恋をするのに理由はいらない
 広縁(ひろえん)と呼ばれる窓際のスペース。なんと言っていいのかわからなかった私に、一矢はその呼び名を教えてくれた。
 陽はとうに落ち、窓の向こうは真っ暗だ。その開けた窓からは、ときおり、8月とは思えない涼しい風が流れ込んでいた。
 籐でできた椅子に凭れてその風を感じながら、私はぼんやりする。なにしろ、とにかくもう、お腹がいっぱいで動けないからだ。

 一矢の言う通り、先にお風呂に入って正解だったな……

 向かいの椅子に腰掛け、ビールのグラスを傾けている一矢を見て思う。

 散策から帰ると、一矢は『先に温泉行ってこい』と言い出した。まだまだ明るい時間帯で、夕食までには2時間近くあったが、『入りたかったらまた入ればいいから』と連れてこられたのは、貸し切りの家族風呂だった。

「まさかとは思うけど……。一緒に入る……とか?」

 恐る恐る尋ねると、一矢はニヤリと笑う。

「一緒に入りたいなら喜んで?」
「えええっ。む、無理っ!」

 慌てふためく私を見て楽し気に笑うと「わかってる」と返ってくる。

「お前、それなりに有名人なんだから、あんまりジロジロ見られたくないだろ? ゆっくり入ってこい。俺は男湯行ってくる」

 そう言って一矢は、ホッとしている私の頭を撫でた。

「あ……りがと……」

 その気遣いが嬉しくてお礼を言うと、一矢は額にかかる髪を掻き分けそこに唇を落としながら言った。

「一緒に入るのは、また追々な?」

と。
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