
 百戦錬磨の彼なのだ、そっち方面で、できないことなどあるはずがない。
 ……それなのに。
「無理、できない」
 彼はバッサリ切り捨てた。
「そ、そんな……!」
「だいたいそれなら由梨を抱く意味がないだろう」
「意味がないなんて……そんなことはないと思います」
「そんなことあるよ。だけどどうしてもと言うなら、由梨がおしえてくれ。その、由梨が疲れない方法を」
 そう言って彼は、楽しげに由梨を見る。そんなことできないだろうと思っているのは明白だ。
 由梨は頬を染めて考えた。
 そこであることを思いつき、ためらいながら口を開いた
「た、たとえば……。その……"その時"に、私がストップをかけた時には、それ以上しないでくれるとか……」
 思いつきだけれど、名案だと由梨は思う。
 そもそも昨夜のその時も、由梨は何度か限界を感じ、そのたびに彼に"それ以上はしないでほしい"とストップをかけたのだ。
 それなのに彼は、ある時はあの視線で由梨を見つめ、またある時はにっこりと微笑んで、結局一度も由梨の願いを聞き入れてはくれなかった。
 その結果、由梨はくたくたに疲れてしまい、夜中に起きられなかったのだ。
 あれをやめてくれれば、なんとかなるだろう。
 ……それなのに。
「それはできない」
 にっこりと笑って彼はきっぱりと首を横に振る。そしてややわざとらしく顔をしかめた。
「もちろん由梨が本当に嫌がっているなら、すぐにやめる。だけどそうでないのに、引ける自信は俺にはないな」
「そんな……! わ、私は本心から言ってました……! 昨日も……」
 慌てて反論するけれど。
「昨日も? 本当に?」
 素早く切り返されて口を閉じる。
 言葉に詰まって隆之を見ると、彼はまた由梨をジッと見つめている。
 由梨の自信はまたすぐにぐにゃりと曲がってしまう。
 ……昨夜は。
 あまりに情熱的な彼の攻撃に、限界を感じてやめてほしいと思ったのは確かだが、本心から嫌だと思ったわけではない。よくよく考えてみるとむしろその逆で……。結局、最後には由梨の方からも彼を求めてしまったのだ。
「嫌だった? ……由梨?」
 由梨が本心から嫌がっていないことなどお見通しの彼のわざとらしい追求に、由梨は両手で顔を覆う。
「もう……! 隆之さん」
 隆之がまた噴き出して、肩を揺らして笑い出した。
 ……大きな声であれこれ言い合う両親をよそに、いつのまにか沙羅はすやすやと気持ちよさそうに平和な寝息を立てていた。
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