恋をするのに理由はいらない
「……一矢?」

 切長の涼しげな瞳が、驚いたように開かれる。少し離れた場所に立っていた澪は、そんな表情のまま俺に近づいた。

「見んなよ」

 泣いてる顔なんか見られたくなくて、自分の腕で雑に涙を拭う。
 人前で泣いたことなんて記憶にない。いや、泣くこと自体、いつだったか思い出せないくらい昔のことだ。なのに、それがあっさり覆されたのは、嬉しかったからだ。
 澪が去ってから、何を食べても味気なくて、ただ自分の体を動かすため仕方なく食べていた。なのに、澪が作ったものを食べて、美味いとまた思えた。誰が作ったか、わからないままに。

「どう……して?」

 釈然としない様子で澪は俺を見ている。俺は軽く鼻をすすると大きく息を吐いてから澪に顔を向けた。
 
「俺は……お前が居なくなってからずっと味なんかわからないままだった。でも、やっぱり俺は、お前の作る飯が好きなんだなって」

 澪はそれを、無言で聞いていた。そして、試合中みたいな、何考えてるかわからない表情のまま口を開いた。

「……好きなのは……私のご飯だけ、ってこと……?」

 呆然としている澪に、俺は酔った勢いで、どうにでもなれとばかりに続けた。

「違う! 飯だけじゃない。俺は、お前のこと、初めて見たときからずっと好きだった。お前のなにもかも、全部! 困るだけだろうから言わなかった、言うつもりなんかなかった。もう忘れてくれ!」
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