クレオ*̣̩エシス
ιστορία*.5─前編─
次の日深夜が目を覚ますと、既に羽月は支度を終えていた。時計を見ると8時半。早起きの深夜からしてみれば、少しだけ寝過ごしたようなものだった。しかし昨日は眠りについたのが遅かったこともあり、妥当な時間なのである。
「おはよ。…いつから起きてるんだ」
それでも朝がそれほど強くない彼女が起きているのは、やはり昨日のことが尾を引いているのだろう。羽月はゆっくりと振り返ると、軽く挨拶をして曖昧に微笑んだ。
「まさか寝てないのか」
「うとうとって感じ。…正直、あんまり寝た気はしないかも」
洗面所に向かいながら深夜は羽月の頬に手を当てる。その目の下にうっすら浮かぶ隈を見つけ、僅かに眉を寄せた。
「朝ごはんは」
「まだ。深夜と食べたかったから」
「先に食べててよかったのに。それか、俺のこと叩き起しても」
「深夜だって、昨日遅かったじゃない。そんなことできないよ」
素早く身支度を終えた深夜は、幽見の端末へ繋がるボタンを押した。すると間も無く幽見が顔を見せた。朝食の用意をして待ち構えていたのだろうか。
「おはよう、2人とも」
明るくいつも通りの挨拶の後、幽見は羽月の顔に視線を止めて問いかけた。
「羽月ちゃん、寝てないの…?」
「寝てないわけじゃ、ないんですけど」
自分でもあまりわかっていないのだろう。先程と同じように曖昧に微笑む羽月は、傍から見ても空元気だった。
「そう…。眠くなったら、診察の時間とかは気にしないで寝ちゃって大丈夫だからね。深夜くんは?」
「一応、寝れました。きっと羽月ほどじゃない」
「それならよかった。2人とも、無理はしないでね」
テーブルに朝食のクロワッサンとスープを並べながら幽見は薄く微笑む。彼女もまた、羽月にかける言葉に悩んでいた。3人は普段と同じように食卓を囲みながら重い空気に気付かないふりをして、他愛もない会話をする。
しかし不意に幽見は羽月の瞳を捉えると、言葉を選んであることを伝えた。
「夢月さん。今朝方、意識が戻ったわ」
羽月の身体が硬直する。揺れる瞳から困惑が見て取れた。
「家族である羽月ちゃんなら、面会が可能よ。…本人の許可は、必要だけれど」
羽月は俯いて言葉を探す。
自分が行ってもいいのか。
また、傷つけてしまうだけなのではないか。
そもそも姉は自分と会ってくれるのだろうか。
ぎゅっと拳が握られる。震えはないものの、昨晩を見ているようで。深夜は小さく羽月の名を呼ぶ。ゆるゆると顔を上げた羽月の瞳は、助けを呼んでいるように弱々しくて。
「許可されるか分からないなら、行っていいかどうか、聞いてもらってもいいんじゃないか」
彼女の意志を汲まなければいけないような使命感が込み上げてきてしまった。
「言いたいことが纏まらなくても、ただ会いたいんだろ。俺は、それでもいいと思う」
言葉に傷つき、自分が言葉を発することに対しても恐怖を覚えるようになってしまった羽月。最近では、特に深夜には考えていることや感じたことを言葉にして伝えてくれるようになった。しかし、今回の相手は自分を受け入れてくれる深夜とは違う。彼女が乗り越えるべき人物だ。
「きっと、お姉ちゃんは私に会いたくないよ」
「そうかもな。会って、拒絶されるかもしれない。でも」
深夜はそこで言葉を切る。目が覚めた羽月の姉には、当てはまらないかもしれないけれど。
「まだ、生きてるんだ。顔を見て、一言でも言葉を交わせば、きっと何か変わる。…間に合うよ、羽月なら」
死んでしまった母が、捕まった父が。
何を考え、何を思って行動したのか。
きっと深夜には、もう知る術がない。
けれど羽月は。まだ、話すことが出来る。聞くことが出来る。それがどれだけ素晴らしいことか。
もちろん変化は必ずしもいいものでは無い。また羽月が、夢月が、深く傷ついてしまう未来も存在するだろう。それでも深夜は信じていた。最終的には、姉妹で笑い合える未来がくると。
「…怒らせちゃうかも」
「いいんじゃないか。まだ怒ってもらえるってことだろ」
無反応はそれはそれで辛いぞ。と、深夜はおどけて言う。
「私、ね」
か細く、言葉が紡がれた。それは紛れもない今の羽月の気持ちで。
「お姉ちゃんに謝りたい。今なら、ちゃんと言える気がするから」
ふんわりと笑った深夜が頭を撫でようと手を伸ばしたのと、幽見が羽月を抱きしめたのは、ほぼ同時だった。
「わかったわ、羽月ちゃん。お姉さんに聞いてみるわね」
ぎゅうっと羽月を抱きしめる幽見の腕には、いつもより力が込められている。“妹”の成長が嬉しく、ひとりの姉としても応援したい気持ちがあったのかもしれない。
「お願いします。幽見さん」
僅かに肩の力が抜けたのか幾分か柔らかくなった雰囲気の羽月は、きっとこの時、面会は拒否されるだろうと踏んでいたのだろう。
しかしそんな考えとは裏腹に、時計の針が正午を回るより前に、幽見は「面会許可」を告げてきたのだった。
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「どうしよう…」
もう何回目かになるセリフに、ベッドに座る深夜は苦笑する。小動物のようにウロウロと病室を彷徨う羽月を手招きで呼ぶと、優しく腕を掴み隣に座らせた。
「そろそろ落ち着きそうか?」
「…ダメそう」
首を振る羽月は時計へと視線を向ける。面会許可を聞かされてから、かれこれ1時間以上が経っていた。
「言いたいことが纏まらないの。これじゃあきっと、何も伝えられない」
「顔を見て、また会えてよかった。だけでもいいと思うけど」
ムッとした羽月の空気を感じたのか、深夜は慌てて言葉を足す。
「なんて。それじゃあ嫌だから、必死で考えてるんだよな。ごめん」
その深夜の様子に、羽月はふと違和感を感じる。なんというか、いつもの深夜らしからぬ切り返しというか。言葉には出来ない違和感が羽月の中で渦巻いていた。
「ねぇ、深夜」
なんと問いかけようか悩んだ羽月は、言葉に詰まる。
何かが違う。しかしそれを表現出来ない。
「えっ、と…」
言葉にできないもどかしさを察したのか、深夜は顎に手を当て、羽月の思考を推理した。しかし思い当たる節がなく、首を捻る。
「今日の深夜が、なんて言うか…」
たどたどしく紡がれた言葉を聞き、深夜はぱちくりと目を瞬かせる。まさか自分のことだとは思っていなかったのだ。
「俺のことか。え、何か変だったか…?」
「うん。…ごめん、言葉に出来ないんだけど、なんて言うか」
眉間に皺を寄せていた羽月は、あっと声を上げると、嬉々としてこう告げた。
「子供みたい」
本人としては、モヤが晴れてスッキリしているのだが、言われた側からしたら不満に思うのも無理は無い。
「どういう意味だよ」
案の定ムッとした深夜に羽月は慌てて訂正する。
「あ、違うの。子供みたいって言うのは、その…」
手を振り、首を振り、全力でフォローする羽月だが。
「ちょっと拗ねてる気がする、とか。言い返し方がいつもより雑とか、そういう意味で、えっと…!」
まるでフォローにならない。
そして深夜はその指摘を咀嚼し。
「わるい羽月、ストップ。確かに俺、子供みたいなことしてた」
淡く赤面しながら、額を押えた。羽月は深夜が恥ずかしがっている理由がわからず、遠慮がちにその顔を覗き込む。
「どういうこと」
真っ直ぐな視線に、ぐっと答えに詰まりながら、深夜は渋々この感情を告げた。
「……………嫉妬してた、みたい」
え。と、羽月の口から無意識に音がこぼれる。
「嫉妬?誰に…」
まさか、お姉ちゃんに?と問いかければ、深夜はゆっくりと頷いた。羽月は数回瞬くと、ふふっと小さく笑みを零した。恨めしそうに視線を送る深夜だが、それさえも羽月にとっては愛おしい。
まさか、男性相手どころか姉にまで嫉妬するなんて。嫉妬深いと思う反面、そこまで想われていることが嬉しくて、つい頬に手が伸びた。
「私がお姉ちゃんのことばっかり気にしてたから?」
冗談めかしで言えば、深夜は僅かに唇を尖らせる。そして左頬に添えられた手を自分の左手で包むと、顔を擦り寄せた。
「…悪かったな」
明確な甘えに、今度は羽月が赤面する番だった。慌てて手を引こうとするが、掴まれた手は思ったよりもしっかりと包まれていて離してくれそうにない。
「深夜…」
離しての意味も込めてその名を呼べば、まだ拗ねたような瞳を向けられる。その目が伏せられたかと思えば、深夜は右手にキスを落とした。
驚いてビクッと震える手を静かに見つめると、深夜は羽月の方へと視線を移す。そしてその様子を捉えると、思わず吹き出した。
「羽月、顔真っ赤」
瞳を潤ませ、動揺に喘ぐ羽月を一通り堪能した深夜は、するりと手を離して紅く輝く双眸を覗き込んだ。
「緊張、ほぐれたか?」
優しげに問いかけられ、羽月は悔しそうに言い返す。
「余計に緊張してる」
「でも頭の中、俺でいっぱいになっただろ」
嬉しそうに答えられてしまい、言葉に詰まる。結果として深夜の思い通りになってしまったことを悟り、羽月は諦めたようにため息をついた。
「おかげさまで」
ゆっくりと立ち上がり、背伸びをしながら小さく唸る羽月を見つめると、深夜は静かに口を開いた。
「もし病室に行って、それでも怖くなったら。帰ってきていい」
真剣な声色に視線を下げると、信頼と少しの不安を纏った瞳がこちらをじっと見つめていた。
「羽月が望むなら、俺は何度でも背中を押すよ」
力強い言葉に自然と頬が緩む。不安は無くならないけれど、緊張が解けていくのがはっきりと分かる。やはり自分は深夜が好きなのだと、じわじわ胸の奥が暖かくなった。
「ん。ありがと深夜。私、行ってくるよ」
最後にひとつ、大きく深呼吸をする。
覚悟を決めて病室から出ようとしたところで、羽月は恥ずかしそうに振り返った。
「もし、私が泣いて帰ってきたら」
滅多に聞かない羽月の甘え声に、深夜は瞬く。
「その時は、慰めてね」
柔らかくはにかみ、するりとドアの隙間を抜けていく羽月。残された深夜は、もたらされた衝撃に頭を抱えたのだった。