夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

 整形外科外来へ足を向けた。土曜の午後の外来は静かだ。入り口の扉を閉めれば邪魔されないし、大原が居れば協力してもらえるだろう。

「いいかな」
 開けっ放しの扉を叩いて片付け中の菜胡に声を掛けた。診察室には彼女一人しかいなかった。

「あれ、大原さんは?」
「土曜は十四時で退勤です、夕方には南川さんのお見舞いに来るって言ってましたから病棟に居たら会えると思いますよ」
 こちらには目もくれず、診察台のシーツを替える菜胡。
 
 ――いや俺は菜胡が居ればそれで。
 
「そうか……実は、ここで学会の資料作りしたいんだ、いいかな。医局でやってたんだけど邪魔が入って進まないんだ」
「もちろん、どうぞ」
 作業の手を止めた菜胡が、笑顔で奥の診察机のカーテンを開け、招いてくれた。

「あの、なぜ奥?」
「一番奥なら落ち着いてできるかなって。私、片付けで何度もここを出入りするので……。それに、もしここにその邪魔する人が押しかけてきたら、患者さんが寝てるからって追い返せるかなって……」
 カーテン一枚で仕切られた向こうに菜胡がいて、その気配だけで安心するし驚くほど作業に集中できた。その間、菜胡は話しかけてもこないし近寄りもしなかった。
 片付けに伴う音は騒音にあたらず、とにかく放っておいてくれた。たまにどこかへ行っては帰ってきて何かを片付けて、と忙しなく動いていたが、一番驚いたのは診察室を出て行く時に扉の鍵を掛けた事だった。何も言わないが、恐らく棚原を集中させようとしてくれたのだろう。そういう気持ちが嬉しかった。

 視界も遮れて、余計な人の襲来も無く、静かな環境を作ってくれたおかげで作業はほぼ終わらせる事ができた。椅子に背を押し付けて背伸びをして、カーテンの向こうがとても静かなことに気がついた。

 ――菜胡が居ない?

 カーテンから出てみたら、もう一つの診察机に突っ伏して寝ている菜胡がいた。スースーと静かに寝息を立てていて、肩をゆすっても起きる気配がなかった。

 着ていた白衣を掛けてやり、通常は患者が座る丸椅子に腰掛けて寝顔を眺めた。ふくふくした頬が可愛らしい。その伏せられた瞼の奥ではどんな夢を見ているのだろう。目が覚めて目の前に俺が居たら驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。

 それから何気なく診察室を見回した。一週間経って減った薬や伝票類がたっぷり補充されている。使って適当に箱に戻していたスタンプもきれいに掃除されて順序よく箱に収まっているし、診察の際に使う資料だって整頓されていた。そしてシンク脇にはカップが二つ置いてあった。
 
 ――毎週、一人でここまでしてくれていたのか……コーヒーを淹れてくれようとしてた?

 一生懸命に動いてくれていたと思うと愛しさが増した。手の甲で可愛らしい頬を撫でる。

「たなは……せん……」
 ドキッとした。まさか。夢を見てくれているんだろうか。あまりにも愛しくて、頬に口付けた。カチコチと時を刻む音に、リップ音が混じり、菜胡の寝息が重なる。とても静かで、穏やかな時間の中に身を委ねていれば、彼女がうっすらと目を開けた。

「たなはらせんせ……え」
 まだ寝ぼけているような視線、口調だった。とても可愛い。「おはよう」と声を掛けながら頬に口づけをして、ようやく意識が戻ってきた菜胡は勢いよく上体を起こした。

「え、あれ? 私……!」

 ――もし一晩を共に過ごしたら、こんな可愛い姿が? 毎日……見られ……!

 妄想を振り払うように頭を振る。

「すみません、勤務中に寝ちゃうなんて! もしかしてお邪魔でしたか?!」
「いいや、大丈夫だよ。とても集中してできた。ありがとう」
「そっ、それならよかったです」
 へにゃっと笑顔になった菜胡が可愛すぎて、何もしないなんてもう無理だった。自分の白衣がかかったままの菜胡を抱き寄せた。

「ねえ、何の夢を見ていたの、もしかして俺の夢?」
 このころになると、抱き締めても身体を強ばらせる事もなくなり、背中に腕を回してくれるようになっていた。

「……先生の匂いがして、幸せな気持ちになったのは覚えてるんですけど……なんの夢かは……あ、そうだ」
 背中を軽く叩いてくる。抱きしめる腕を解いてやれば、嬉しい事を言ってくれた。

「あの、土曜は大原さんが十四時で帰られるので、それ以降は私ひとりです。もし集中したい時がきたら、また来てください」
 思わぬ提案に顔が綻ぶ。

「いいの? 菜胡の邪魔にならない?」
 嬉しいが、菜胡の仕事の邪魔をするのは本意ではない。だが、「ならない」と返ってきた。

「むしろ、いつもひとりなので誰かがいると心強くもあります……寂しいってわけじゃないんですけど、ここって廊下の突き当たりで、孤島みたいで。寂しいわけではないんですよ、でも、あの、だから」
 菜胡を強く抱きしめる。抱きしめても抱きしめても抱きしめ足りない。

「ありがとう、毎週来ちゃう……可愛い……!」
 愛しすぎて壊れそうな理性を必死に保つ。もういっそのこと好きだと言ってしまえばいいのに、付き合って、と一言言えばいいのに、まだ"今じゃない"感がして、必死に堪えた。
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