『政略結婚は純愛のように』番外編集
4
その日の夜、隆之が帰ってきた時はすでに沙羅は眠っていた。昼間に外出した日は、隆信に抱っこしてもらってはしゃぐからだろうか、たいてい夜の寝つきがいい。
「おかえりなさい」
リビングで由梨が隆之を出迎えると、彼はいつものように由梨を抱きしめた。
「ただいま、由梨」
「お疲れさまです。隆之さん」
「由梨も、お疲れ」
そして顎に手が添えられる。
由梨の胸は高鳴るが、彼の唇が下りてきたのはいつものように唇ではなく……頬だった。しかも由梨を包む彼の腕はすぐに解かれてしまう。彼は、ダイニングテーブルにあらかじめ用意してあった夕食に視線を送った。
「夜ご飯ありがとう。由梨はお風呂に入っておいで」
いつもの彼の気遣いに、由梨の胸がずきんと鳴る。
彼の態度が、いつもと同じに見せかけてほんの少しズレているように感じるのは、由梨の考えすぎだろうか。
昼間の佐藤の話が頭をよぎる。
でもだからといってもちろん彼を問い詰めるわけはいかなかった。彼が由梨を裏切るようなことをするはずがない。きっとただの考えすぎなのだから。
「じゃあ、沙羅をお願いします」
頷いて由梨はリビングを後にした。
バスルームでゆっくりと湯に浸かって心を落ち着けようとしたが、あまりうまくいかなかった。よくないことが頭に浮かび不安な気持ちが胸に広がるのを止めることができなかった。
結局、もやもやとしたまま風呂からあがり、由梨はリビングへ戻ってくる。そっとドアを開けると、隆之はソファに座って、携帯を手に持っていた。
この距離からは、よく見えないはずなのに、それがプライベートの携帯だとなぜか由梨は確信する。彼の表情は、一昨日と同じように険しかった。
その場に根が生えたように由梨は動けなくなってしまう。代わりに視界が滲んで涙が溢れた。
「女の勘はたいてい当たる」という秋元の言葉が頭に浮かぶ。
こんなことで泣くなんてあり得ないと頭の片隅で思うけれど、涙は止まらなかった。
気のせいだともいえるような、ほんのわずかな彼の変化。
愛しているからこそ気がついてしまう、そんな自分が悲しかった。
その由梨に、隆之が気がついた。
「由梨……? どうした⁉︎」
携帯を置いて足速にこちらへやってくる。慌てて由梨は涙を拭くが、時すでに遅しだった。
「なにがあった?」
両肩を掴まれて、尋ねられる。その表情は心底由梨を心配しているようだった。
「隆之さん、私……」
ただ"なんでもない"と言うだけなのに、それができないでいる。そもそもこんなことくらいで泣くこと自体どうかしている。
「とにかく、こっちへ」
隆之はそう言って、由梨をリビングへ促しソファへ座らせる。自分も隣に座り、素手で由梨の頬の涙を拭いた。
「どうしたんだ? なにがあった? ……疲れたのか? まだ身体が完全に元に戻っていないのに、毎日一生懸命沙羅のことをしてくれるから。最近早く帰れていなくてごめん。明日は一日休みだから……」
彼にしては珍しく、由梨の言葉を待つことなく早急に話を進めている。どうやら育児の疲れで由梨が悩んでいると思ったようだ。
「そ、そうじゃないです」
由梨が首を振ると、驚いたように口を閉じ、逡巡してからまた次の質問を口にする。
「じゃあ……。親父のところでなにかあった? 嫌な思いをしたとか……」
その問いかけにも由梨が首を振ると彼は怪訝な表情になる。そして少し考えてから、迷うように問いかける。
「じゃあ、……俺になにか……?」
その言葉に、由梨は首を振ることも頷くこともできなかった。
目を伏せるとまた新たな涙が溢れる。やっぱり今日はどうかしてる。
その由梨の反応に、隆之は絶句する。でもすぐに気を取り直したように由梨の腕を優しく掴んだ。
「いや……。真っ先にそうじゃないかと、思うべきだった。俺が一番近にいるんだから……。だけどごめん、自分では心あたりがない。でもなにかあるなら言ってほしい。必ず直すから」
やや焦ったように彼は言う。いつも冷静な彼らしくない反応に由梨はさらに不安になる。まったく心あたりがないと彼は言うけれど……。
由梨の方も心がぐちゃぐちゃでいつものように彼を思いやることができなかった。どうにでもなれという気持ちで、センターテーブルに置きっぱなしになっている彼の携帯に視線を送る。やはりそれはプライベート用の携帯だ。
「隆之さん、なにか心配ごとがあるんでしょう? 今、携帯を見て深刻そうにしていました」
その言葉に、隆之が不意を突かれたような表情になる。そして携帯を手に取り首を傾げた。
「心配ごと……?」
とぼけてるのだと、由梨は思う。そしてさらに追求する。
「一昨日も、同じように携帯を見て難しい顔をしていました。それから、その後、私を避けるようにお風呂に入るって言って……。さ、さっきもキ、キスをほっぺに……。隆之さん、ほ、ほかに会っている女性がいるから、もう私にキスしたくないんですか?」
新たな涙がまた溢れて、取り乱してしまう。
本当に今日はどうしてしまったのだろう?
たとえば彼になにか隠し事があるとして、こんな風に問い詰めるのは逆効果でしかないに違いない。
わざと自分から、嫌われるようなことを言うなんて。
「ほかに会っている女性って……。どうしてそういう発想になるんだ」
隆之が心底困惑したように言ってから、携帯を手に取る。画面を由梨に見せてスワイプした。
「俺がどんな顔になっていたかはわからないけど、さっき見てたのはこれだ」
画面に直前まで彼が見ていたものが映し出される。沙羅がニコニコと笑う動画だった。
「え……? 沙羅?」
まだ目に涙が溜まったまま、由梨は瞬きをした。
隆之が頷いた。
今目の前で操作してくれたのだから間違いない。でもまったく意味がわからなかった。
この動画でいったいなぜあんな表情になるのだろう?
首を傾げる由梨をチラリと見て隆之が息を吐く。そしてまた画面を操作する。動画を閉じると隆信からのメッセージ画面になった。どうやらこれは隆信から息子へのメッセージに添付されていたもののようだった。
【由梨さんと沙羅が来てくれた。今日は声をたててよく笑った。じいじっ子になりそうな予感がするな】
短い文の中に、沙羅への愛情が綴られている。
「今日由梨と沙羅が会いに行ったという親父からの報告だ。由梨が行った日は必ずこうやって送ってくる」
その言葉に由梨は頷く。
確かにさっきの画像は今日隆信が佐藤に頼んで撮ってもらっていたものだ。
「でも……どうして? 隆之さん、すごく怖い顔になっていました」
顔を上げて問いかけると、彼はおもしろくないといった表情になる。そっぽを向いて呟いた。
「……俺は、起きている沙羅にもう三日も会っていないのに」
「…………え?」
隆之がこちらを向いて拗ねたように、もう一度繰り返した。
「三日も会っていないんだ。それなのにこんなメールが届いたら、おもしろくないに決まってるだろう」
確かに彼はここ数日、起きている沙羅にしっかりと会っていない。帰宅は、彼女が寝てからだったし、朝は早く出なくてはならなかったからだ。
夜中の授乳の際は一緒に起きて由梨が授乳するのを隣で見ていたが、どうやらそれは彼の中ではカウントされていないらしい。
それを寂しく思っているところへ、父親からメールが届き羨ましくなったということだ。
つまりは、隆信に……。
「やきもちを焼いてたんですか……?」
啞然として問いかけるが、彼は答えない。だがその顔には、"そうだ"と書いてある。
「でも相手はお義父さんなのに……」
「いくら親子でも、譲れないものがある」
さも重要そうなことのように言う隆之に、気が抜けたと同時になんだかおかしくなって由梨は思わず噴き出してしまう。くすくす笑っていると、彼はさらなる不満を口にする。
「メールを見なければいい話だが、必ず沙羅の動画がついているから厄介だ。無視したくても見ないわけにはいかないし……」
つまりは、可愛い画像は見たいけど、父親への複雑な気持ちは抑えられない。
それであんな表情になっていたというわけだ!
安心した反動で由梨は笑いが止まらなくなってしまう。
「そ、そんなことで……!」
とそこで、隆之にじろりと睨まれて、慌てて口を閉じて笑いを引っ込めた。
「……ごめんなさい」
すると彼は目を細めて携帯を置き、由梨の腕をぐいっと引く。あっという間に由梨は彼の腕の中に閉じ込められてしまう。
驚いて顔を上げると、彼のあの瞳が由梨を見つめていた。
「隆之さん……?」
「……ここ数日、由梨に触れられなかったのは、触れたら我慢できなくなりそうだったからだ」
さっき由梨が口にしたもうひとつの不安に対する答えだった。
「我慢……?」
彼は頷き低い声で囁いた。
「俺はもう一年以上、君を抱いていない」
どきんとして由梨は目を見開く。直接的な言葉に頬が熱くなっていく。
今彼が口にした通り、妊娠中彼は一度も由梨を抱かなかった。由梨の身体を第一に考えてくれていたのだ。
由梨にとってはありがたいことだった。
仕事をしながらのはじめての妊娠は、概ね順調だったけれど、戸惑いと心配が絶えなかったからだ。
出産後、"そのこと"が頭をよぎらなかったわけではなかったが、はじめての育児にてんてこまいでそこまで深く考えられていなかった。
彼の我慢に甘えていたのかもしれない。
「あの……私、気がつかなくてごめんなさい」
目を伏せて由梨は言う。
隆之が微笑んで、由梨の頬にキスをした。
「謝らなくていい、大事なのは由梨の心と身体なんだから。俺は君に少しも無理をしてほしくない。だけど不用意に君に触れたら、我慢できなくなりそうで少し距離をとっていた」
そして由梨の頬に手をあてる。
どこまでも深い彼の愛情に、由梨の胸は熱くなる。由梨のことをこれほど大切に思ってくれる人は、世界中で彼だけだ。
出産後一カ月目の検診で、由梨はもう夫婦生活を再開してよいと医者に言われた。おそらく隆之もそのくらいは知っているはず。妊娠出産については、由梨よりもよく調べていた。
それでも彼が我慢していていたのは、由梨が無理をして彼に応えないようにという思いやりだ。
「隆之さん、私……もう大丈夫です。検診でもそう言われて……」
頬を染めて由梨が言うと、隆之が眉を寄せてゆっくりと首を振った。
「だけど、無理をする必要はない。俺は理由を説明しただけだ」
彼の思いが嬉しかった。いつもいつも彼は由梨の気持ちを第一に考えてくれている。
目を閉じて頬の温もりを感じながら、由梨は素直な思いを口にする。
恥ずかしいけれど、伝えたかった。
「無理してるわけじゃありません。私……、私も隆之さんに触れてほしい時がありました。おかえりなさいのキスのあと、物足りなく感じてしまったこともあって……。だから……その……」
それ以上は言えなくて口を噤む。目を開くと、すぐそばにある彼の瞳に探るような色が浮かんでいる。
今の言葉が由梨の本心かどうか、……どうすべきか決めかねているのだろう。
由梨は考えを巡らせる。
世界一、優しくて我慢強い人。
由梨の大切な彼に、どう言えば伝わるのだろう?
由梨だって彼が欲しいのだと。
……やり方は知らないけれど……。
頬を包む彼の手に、由梨はそっと口づける。そして今胸を満たしている熱い思いを言葉にする。
「隆之さん、大好き」
隆之が、苦しげに眉を寄せた。
由梨はこくりと喉を鳴らして、今度は彼の頬にキスをする。
「愛しています。大好き……」
そのまま、瞼と耳にも。
彼に触れ名を呼ぶたびに、由梨を抱く腕の力が強くなってゆく。
「隆之さん……」
なにかを堪えるようにきつく結んだ唇に、思いを込めてキスをする。
「……っ、由梨……」
荒い息が由梨を呼び、うなじに大きな手が差し込まれたその瞬間、突如攻守が逆転した。
「んんっ……!」
唐突に与えられた甘い刺激に、由梨は背中をしならせる。素早く入り込んだ彼の熱が好き放題に暴れ回るのを、甘美な喜びでもって受け止めた。
頭のてっぺんから指の先まで甘い熱が駆け巡り、由梨の一番深いところにある眠っていた感情を溶かし始める。
深くて甘くて熱いキスに、由梨は翻弄されていく。
唇が離れたことに気がついてゆっくりと目を開くと、大好きな彼の瞳が自分を見つめていた。
由梨の胸は甘い期待でいっぱいになっていく。こうしてみると、どうして今まで求めずにいられたのかと不思議に思うくらいだった。
もう一秒だって待てそうにない。
大好きな彼の瞳が、自分だけを映している。
彼の愛が自分だけに向けられている。
そのことに、由梨の心は震えた。
「隆之さん……」
焦がれるように彼を呼ぶと、ゆっくりとソファに寝かされる。まるでガラス細工を扱うかのように、彼の手はどこまでも優しかった。
けれどその目には、獰猛な獣の色が浮かんでいる。
「由梨……」
切なげに吐息を漏らした隆之が、由梨にまたがり膝立ちになる。
そして、Tシャツを脱ぎ捨てた。
「おかえりなさい」
リビングで由梨が隆之を出迎えると、彼はいつものように由梨を抱きしめた。
「ただいま、由梨」
「お疲れさまです。隆之さん」
「由梨も、お疲れ」
そして顎に手が添えられる。
由梨の胸は高鳴るが、彼の唇が下りてきたのはいつものように唇ではなく……頬だった。しかも由梨を包む彼の腕はすぐに解かれてしまう。彼は、ダイニングテーブルにあらかじめ用意してあった夕食に視線を送った。
「夜ご飯ありがとう。由梨はお風呂に入っておいで」
いつもの彼の気遣いに、由梨の胸がずきんと鳴る。
彼の態度が、いつもと同じに見せかけてほんの少しズレているように感じるのは、由梨の考えすぎだろうか。
昼間の佐藤の話が頭をよぎる。
でもだからといってもちろん彼を問い詰めるわけはいかなかった。彼が由梨を裏切るようなことをするはずがない。きっとただの考えすぎなのだから。
「じゃあ、沙羅をお願いします」
頷いて由梨はリビングを後にした。
バスルームでゆっくりと湯に浸かって心を落ち着けようとしたが、あまりうまくいかなかった。よくないことが頭に浮かび不安な気持ちが胸に広がるのを止めることができなかった。
結局、もやもやとしたまま風呂からあがり、由梨はリビングへ戻ってくる。そっとドアを開けると、隆之はソファに座って、携帯を手に持っていた。
この距離からは、よく見えないはずなのに、それがプライベートの携帯だとなぜか由梨は確信する。彼の表情は、一昨日と同じように険しかった。
その場に根が生えたように由梨は動けなくなってしまう。代わりに視界が滲んで涙が溢れた。
「女の勘はたいてい当たる」という秋元の言葉が頭に浮かぶ。
こんなことで泣くなんてあり得ないと頭の片隅で思うけれど、涙は止まらなかった。
気のせいだともいえるような、ほんのわずかな彼の変化。
愛しているからこそ気がついてしまう、そんな自分が悲しかった。
その由梨に、隆之が気がついた。
「由梨……? どうした⁉︎」
携帯を置いて足速にこちらへやってくる。慌てて由梨は涙を拭くが、時すでに遅しだった。
「なにがあった?」
両肩を掴まれて、尋ねられる。その表情は心底由梨を心配しているようだった。
「隆之さん、私……」
ただ"なんでもない"と言うだけなのに、それができないでいる。そもそもこんなことくらいで泣くこと自体どうかしている。
「とにかく、こっちへ」
隆之はそう言って、由梨をリビングへ促しソファへ座らせる。自分も隣に座り、素手で由梨の頬の涙を拭いた。
「どうしたんだ? なにがあった? ……疲れたのか? まだ身体が完全に元に戻っていないのに、毎日一生懸命沙羅のことをしてくれるから。最近早く帰れていなくてごめん。明日は一日休みだから……」
彼にしては珍しく、由梨の言葉を待つことなく早急に話を進めている。どうやら育児の疲れで由梨が悩んでいると思ったようだ。
「そ、そうじゃないです」
由梨が首を振ると、驚いたように口を閉じ、逡巡してからまた次の質問を口にする。
「じゃあ……。親父のところでなにかあった? 嫌な思いをしたとか……」
その問いかけにも由梨が首を振ると彼は怪訝な表情になる。そして少し考えてから、迷うように問いかける。
「じゃあ、……俺になにか……?」
その言葉に、由梨は首を振ることも頷くこともできなかった。
目を伏せるとまた新たな涙が溢れる。やっぱり今日はどうかしてる。
その由梨の反応に、隆之は絶句する。でもすぐに気を取り直したように由梨の腕を優しく掴んだ。
「いや……。真っ先にそうじゃないかと、思うべきだった。俺が一番近にいるんだから……。だけどごめん、自分では心あたりがない。でもなにかあるなら言ってほしい。必ず直すから」
やや焦ったように彼は言う。いつも冷静な彼らしくない反応に由梨はさらに不安になる。まったく心あたりがないと彼は言うけれど……。
由梨の方も心がぐちゃぐちゃでいつものように彼を思いやることができなかった。どうにでもなれという気持ちで、センターテーブルに置きっぱなしになっている彼の携帯に視線を送る。やはりそれはプライベート用の携帯だ。
「隆之さん、なにか心配ごとがあるんでしょう? 今、携帯を見て深刻そうにしていました」
その言葉に、隆之が不意を突かれたような表情になる。そして携帯を手に取り首を傾げた。
「心配ごと……?」
とぼけてるのだと、由梨は思う。そしてさらに追求する。
「一昨日も、同じように携帯を見て難しい顔をしていました。それから、その後、私を避けるようにお風呂に入るって言って……。さ、さっきもキ、キスをほっぺに……。隆之さん、ほ、ほかに会っている女性がいるから、もう私にキスしたくないんですか?」
新たな涙がまた溢れて、取り乱してしまう。
本当に今日はどうしてしまったのだろう?
たとえば彼になにか隠し事があるとして、こんな風に問い詰めるのは逆効果でしかないに違いない。
わざと自分から、嫌われるようなことを言うなんて。
「ほかに会っている女性って……。どうしてそういう発想になるんだ」
隆之が心底困惑したように言ってから、携帯を手に取る。画面を由梨に見せてスワイプした。
「俺がどんな顔になっていたかはわからないけど、さっき見てたのはこれだ」
画面に直前まで彼が見ていたものが映し出される。沙羅がニコニコと笑う動画だった。
「え……? 沙羅?」
まだ目に涙が溜まったまま、由梨は瞬きをした。
隆之が頷いた。
今目の前で操作してくれたのだから間違いない。でもまったく意味がわからなかった。
この動画でいったいなぜあんな表情になるのだろう?
首を傾げる由梨をチラリと見て隆之が息を吐く。そしてまた画面を操作する。動画を閉じると隆信からのメッセージ画面になった。どうやらこれは隆信から息子へのメッセージに添付されていたもののようだった。
【由梨さんと沙羅が来てくれた。今日は声をたててよく笑った。じいじっ子になりそうな予感がするな】
短い文の中に、沙羅への愛情が綴られている。
「今日由梨と沙羅が会いに行ったという親父からの報告だ。由梨が行った日は必ずこうやって送ってくる」
その言葉に由梨は頷く。
確かにさっきの画像は今日隆信が佐藤に頼んで撮ってもらっていたものだ。
「でも……どうして? 隆之さん、すごく怖い顔になっていました」
顔を上げて問いかけると、彼はおもしろくないといった表情になる。そっぽを向いて呟いた。
「……俺は、起きている沙羅にもう三日も会っていないのに」
「…………え?」
隆之がこちらを向いて拗ねたように、もう一度繰り返した。
「三日も会っていないんだ。それなのにこんなメールが届いたら、おもしろくないに決まってるだろう」
確かに彼はここ数日、起きている沙羅にしっかりと会っていない。帰宅は、彼女が寝てからだったし、朝は早く出なくてはならなかったからだ。
夜中の授乳の際は一緒に起きて由梨が授乳するのを隣で見ていたが、どうやらそれは彼の中ではカウントされていないらしい。
それを寂しく思っているところへ、父親からメールが届き羨ましくなったということだ。
つまりは、隆信に……。
「やきもちを焼いてたんですか……?」
啞然として問いかけるが、彼は答えない。だがその顔には、"そうだ"と書いてある。
「でも相手はお義父さんなのに……」
「いくら親子でも、譲れないものがある」
さも重要そうなことのように言う隆之に、気が抜けたと同時になんだかおかしくなって由梨は思わず噴き出してしまう。くすくす笑っていると、彼はさらなる不満を口にする。
「メールを見なければいい話だが、必ず沙羅の動画がついているから厄介だ。無視したくても見ないわけにはいかないし……」
つまりは、可愛い画像は見たいけど、父親への複雑な気持ちは抑えられない。
それであんな表情になっていたというわけだ!
安心した反動で由梨は笑いが止まらなくなってしまう。
「そ、そんなことで……!」
とそこで、隆之にじろりと睨まれて、慌てて口を閉じて笑いを引っ込めた。
「……ごめんなさい」
すると彼は目を細めて携帯を置き、由梨の腕をぐいっと引く。あっという間に由梨は彼の腕の中に閉じ込められてしまう。
驚いて顔を上げると、彼のあの瞳が由梨を見つめていた。
「隆之さん……?」
「……ここ数日、由梨に触れられなかったのは、触れたら我慢できなくなりそうだったからだ」
さっき由梨が口にしたもうひとつの不安に対する答えだった。
「我慢……?」
彼は頷き低い声で囁いた。
「俺はもう一年以上、君を抱いていない」
どきんとして由梨は目を見開く。直接的な言葉に頬が熱くなっていく。
今彼が口にした通り、妊娠中彼は一度も由梨を抱かなかった。由梨の身体を第一に考えてくれていたのだ。
由梨にとってはありがたいことだった。
仕事をしながらのはじめての妊娠は、概ね順調だったけれど、戸惑いと心配が絶えなかったからだ。
出産後、"そのこと"が頭をよぎらなかったわけではなかったが、はじめての育児にてんてこまいでそこまで深く考えられていなかった。
彼の我慢に甘えていたのかもしれない。
「あの……私、気がつかなくてごめんなさい」
目を伏せて由梨は言う。
隆之が微笑んで、由梨の頬にキスをした。
「謝らなくていい、大事なのは由梨の心と身体なんだから。俺は君に少しも無理をしてほしくない。だけど不用意に君に触れたら、我慢できなくなりそうで少し距離をとっていた」
そして由梨の頬に手をあてる。
どこまでも深い彼の愛情に、由梨の胸は熱くなる。由梨のことをこれほど大切に思ってくれる人は、世界中で彼だけだ。
出産後一カ月目の検診で、由梨はもう夫婦生活を再開してよいと医者に言われた。おそらく隆之もそのくらいは知っているはず。妊娠出産については、由梨よりもよく調べていた。
それでも彼が我慢していていたのは、由梨が無理をして彼に応えないようにという思いやりだ。
「隆之さん、私……もう大丈夫です。検診でもそう言われて……」
頬を染めて由梨が言うと、隆之が眉を寄せてゆっくりと首を振った。
「だけど、無理をする必要はない。俺は理由を説明しただけだ」
彼の思いが嬉しかった。いつもいつも彼は由梨の気持ちを第一に考えてくれている。
目を閉じて頬の温もりを感じながら、由梨は素直な思いを口にする。
恥ずかしいけれど、伝えたかった。
「無理してるわけじゃありません。私……、私も隆之さんに触れてほしい時がありました。おかえりなさいのキスのあと、物足りなく感じてしまったこともあって……。だから……その……」
それ以上は言えなくて口を噤む。目を開くと、すぐそばにある彼の瞳に探るような色が浮かんでいる。
今の言葉が由梨の本心かどうか、……どうすべきか決めかねているのだろう。
由梨は考えを巡らせる。
世界一、優しくて我慢強い人。
由梨の大切な彼に、どう言えば伝わるのだろう?
由梨だって彼が欲しいのだと。
……やり方は知らないけれど……。
頬を包む彼の手に、由梨はそっと口づける。そして今胸を満たしている熱い思いを言葉にする。
「隆之さん、大好き」
隆之が、苦しげに眉を寄せた。
由梨はこくりと喉を鳴らして、今度は彼の頬にキスをする。
「愛しています。大好き……」
そのまま、瞼と耳にも。
彼に触れ名を呼ぶたびに、由梨を抱く腕の力が強くなってゆく。
「隆之さん……」
なにかを堪えるようにきつく結んだ唇に、思いを込めてキスをする。
「……っ、由梨……」
荒い息が由梨を呼び、うなじに大きな手が差し込まれたその瞬間、突如攻守が逆転した。
「んんっ……!」
唐突に与えられた甘い刺激に、由梨は背中をしならせる。素早く入り込んだ彼の熱が好き放題に暴れ回るのを、甘美な喜びでもって受け止めた。
頭のてっぺんから指の先まで甘い熱が駆け巡り、由梨の一番深いところにある眠っていた感情を溶かし始める。
深くて甘くて熱いキスに、由梨は翻弄されていく。
唇が離れたことに気がついてゆっくりと目を開くと、大好きな彼の瞳が自分を見つめていた。
由梨の胸は甘い期待でいっぱいになっていく。こうしてみると、どうして今まで求めずにいられたのかと不思議に思うくらいだった。
もう一秒だって待てそうにない。
大好きな彼の瞳が、自分だけを映している。
彼の愛が自分だけに向けられている。
そのことに、由梨の心は震えた。
「隆之さん……」
焦がれるように彼を呼ぶと、ゆっくりとソファに寝かされる。まるでガラス細工を扱うかのように、彼の手はどこまでも優しかった。
けれどその目には、獰猛な獣の色が浮かんでいる。
「由梨……」
切なげに吐息を漏らした隆之が、由梨にまたがり膝立ちになる。
そして、Tシャツを脱ぎ捨てた。