クレオ*̣̩エシス
ιστορία*.5─P.S.─
「…ほんとにもう大丈夫なの?」
「もう、それ何回目?大丈夫だって」
病院の廊下を並んで歩くふたつの影。言葉を交わす姿からは、かつての彼女たちの亀裂は感じられない。
心配そうな問いかけに呆れながら答える夢月は、羽月に合わせてゆっくりと歩みながらそっと笑みを浮かべた。
ふたりが和解した日。泣き止んだ羽月が思い出したように慌てて幽見を呼びに行き、夢月は無茶したことをたっぷり叱られた。幽見は事情をある程度把握しているため、たっぷりとはいえ愛のあるお叱りだったのだろう。誰かに叱られる姉の姿を見ることなんてなかった羽月は、その新鮮さに思わず笑みを零したりした。
それから羽月は足繁く夢月の病室に通い、失った時間を取り戻すかのように話をした。時には幽見や、同日一緒に幽見を呼びに行った深夜を交えて話す時間は、羽月にとって、そして夢月にとってもかけがえのない時間になっていた。
そんな時、羽月は夢月にあるお願いをした。
「羽月こそ、今からお母さんに会いに行くけど大丈夫なの?ずっと緊張してたみたいだけど」
それが、“母に会いに行くのに付き添ってほしい”ということだった。姉と向き合ったから次は母と、というのは当然の思考だろう。だからこうして夢月の退院に合わせて、ふたりは母の眠る場所へと歩みを進めていた。
「ぅ…。大、丈夫。緊張はしてるけど」
気まずそうに目を泳がせる羽月。こうして軽口を叩けるような関係になれたのも、羽月の勇気あってこそだ。夢月は安心に笑みを深める。口ではああ言ったが、きっと羽月なら大丈夫だろう。
もう昔の彼女とはちがうのだから。
「一緒に来てくれてありがとう、お姉ちゃん」
「いいよ。私もきっと、ひとりじゃ会いに行く勇気なかったもの」
「お見舞い、行ってないの?1回も?」
不思議そうに顔を覗き込まれ、夢月はうっと目を逸らす。遥姫が倒れたのは、つまり羽月が入院してから。紅髪の1件以来、夢月は病院に近づくことを避けていたのだ。だから羽月はもちろん遥姫の病室にも顔を出すことはなかった。まさか数年後に自分が訪れることになるとは思ってもみなかったが。
「行けないよ。行っても、何も出来ないし」
言い訳のように口を尖らせる夢月。
倒れるまで母を追い詰めてしまったことも、母が守ろうとしていた羽月を傷つけてしまったことも、夢月にとっては罪で後悔だ。例え眠っている状態だったとしても合わせる顔がなかった。
「それは、私も同じだよ」
羽月はぎこちなく夢月の手を取る。控えめにその手を握り、眉を下げながら微笑んだ。
「会いに行っても私の声は届かない。でも、やっとお姉ちゃんと仲直り出来たよって、どうしても言いたくなっちゃったの。…私のわがままだね」
自嘲の混ざる言葉に夢月は僅かに眉を寄せる。けれど何も言うことはなく、ただ少し力を込めて彼女の小さな手を握り返した。
行き交う看護師たちに驚きの瞳で見られながら、ふたりは遥姫の眠る場所へと辿り着いた。モリンシ感染者の羽月は普通の病棟には入れない。だからここは特別に用意された病室だった。扉を前にして、ふたりは顔を見合わせる。お互い言葉は交わさずに覚悟を決め、羽月がゆっくりと扉を開いた。
窓から差し込む眩い光に、ふたりは目を眇める。神々しく照らされる病室で、辺りを漂う細かい粒子が光を反射しキラキラと輝いている。そこにポツンと置かれたベッドに遥姫は眠っていた。
羽月は夢月を振り返る。夢月はひとつ頷くと病室へ足を踏み入れ、羽月もそれに続いた。ピッ、ピッ、と心電計から流れるリズムを耳に、眠る遥姫をそっと覗き込む。青白い肌、生気のない唇、決して開かない瞼。最後に見たのと変わらない姿に、ここだけ時が止まったようだった。その姿は宛ら眠り姫。
「お母さん。羽月、だよ」
小さく、羽月が声をかける。静かに目を閉じる母は微動だにしない。ただ呼吸に合わせて僅かに胸が上下するだけ。
「お姉ちゃんも一緒だよ」
「…お母さん、私。夢月。」
夢月も呼びかけるが反応はない。わかっていたことではあったが、いざ動かぬ母を目の前にするともう二度と目覚めることはないのではないか、なんて悪い想像をしてしまう。不安を押し殺し、羽月はできるだけ笑顔を浮かべた。
「私、ちゃんとお姉ちゃんと話せたんだ。私たち、仲直り出来たんだ」
たどたどしくも精一杯言葉を紡ぐ羽月の肩を、夢月は優しく抱く。まっすぐに母を見つめる瞳は不安定に揺れていた。
「お母さんは私を産んだこと、後悔してるのかもしれない。私はお母さんを追い詰めた。だから、幸せになっちゃいけないのかもしれない。…でも」
肩に触れた手をそっと包む。
これは夢月にも向けた言葉だから。
「私ね。今、幸せなんだ。こんな私を好きだって、大切だって言ってくれる人がいるから」
恨むだろうか。自分を苦しめた羽月が幸せを掴み取ったことを。それとも祝福してくれるだろうか。それはわからないけれど。もし、もしも母も姉と同じように羽月の生を願ってくれるのならば。
「だから、私を産んでくれて、見捨てないでくれて、ありがとう。お母さん」
羽月が生きている今を、喜んでくれるかもしれない。
反応を見るのが怖いからと眠っている彼女に告げるなんて、卑怯だと言われるだろうか。それでも羽月は伝えるべきだと思った。それが彼女にとって、ひとつのけじめでもあるのだから。
「羽月、強くなったでしょ」
不意に呟かれた言葉に、羽月は姉を見つめる。夢月はそちらには目を向けず、遥姫を見つめながら続けた。
「びっくりだよね。私も驚いた。私たちが前に進めないでいた間に、この子はひとりで頑張ってたんだよ」
羽月や幽見、そして深夜と会話をする中で知った。この半年間、羽月がどれだけ成長したのか。何を感じ、何に立ち向かい、何を得たのか。なにより誰のおかげで変わることができたのか。
「私も変わりたい。この子がこんなに頑張ったのにお姉ちゃんが何もしないんじゃ、かっこつかないもの」
いつか彼のことも話したい。彼の隣で笑う羽月は、どんな時よりも眩しく輝いているから。
「だからお母さんも、早く起きてね。私たち、話したいことがいっぱいあるんだから」
淡く微笑む夢月の言葉に、羽月は何度も頷く。彼女に残された時間は少ない。もしかしたらもう二度と、直接言葉を交わすことは出来ないかもしれない。だから最後に今できる最高の笑顔で、感謝を乗せた。
「大好きだよ、お母さん」
「私たち、ちゃんと待ってるから」
心電計から流れる音は、大幅にリズムを変えることはなかった。それでも少し、ほんの少しだけ。眠る遥姫の表情が、安心したように微笑んでいる気がした。
