媚薬

日常



夏は日常を取り戻した。
バスルームに置いてあった、彼が買ったらしいシェービングクリームと歯ブラシ。捨ててくれと言ったワイシャツとネクタイ。そういった彼の形跡は、クローゼットの奥にしまわれて日を追うごとに忘れ去られる。

もしかしたら、彼が後日取りに来るかもしれないという心配は、取り越し苦労に終わった。

あれから1ヶ月が過ぎようとしていた。

その日は平日で10時にはもうお客さんは一人もいなくなっていた。
マスターと今日はもう早く店じまいしましょうかと話して、閉店の準備を始めると同時に店のドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

マスターが客を迎え入れる。

その客の姿を確認したとたん、夏は動揺して思わず二度見してしまった。

マスターは夏が声を呑んだのに気がついたのか、お客さんを席に案内しおしぼりを出すと夏に「よかったら先に上がる?」と聞いてくれた。

それはまずい。先には帰れない。

彼がマスターに何か言ったら、夏の立場がない。
この前の媚薬の件は、マスターには一切話していなかった。
もちろんクビを覚悟で打ち明ける必要があるとは思ったが、その勇気が夏にはなかった。

もしかして彼の体に、あの媚薬のせいで何かの後遺症が現れたのなら、訴えられることも考えられる。

その後、川端さんにあの薬の効果や副作用について確認したり、ネットで調べたり、医療に詳しい製薬会社のお客さんに聞いてみたが、精力剤で市販されているものについては、さほど心配することはないだろう、と言われたので安心していた。

まさか彼がまたこの店にやって来るとは思ってもいなかった。

夏はマスターにできるだけ普段通りに「この間一人の時にお店に来てくださったお客様です」と小声で彼のことを紹介し、彼の元へ注文を聞きに行った。
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