クレオ*̣̩エシス
ιστορία*.5─序章─
夏の暑さが尾を引く季節を終え、ようやくエアコンを付けなくても過ごせるようになった9月の下旬。開けた窓から鈴虫の音色が響き、秋が始まったことを告げている。日は少し前に沈み、早めの入浴と夕食を終えた羽月たち4人は、病院の備品であるトランプを広げ、ババ抜きと洒落込んでいた。
既に手元にカードがない花姫。残り1枚で羽月の手元のカードを睨みつけるように吟味している桃音。その桃音と対峙している羽月の手元には、2枚のカードが残っており、自分のカードを見る目は真剣そのものだった。
「っ…!」
緊張の面持ちで羽月からカードを引いた桃音は、自分のカードとその数字を照らし合わせ。
「やったぁっ!!あがりっ!」
ほぼ投げ捨てるようにカードを場に置く。残ってしまった羽月は、絶句して喜ぶ桃音を見つめている。ポーカーフェイスには少し自信があったが故に、この結果は羽月に衝撃を与えたようだ。目に見えて落ち込んでしまった羽月を優しく見つめるのは、まだ手元にカードを2枚残した深夜だった。
「そう落ち込むな。まだ俺が残ってるんだからな」
気遣うように目を細めた深夜をちらりと見やると、羽月は口を開こうとし、止めた。そして改めて深夜に向き合うと、そのカードを鋭く見据えた。対する深夜の唇は緩やかな弧を描き、次の手で自分が負けてしまうかもしれないことを、なんとも思っていない様子だった。2枚のカードを交互に凝視した羽月は、軈て覚悟を決めたように1枚のカードを手にした。
「っ…!!」
目を固く瞑り、カードを天に突き上げる。恐る恐る目前にカードを下ろし、その数字を目にすると。
羽月の顔がパァっと輝く。
そして意気揚々と揃った2枚のカードを場に出すと、嬉しそうに勝利を宣言した。
「あがりっ…!」
「負けちゃったな。おめでと、羽月」
敗北を認める割に、少しも悔しそうでない表情を見て、花姫は不審そうな目を向ける。深夜の違和感に気が付かない桃音は、次はブラックジャックをしようと提案し、「負けたから切って」と深夜にトランプの束を手渡した。
ブラックジャックと聞いて、不安そうに桃音にルールを尋ねる羽月。桃音は頼られるのが嬉しいのか、嬉々とした口調で説明をし始めた。
一時はどうなることかと思われた2人の関係だが、今ではすっかり打ち解け、良い関係を築けているようだ。楽しそうに話し続ける2人に、思わず笑みを零した深夜。花姫は声のボリュームを落とすと、疑問に思っていたことを問い掛けた。
「ねぇ、深夜。あなた…わざと負けましたの?」
その言葉に、トランプをシャッフルする手を止める。見抜かれていたかと苦笑すると、同じく小さな声で答えた。
「そういうのは、気付かないふりしとくもんだぜ?」
「わざと負けた理由は分かりますけれど…。一体どうやって?」
「んー…。羽月が選びそうな方に当たりのカードを持ってた。それだけ」
「賭けじゃありませんの」
「いいや?羽月の癖はなんとなくわかってるからな。10といかなくても8割くらいは可能性はあるよ」
悪戯が成功した幼子のような顔に、花姫は呆れた表情を浮かべる。彼のことだ。どうせ最後まであがらなかったのは、最終的に自分と対峙するであろう羽月を助けるためなのだろう。だが、深夜が羽月のことを熟知しているように、彼女もまた、彼が自分の為に残っていたと勘づいていたのではないだろうか。
「助言していただいた通り、知らないふりをしておきますわ」
そんな深夜の努力にケチをつけるほど、花姫はわからず屋では無い。花姫の優しさに小さくお礼を言うと、切り終わった山札を羽月への説明が終わった桃音に手渡す。
「それじゃあ、トランプ大会第2回戦!始めましょうっ!」
いつから大会になっていたのか、桃音が開戦の狼煙を上げた時だった。
「羽月ちゃん…!いる…っ!?」
病室のドアが開かれ、息を切らせた幽見が姿を現した。髪が乱れていることや呼吸が荒いことから、急いで走ってきたのだと悟った羽月は幽見に駆け寄った。
「はい…。どうしたんですか」
こんなに取り乱した幽見の姿は見たことがなかった為、不安が胸に広がる。息を整えた幽見は一度、落ち着くように瞳を閉じた。再び瞼を開けた時には、既に焦りは消え、看護師としての顔に戻っていた。
「取り乱してごめんなさい。手短に伝えるわね」
厳しい視線で羽月と目を合わせ、幽見は声のトーンを落として言葉を紡いだ。
「夢月さんが事故にあったわ。今、治療を受けてる」
“夢月”という名を聞いた瞬間、羽月の体が硬直する。息をするのも忘れるほどの緊張感を纏った羽月は目を見開く。
一方花姫と桃音は、事故という穏やかではない単語に顔を見合わせる。そして説明を求めるように深夜へ視線を向けた。恐らく“夢月さん”について尋ねたいのだろう。
深夜とて、その名前を聞くのは初めてだった。しかし、幽見がわざわざ羽月に伝えに来たことと、羽月の母親は倒れて眠っているはずだということを考えると、自ずと答えは見えていた。
「おねえちゃん───」
呆然と言葉を紡ぐ羽月は、呟くと言うよりも、無意識に言葉が口をついたという方がしっくり来るような様子だった。幽見は気遣いを滲ませながら問い掛ける。
「羽月ちゃんが望むなら、案内するわ」
その提案に実感が湧いたのか、羽月はハッと瞬くと幽見の袖を掴み、泣き出しそうに叫んだ。
「お姉ちゃんはそんなに酷いんですか…っ!?」
「…横断歩道を渡っていた時に、右折してきた車に跳ねられたって聞いたわ。呼吸もしているから最悪な事態は避けられる、と思う。けど、断言はできないわ」
真実を直接伝えるべきか。
悩んだのは一瞬だったが、幽見は見ていられないように羽月から視線を外すと、彼女にしては珍しく断言せずに容態を語った。
「ぁ…。わ、たし…どうすれば…っ」
混乱に取り乱す羽月を見ているのが辛くて、深夜は思わず彼女に寄り添う。肩を抱き、自分の方へ引き寄せた。
「心配なんだろう。行ってこい、羽月。心細いなら、着いてくから」
穏やかな声色に、羽月は僅かに頷き深夜と目を合わせる。溢れんばかりに溜まった涙が、瞬きに合わせて頬を伝った。
「…き、て…ほしい…」
嗚咽の混ざった切実な願いに、深夜は「わかった」と頷いた。そして自体の呑み込めない花姫達を振り返り、声を掛けた。
「悪い、2人とも。ちょっと行ってくる」
「私たちは構いませんわ。片付けはしておきますからご心配なく」
ぎこちなく微笑む花姫は控え目に羽月に視線をやると、同意を求めるように桃音に移す。桃音も羽月のことは気になっている様子だったが、自分の出る幕ではないと思ったのか、無言で頷いた。
「ありがと。…行こう」
僅かに口元を緩めると、深夜は優しく羽月の背を押す。羽月は涙を流しながら、それでも花姫達を残すのに罪悪感があるのか、彼女らを振り返ると聞こえるか聞こえないか程度の音量で「ごめん」と謝った。
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普段と変わらない病院の廊下。しかし2人の間に落ちる沈黙は重いもので、目の前に煌々と光る治療中のランプが、2人の心情をさらに暗いものへと貶めているようだった。
チラリと、深夜は隣の羽月を盗み見る。膝の上で握られた拳は小刻みに震えていて、涙は止まったものの、その表情は今にも泣き出しそうなほど歪められていた。
深夜にとって、羽月の姉は会話の中の存在でしかない。ある種羽月のアイデンティティである、あの紅髪を作り出した張本人だ。その話しか知らない自分からしてみれば、彼女は羽月を苦しめた人にほかならない。
きつく握られた羽月の手に、深夜は自分の手をそっと重ねる。真っ直ぐに見つめていたら、ゆっくりと顔を上げた羽月と目が合った。その瞳は激しく揺れていて、初めて会った時のような無機質さはなく、あるのはただの少女の瞳だった。羽月は少し迷ったあと、震える唇を開いた。
「ごめん。深夜まで、巻き込んで…」
「謝る必要なんてない。俺がそうしたかっただけだ」
心が弱っているからだろうか。最近は謝罪よりもお礼が出てくるようになっていた羽月から、流れるように謝罪の言葉が出てきたのは。
彼女にとって姉の存在とはなんなのだろうか。傷つけられて、裏切られてりそんな姉のためにこんなに震えているのなら、羽月は相当のお人好しだ。
「羽月が、構わないなら。俺に教えてくれないか。…お姉さんのこと」
柔らかく目を細める深夜の眼差しに、羽月の表情が僅かに緩む。
「俺は、お姉さんが羽月にしたことしか知らない。羽月から見た姿が知りたい」
「…わたし、から」
ふっと視線を落とすと、羽月は記憶を呼び覚ますように沈黙した。
廊下が静寂に包まれる。先程まで慌ただしく走り回っていた看護師がいなくなった。それも刹那のことで、また何人かの看護師が通り過ぎる。まだ、治療中のランプは灯ったままだ。
「お姉ちゃんは」
おもむろに口を開いた羽月は、とても穏やかで。思い出しているうちに落ち着いてきたのか、体の震えも幾分かマシになっていた。
「お姉ちゃんは、とってもかっこよくて、優しくて…私の、憧れ」
なんの躊躇いもなく出てきた尊敬の言葉。
どんな事があっても、彼女にとって姉の存在は憧れであり、大切なのだとよく分かる。
「私は小学校に入るまで、外にはほとんど出られなかったから、お姉ちゃんが勉強とか見てくれてたの」
知らなかった事実に深夜は瞬く。
「外に、出られなかった…?」
「うん。お医者様からそう言われてたの。多分…この髪の影響で」
そっと白髪を右肩に流すと、緩くその束を握った。
「だから、初めて書いた文字を見たのも、初めて描いた絵を見せたのも、初めて歌を聞いてくれたのも。全部、お姉ちゃん」
羽月は静かにランプを見つめた。
赤い光は、その白髪を紅く染める。
悲しげな、夕陽の色に。
「お姉ちゃんはね。とってもとっても頑張り屋さんなんだ。だからきっと、色んなことに諦めてた私が…嫌いだったんだろうな…」
羽月の瞳がスっと細められる。自分の過去を悔いているのか、未来の姉を思っているのか。それとも、その両方か。彼女にとって、姉とは永遠の憧れであり、自分では絶対に到達することの出来ない理想なのだ。
「羽月は、嫌いにならなかったのか。辛い時、助けてもらえなかったんだろ」
厳しい眼差しと共に告げられた言葉に、羽月を目を瞬かせる。当たり前の問いだろう。羽月からしてみれば、大好きな姉に裏切られたも同然なのだから。
しかし、羽月は不思議そうに首を傾げた。
「嫌いには…ならないよ。確かに辛かったけど、それはお姉ちゃんも一緒だもの」
あまりにも純粋な言葉に、深夜は思わず絶句した。
自分では選べない姿で辛い目にあい、その上家族にもその苦しみを相談できなくて。深夜が想像出来る何倍も辛かっただろう。それなのに、羽月はまだ人のことを思うことが出来るというのか。
口を開くが、言葉が出てこない。
お人好しすぎる、とか。どうして責めないんだ、とか。言いたいことは沢山あるのに。
「お前には、怒る権利も、憎む権利もあるんだぞ」
「………」
深夜の言葉を静かに聞いていた羽月は、ふっと視線だけを落とす。そして再び揺れる深夜の瞳を捉えると、恥ずかしそうに瞳を細めた。
「今がすごく幸せだから、そんな気持ち忘れちゃったの」
そう言って、柔らかく微笑む。姉の事故を聞かされてから初めて浮かべた微笑み。その表情ができるのは、間違いなく今まで積み重ねてきた深夜との思い出があるからだった。
抱きしめたい衝動に深夜が手を伸ばすよりも先に、治療中のランプが消えた。思わず立ち上がる羽月につられ、深夜もゆっくりと立ち上がる。扉が開き、夢月が乗せられた担架が運ばれていく。追いかけようとした羽月だったが、何かに思いとどまったように足を止めた。
「どうした」
同じく追いかけようとしていた深夜は、不審に思い声をかけるが、羽月は揺れる瞳で姉を見送ってしまった。
「行かないのか」
「…私が、行っても。ううん、行ったら…またお姉ちゃんを怒らせちゃう」
寂しそうに唇を引き結ぶ羽月。深夜はかける言葉が見つからず、黙って寄り添った。
すると、パタパタと軽い足音が響き、幽見が姿を現した。
「着いていてあげられなくて、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ。俺もいますし」
軽く挨拶を交わした幽見は、未だ寂しそうな表情の羽月を見つめ、遠慮がちに声をかけた。
「着いて行かなかったの、羽月ちゃん」
「はい…」
「…そう」
幽見はそれ以上追求せずに、2人を病室へと促した。
「夢月さん、命に別状はないわ。だから今日は休みましょう」
軽く頷いた深夜。羽月の手を取ると、その瞳を見つめた。その眼差しを受け取った羽月はゆっくりと頷くと、深夜と共に病室へ戻ったのだった。