合意的不倫関係のススメ
私の手首を押さえている蒼の指先は、ひやりと冷たい。こうして必死に何かを堪えているときの彼は、いつもそうだった。

瞳を揺らしながら「離して」と訴えかけても、彼の体はびくともしない。

「…もう、だめなの?俺は君の側には、もう居られない?」
「…違う、それは私の」
「茜は何も分かってない!」

初めて、はっきりと怒鳴られた。思わずびくりと身体が大仰に反応し、その瞬間また蒼の顔が悲痛に歪む。感情と衝動が真逆に働いてしまう、今の彼の気持ちが私には痛い程よく分かる。

「…始まりは俺だ。全部、全部俺が悪い。こんな男を信じられないのは当たり前のことだ」
「……」
「でもそれでも…信じてほしいんだ。俺には茜しかいないって」

出来るなら、そうしたい。私だって、本当は信じたい。

(だけど、もう…)

「…私ずっと、蒼に嘘を吐いてたの」

今にも溢れてしまいそうな彼の涙を、拭いてあげたい。大丈夫、これからも何も変わらないと、優しく囁いてあげたい。

けれどそれには、対価がいるのだ。涙を笑顔で、塗り潰す為には。

殺し続けてきた私の心にはもう、それを払えるだけのものが残っていない。幸せだった筈の思い出はばらばらに砕け散り、消えてしまった。

こうなってしまったのは蒼だけのせいではないと、分かっている。

失うのが怖いからと、向き合うことを避け続けてきたのは他の誰でもなく。

私なのだから。

「あの時。六年前のあの時、私は貴方を許すと言った。蒼の全てを受け止められるのは、私しかいないって本気で思った。だから責めなかったし、平気なふりをしてずっと笑ってた。でも本当は、今でも許せないの。愛してるから、許せない…どうしても」

嫌われたくなくて、捨てられたくなくて、ずっと言えなかったことを今、私は彼に向かって吐露している。

それが何を表しているのか、考えただけで泣き崩れてしまいそうだった。

「でもね…そんなことを思う資格は、私にはないんだ。だって三年前、私は…」
「茜」

小刻みに震えている彼の指先が、そっと私の唇に触れる。それはまるで、この先を言う必要なないとでも示唆しているように。

「茜は何も悪くない。三年前の、あの日のことも含めて」
「蒼、まさか…」
「知ってるよ。全部」

瞬間、私達の目尻からは殆ど同時に一筋の涙が溢れて落ちた。
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