『政略結婚は純愛のように』番外編集
ホワイトデーの思い出
 午後八時を回った今井コンツェルン北部支社の秘書室にて。
 ひとり残業を終えた由梨がパソコンをシャットダウンさせて窓の外に視線を送ると、夜の街に、雪がしんしんと降っている。
 由梨にとって東京からこの街に来てはじめての本格的な冬である。
 車での送迎を断り、電車で通勤している由梨にとっては、この雪の中を帰宅するだけでもひと仕事だ。
 それでもそれを嫌だとはまったく思わなかった。
 それどころか、降り積もる雪が暖かく自分を迎えてくれた、そんな気持ちにすらなる。そのくらい今日はいいことがあった。
 机の横に置いてあるふたつの包みに視線を送り、由梨は笑みを浮かべた。
 長坂と蜂須賀にもらったバレンタインチョコのお返しである。
 ここに来て、仕事の楽しさを教えてくれたふたりに感謝の気持ちを伝えたくて贈ったチョコレートには、メッセージカードを添えた。
『いつもありがとうございます。これからもご指導よろしくお願いします』
 昼休みにお返しを手渡してくれた長坂と蜂須賀からそのカードに対する意外な言葉をもらったのである。
『今井さんがこんなに頑張り屋さんだとは思わなかった。いい後輩が来てくれて、助かってる。社長の仕事だけでなく、殿の仕事も助けてもらえるとは思わなかったもの。ねえ、室長』
 長坂の言葉に、隣で蜂須賀が頷いた。
『本当によく頑張ってくれているよ。秘書室へ配属を決めてくれた副社長に感謝だね。もちろん、東京からこちらへ来てくれた今井さんにも。これからもよろしく』
 ふたりの言葉に、不覚にも泣いてしまいそうになったと言ったら、きっと笑われてしまうだろう。
 社会人にもなって、上司や先輩に褒められたことがこんなに嬉しいなんて。
 それでも。
 きちんと仕事をさせてもらえる。
 そしてそれに正当な評価をもらえる。
 そんな当たり前のことが、由梨にとっては、本来ありえない未来だったのだ。
 幼少期から、旧財閥今井家の令嬢としてキチンとした教育を受けてはきたけれど、それは由梨自身のためではなく、あくまでも今井家のため。こんな風に仕事をするためではなかったのだ。
 今井家にとって由梨は政略結婚の駒にすぎない。
 どこへ嫁に出しても恥ずかしくないようにしていろと伯父から常に言われている。
 もちろん今も置かれている境遇は変わらないけれど、人生どう転ぶかはわからない。やれるうちに精一杯やっておこう。
 ありがたいふたりの言葉に、そう決意した一日だったのだ。
 降り積もる雪を見つめて由梨がそんなことを考えていると、廊下へ続くドアが開く。振り返ると加賀が出先から帰ってきた。
 蜂須賀を伴っておらず、ひとりだ。
「お疲れさまです、副社長」
 由梨が声をかけると、彼は「お疲れ」と答える。
 確か彼は今日は夕方に取引先へ出かけていった。直帰だと言っていたように思ったけれど。
「直帰されると聞いていましたが」
 不思議に思い尋ねると、彼は肩に積もった雪を払い落としながら答えた。
「まだ少しやることがあるから戻ってきたんだよ。今井さんは残業?」
「はい。ですが今、終わりました」
 由梨そう言って立ち上がった。
「コーヒー淹れますね」
 するとそれに、加賀は首を横に振る。
「いやいいよ。君はもう帰るところだろう。今夜は雪が止みそうにない。雪道は慣れていないだろうから、滑らないように気をつけて」
「ありがとうございます。でも、コーヒーを淹れるくらいすぐですから」
 そう言って由梨は給湯室へ向かった。
 
「失礼します」
 ひとり分のコーヒーとチョコレートを盆に載せて副社長室へ入ると、彼はパソコンを立ち上げて、画面を見つめている。
 机の隅に、コーヒーを置くと由梨に視線を移した。
「ありがとう」
「いえ。では失礼いたします」
 頭を下げて、ドアへ向かおうとすると呼び止められる。
「今井さん、ちょっといいかな」
「はい」
 由梨が盆を手にしたままデスクのそばへ戻ると、彼は引き出しの中からベージュの包みを出し由梨の方へ差し出した。
「これ、先日のお礼」
 バレンタインチョコのお返しだ。
 それに気がついたと同時に、由梨は気まずい気持ちになる。
 バレンタインのあの日、由梨は彼にチョコを渡してしまってから、彼がバレンタインのチョコは受け取らないことにしていると知ったからだ。
 あの日の就業時間後、加賀宛にチョコレートらしき包みを持ってきた社員たちを長坂が対応しているのを目撃した。
『社員からの個人的な贈り物は断るように言われています。みなさんもご存知のはずですが』
 すげなく言う長坂に、彼女たちは不満そうに口を尖らせた。
『もちろん、知ってるわよ。でも、今日くらいいいじゃない』
『受け取れません。どうしてもと言うなら直接お渡しください』
『直接いったら断られるから言ってるんじゃない〜』
 そんなやり取りを聞きながら、由梨は真っ青になっていた。
 知らなかったとはいえ、由梨はすでに渡してしまっている。
『やっと帰った。本当にしつこいんだから』と愚痴を言いながら席に戻る長坂に向かって問いかける。
『長坂先輩、私副社長にチョコをお渡ししてしまいました。どうしましょう』
『どうしましょうって?』
『今から謝りに行った方がいいでしょうか』
 長坂がぷっと噴き出した。
『どうして謝るのよ。殿、ありがとうって言ってたじゃない』
『でも』
『あのねえ、今井さん。私は殿のママでもボディーガードでもないのよ。殿だって大人なんだから、受け取るべきじゃないと思ったのなら、自分で断るわよ。だから私はさっきの子たちに直接行けって言ったのよ』
 確かにそれはそうだけれど、と由梨は眉を下げた。
 加賀が、由梨のチョコレートを受け取ったのは、社内のルールを知らない新人秘書を傷つけたくなかったから。
 あるいは創業者一族である由梨の出自に気を遣ったのかもしれない。
 どちらにしても申し訳ないのに、さらにお返しまで準備させてしまったのだ。
「ありがとうございます……」
 とりあえず加賀からの包みを受け取って、知らずにチョコを渡してしまったことを謝ろうかと由梨が考えていると、彼が先に口を開いた。
「……君は、字が綺麗なんだね」
「え……?」
 少し意外な彼の言葉に、由梨は首を傾げる。
 彼が咳払いをして言葉の続きを口にした。
「メッセージカードが入っていたから」
 長坂と蜂須賀にも贈ったメッセージカードだ。
 由梨は昔から書道が好きで、熱心に取り組んだ。
 無心で字を書いている時は家での孤独やつらい出来事をひととき忘れることができたから……。
 好きが高じて、賞状書士の資格を持っている。メッセージカードは、心を込めて特に丁寧に書いたのだ。
「ありがとうございます」
「書道をやっていたの?」
「はい、好きで……。一応賞状書士の資格を持っています」
 少し張り切って由梨は答える。
 彼にとっては仕方なくもらったチョコレートについていた、なんてことないメッセージカード。気付かずに捨てられていてもおかしくはないのに、ちゃんと見てくれていたのが嬉しかった。
「賞状書士?」
 耳慣れない言葉だからだろう。加賀が繰り返して、首を傾げた。
「表彰状の字を書く資格です。……つ、使ったことはないですが……」
 説明しながら、由梨は恥ずかしくなってしまう。
 賞状書士の資格は由梨にとって誇らしいことだが業務にはまったく関係ない。上司である彼に、得意げに言うことではなかったかも。
「へぇ、そんな資格があるんだね。知らなかった。……確かに君の字は、賞状にぴったりだという感じがするな」
 加賀は一応興味深そうに答えてくれる。
 合わせてくれているのだろう。それが尚更恥ずかしかった。
「で、では、失礼いたします……」
 頭を下げて、由梨は帰ろうとする。
 彼は忙しいのだ、由梨の無駄話に付き合っている暇はない。
 けれど。
「ならお願いしたいことがあるんだが」
 意外な言葉に、由梨は足を止めて首を傾げた。
「お礼状をお願いできるかな」
「お礼状……ですか?」
「ああ、会食したお相手に送るものだ。まぁ印刷のものでも失礼にはならないんだが、手書きの方が喜ばれる。些細なことかもしれないが、付き合いは大切にしたいんだ」
『付き合いは大切にしたい』
 加賀らしい言葉だと由梨は思った。
 まだこの街へ来て半年の由梨でも、この街の人たちが、人と人との繋がりをなにより大切にするのを知っている。
 まだ若い加賀が、北部支社を動かせているのは、彼が街の人たちに慕われている、という理由が大きい。
 おそらくはこんな風に、礼状ひとつにも疎かにせず細やかに相手を気遣えるというのも理由のひとつだろう。
 だが、だからこそ自信がなくて不安になる。
「でも……私でいいんでしょうか」
 恐る恐る由梨は尋ねる。彼が礼状を出す先は、彼にとっても会社にとっても大切な相手。そんな人たちに出す礼状を自分が書いていいものかわからない。
 加賀が笑みを浮かべてきっぱりと言い切った。
「私は君にお願いしたい」
 その言葉に、由梨の胸は嬉しい気持ちでいっぱいになる。
 信頼され仕事を任される。
 些細なことかもしれないが、またひとつ成長するチャンスをもらった気分だ。
「ありがとうございます、頑張ります」
 少し大きな声で答えると、加賀がやや驚いたように眉を上げ、ふっと笑った。
「ん、よろしく。長坂には言っておく。じゃあ遅くならないうちに帰りなさい。夜は積もった雪が滑るから気をつけて」
「はい。お疲れさまでした」
 もう一度頭を下げて、今度こそ由梨は部屋を出た。
 本当に今日はいい一日だ。
 先輩や上司に褒められて、新しい仕事を任された。
 小さな充実感を胸に抱きながら、由梨は帰宅の準備をして会社を出た。
 外の空気は目が覚めるような冷たさで、頬にぴりぴりと痛みを感じるくらいだった。でもそれすらも、今の由梨には心地よく思えた。
 ところどころに明かりが灯る会社のビルを振り返り、由梨は白い息を吐く。
 北部支社へ行けと伯父に言われた時も嬉しかった。
 でもそれは家から出られるという喜びで、行き先はどこでもよかったのだ。
 ——でも今は。
 この会社で、この街でよかったと心から思う。
 伯父が自分の嫁ぎ先を決めるまでの期間限定ではあるけれど……。
 最上階に灯る白い光が、ひとときだけ小さな自由を噛み締める自分を、暖かく照らしているように思えた。
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