クレオ*̣̩エシス

ιστορία*.5─後編─





夢を見た。


姉と並んでキッチンに立ち、野菜を切っている。
人参、じゃがいも、玉ねぎ。
姉の手元を時々確認し、見様見真似で切っていく。鍋に具材を入れて炒め、しばらくしてから水を注ぐ。具材を煮込んでいる間は、他愛のない話をする。
今日描いた絵は上手だったとか、学校では色んな授業があるとか、今日は母が早く帰ってくるといいなとか。そんな、笑顔がこぼれる話を。
カレーのルーを恐る恐る入れる彼女を見て笑う姉。
底から混ぜれば焦げないと、彼女の手に自分の手を添え、一緒に混ぜる。その体温が、とても温かくて。心地よくて。
できたカレーを米のよそった器に盛り付けていると、母が帰ってくる。嬉しくて思わず抱きつく彼女を、母は優しく抱きとめる。そして姉に手招きすると、近づいてきた姉も一緒に抱きしめた。
3人が笑っている幸せな時間が、そこにはあった。




──────。




ゆっくりと、瞼を持ち上げる。軽やかな鳥の音と、柔らかな朝日。カーテンはまだ閉められていたが、隙間から差す光が時刻を示す。


「おはよ。…なんだか嬉しそうだな。いい夢でも見たか?」


ゆっくりと体を起こした羽月を見て、既に起きてベッドに腰かけながら本を読んでいた深夜が声をかける。
羽月はまだ冴えない思考のまま深夜を見つめ、ふわりと微笑んだ。


「あんまり覚えてないけど、楽しい夢だったような気がする」


「そっか。よかったな」


同じように優しく微笑んだ深夜は、また視線を本へ戻す。布団から出た羽月はカーテンを引く。想像通り既に日は昇っており、眩い光に顔を顰める。暫く朧気な意識で窓の外を見ていたが、ふいに深夜を振り返った。


「朝ごはんは…」


「まだだよ。“羽月と食べたかったから”」


本から視線を話さず告げる深夜。昨日、羽月が口にしたのと同じセリフを繰り返され、むっと困ったように口を尖らせる。


「“私のこと、叩き起してもよかったのに”」


負けじと羽月も、深夜が口にした言葉を繰り返す。
これには深夜も視線を上げ、驚いたように羽月を見た。そして2人はお互いを見つめ、笑みを零した。


「確かに、叩き起すなんて出来ないな」


「そうだよ。あ、待っててくれてありがとう」


「ん。顔洗って着替えてこいよ。その間に幽見さん呼んどくから」


深夜の気遣いに頷くと、羽月は着替えを手に洗面所へと足を向ける。後ろ手で扉を閉めて顔を上げると、洗面台の鏡に映る自分と目が合った。ゆっくりと近付き、鏡面に手を当てる。

鏡の中の羽月は、何かを尋ねているように見える。
以前なら、こちらを見つめる目は嫌悪と諦めを纏っていた。それが今では、自分の姿を直視できる。

紅髪を手に取り考える。
これは、かつての自分が生んだ過ちの証。
姉を怒らせ、手を上げさせてしまった罪。
そう考えていた。
しかし昨日の作戦会議で、別の意味があるのではないかと気が付いてしまった。
羽月がこれを己の罪の証だと思っているように、夢月もまたこれを己の罪の証だと感じているのではないだろうか。それならば、これを見るのは夢月にとっても辛いはずだ。

鏡の右側は細身のラックになっている。歯ブラシや歯磨き粉が置いてある段の上、櫛やブラシが縦かけてあるスタンドからハサミを手に取った。
幼い頃、この髪が無くなればいいと思った。
そうしたら、自分は“普通”になれる、母や姉と同じになれるのだと思った。だからあの時、羽月は迷わず髪を切った。結果的に母と姉に止められてしまったが。

ハサミの刃を開き、紅髪にあててみる。
これを切るということは、自分の罪を許してしまうということになるのかもしれない。
それは、逃げなのかもしれない。
でも。
この髪を見て、姉が罪を感じてしまうのならば。


「私は」


ひと思いにグリップを握ると、細い毛束は一度に全て切れた。彼女の白髪から、紅が滑り落ちる。
左手に握られた一房を見つめ、小さく息をつく。何となく張りつめた心がゆっくりと溶けていく気がした。

髪はティッシュに包みゴミ箱へ入れる。改めて鏡を見ると、真っ直ぐに切られた髪は少し不格好だった。後のことを考えてなかったと、羽月はひとりため息を着く。そうして視線を上げ、目を合わせる。
鏡の中の自分は穏やかに微笑んでいた。




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朝食を並べる幽見の手伝いをしながら、深夜は洗面所を一瞥する。
元々羽月は朝に弱い。だから準備がゆっくりでも不思議には思わないが、いつもだったらもう少し早く準備を終えて戻ってくるだろう。普段よりも時間がかかっているようで首を捻る。

そして漸く洗面所から出てきた羽月を見て、箸を片手に固まった。


「…え」


上手く疑問を言葉にすることも出来ず、不格好なまま羽月を見つめる深夜。やらかした自覚がある羽月は、恥ずかしそうに視線を逸らした。


「ちょっと羽月ちゃん!切るなら相談してちょうだいよ…!」


同じように固まっていた幽見が、ひと足早く立ち直る。パツンと切られた左の横髪を手に取ると、懇願するように声を上げた。そして有無も言わさず羽月を洗面所に連行する。
ハサミの音がしばらく響き、戻ってきた羽月の髪は自然に整えられていた。


「もぅ…。思わずお椀落としちゃうかと思ったわ」


後ろから続いて出てきた幽見は安心に息をつく。


「あの、私…」


不安そうに口を開いた羽月だったが、そこで言葉が詰まる。無くなった紅を探すように左手が伸び、虚空を掴んだ。


「今は聞かないよ。後で気が向いたら教えてくれ」


握り締めていた箸を机に置きながら、深夜は軽く告げる。
羽月が何を考えて、なぜ“今”その行動を起こしたのかはわからない。しかし、羽月は答えに詰まった。性格上、考えていることをそのまま口にすることが出来ないのだろうが、それを踏まえても答えを急かすことは出来なかったし、したくなかった。

ストンと定位置に腰を下ろした深夜に、申し訳なさそうに微笑んだ羽月は、同じように腰を下ろした。
手を合わせて、「いただきます」と声を揃える。まだ温かい味噌汁を啜りながら、隣で鮭の骨と格闘する羽月を盗み見る。

以前、彼女は紅を落とさない理由を“自分の罪も落ちてしまいそうだから”と語った。それはきっと、彼女が姉の存在を信じていて、自分が余計な事を言わなければ姉は手を上げることはなかったと悔いているからだろう。
本来ならば羽月は傷つけられた側、つまり被害者だ。
どのくらい酷く殴られたかは知らないが、信じていた人からの暴力はそれだけで心に傷を負うことはよく知っている。だから、相手を恨みこそすれど同情する必要は無いはずなのだ。
それでも彼女は姉を想う。今回髪を切ったのも姉のためだったのかもしれない。
本当に羽月は、優しすぎる。

そんな羽月が大好きで、尊敬していて。
けれど自分は。


「あの、深夜」


おずおずとかけられた言葉に、意識が浮上する。考え込むと周りが見えなくなるのは、深夜の悪い癖である。だから羽月が何故僅かに頬を染めているのか分からなかった。


「ちょっと…見すぎ」


小さな抵抗に、思わず固まる。気がつけば盗み見るどころか、深夜はじっと羽月のことを見つめてしまっていた。


「え、あぁ、ごめん。そんなつもりじゃ」


どんなつもりだ、と自分にツッコミを入れながら、慌てて視線を外す。なんだか羽月に見とれてしまったように思われたのではなかろうか。誤魔化すように卵焼きを口に含むと、それまで沈黙を貫いていた幽見が我慢の限界とばかりに笑みを零した。


「2人とも、変わったわね」


嬉しそうに告げられ、2人は顔を見合わせる。本人たちは気がついていないようだが、この半年間誰よりも近くで見守ってきた幽見にはわかる。

羽月が食事の時、顔を上げるようになったこと。
深夜が磔の笑みではなく、様々な表情をするようになったこと。
いつの間にか、自分が話し手ではなく聞き手に回ることができるようになったこと。

小さな変化かもしれない。しかし確実に良い方向へ進んでいる。彼らにはそれが分からないようだが、それほどまでに今の状態が当たり前になっていることこそ、最も喜ぶべきことだった。


「あぁ、そうだ。今日の診察は羽月ちゃんが11時10分、深夜くんが13時30分ね」


「はい。わかりました」


頷く深夜に微笑むと、幽見は黙って俯く羽月に優しく告げた。


「夢月さん、今日は午前中に診察があるの。だから午後なら会いに行けるわ。今回は面会扱いじゃないから許可も要らない」


羽月はぱっと顔を上げる。それはつまり、今日の午後なら羽月の思うタイミングで夢月に会えるということで。


「羽月ちゃんの心のままに動けばいいと思うわ。応援してる」


ふわりと笑みを向ける幽見に、心が温かくなる。

応援してる。

以前なら重いと感じていたかもしれないが、今は違う。幽見という人を知っている。彼女は何も強制しない。それでいて、道を示してくれる。1歩踏み出す勇気が出ない羽月のために、あえて背中を押すのだ。そうすればもう、羽月は歩き出せると気が付いたから。


「はい…っ」


大きく頷き、羽月は幽見を、そして深夜を見る。彼らは羽月が何を覚悟したかは聞かない。しかし彼女が望むことを予測し、背中を押してくれる。本当に、有難かった。


「2人とも、ありがとう」


だから羽月は今度こそ、覚悟を決めて姉と向かい合うことができる。




‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦




すっかり太陽が真上に昇った昼の空。開け放たれた窓から外の景色を眺める羽月は、かれこれ数十分微動だにせず物思いに耽っていた。時折響く子供特有の甲高い声。チラリと左側のホールに目を向けるも、何か催し物をしている様子もない。声は屋上から聞こえているようだ。

優しい風が羽月の白髪を攫う。ふわりと広がる白銀に、その美しさに、深夜は変わらず目を奪われた。確かにこの髪が原因で、彼女の家族は壊れてしまったのだろう。それでも、この姿の羽月しか知らない深夜にとって白髪は彼女を構成する要素のひとつであり、それがなくなればいいとはどうしても思えなかった。

ふと時計に目をやると、針は20分を指している。深夜の診察は30分から。そろそろ準備をした方が良さそうだ。


「俺、そろそろ診察行くよ」


思考する彼女の邪魔をしたくなくて独り言のように呟くと、羽月ははっとしたように深夜に目を向け、僅かに寂しさを滲ませた微笑みを浮かべた。


「わかった。…私も、行こうかな」


姉のところに、ということだろう。きっと彼女はそのために今まで覚悟を決めていたのだろうから。


「そうか。じゃあ、途中まで一緒に行くか」


今日、なにか彼女なりに動き始めた羽月には不要な気遣いかもしれないと思いながら問いかけると、裏腹に嬉しそうに頷かれた。頷き返し、病室のドアを開ける。先に羽月を通した深夜は後ろ手にドアを閉め、彼女に手を差し出した。突然の挙動に首を傾げた羽月は彼の意図を察すると目を瞬かせ、きゅっと唇を結びその手を握った。

温度の薄い手を引き歩き出す。ふたりの分かれ道までは病室を何個か通り過ぎるほどの距離しかない。この短い時間で、自分は彼女に何を伝えられるだろうか。そもそも羽月が深夜の言葉を待っている、という考え自体が彼の考えすぎという可能性もある。そう思うと余計に言葉が出てこなかった。

病室を3つ通り過ぎ、開けた廊下に出る。ここが分かれ道だ。ここから深夜はまっすぐ、羽月は右に曲がり、それぞれ行くべき場所へ進まなくてはいけない。


「深夜」


遠慮がちに名前を呼ばれ、繋いだ手を見つめていた深夜は顔をあげる。羽月は迷うように視線を落とし、消え入りそうな声で問いかけた。


「私、変われたかな」


息を飲む。その言葉は、昨日までの彼女の不安を色濃く示していたから。本人がどこまで自覚しているかはともかく、恐らく今日紅髪を切ったのは、自身の変化を目に見えるようにしたいという意図もあったのだろう。少しは変われたと思っていた矢先に姉に拒絶され、それでも前に進もうと努力した結果を残すために。

行き交う人の声が、彼女の問いかけを溶かす。不安に俯く羽月の頭を深夜は優しく撫でた。


「変われた。変われてるよ、羽月は」


まだ半年しか一緒にいない深夜でさえ、変わったと思うのだ。以前の姿しか知らない夢月からしたら、もはや別人のように感じるかもしれない。
深夜の答えを聞いた羽月の手が、今までより強く握られる。それは喜びか、決意か。


「だからさ。そのままの羽月でいればいいよ。そうすれば絶対、伝わるから」


撫でる手を滑らせるようにして彼女の頬に添える。そうすれば、羽月がこちらを見てくれると思ったから。
案の定目線をこちらに向けた羽月に、手を下ろした深夜は笑いかけた。


「もしまたダメだったら、今度は俺が話しに行こっかな。羽月のいいとこ語りなら自信ある」


おどけた言い方に、緊張した面持ちだった羽月はふっと頬を緩めた。


「なにそれ。お姉ちゃんに私のいいとこを話しに行くの?」


「あぁ。話を聞かずに追い返す姉なら、ちゃんと妹のいいところを教えてやらないと」


「お姉ちゃんは、そんな人じゃないよ」


ふわりと笑みを浮かべた羽月を見て、深夜はしてやったりとばかりにその瞳を覗き込んだ。


「だろ。だから大丈夫だよ」


深夜の思惑に気がついた羽月はポカンと彼の顔を見つめ、とうとう小さく笑い声を響かせた。
その様子に深夜は気づかれないように息をつく。今は触れた手もあたたかい。どうやら彼女を元気づけられたようだ。


「ありがとう、深夜」


そう言ってまっすぐこちらを見つめる羽月は、もう不安に俯く少女ではない。晴れやかな笑顔に、深夜は嬉しくなって笑みを返した。


「それじゃあ、いってらっしゃい」


繋いでいた右手を解き、ハイタッチを求めて手を挙げる。羽月も嬉しそうに頷くと同じように手を挙げた。


「うん。いってきます」


パンっと気持ちのいい音が響く。それはまるでスタートの合図。深夜は離れがたさを押し殺し、ヒラリと手を振り病院の奥へと歩いて行った。

深夜の姿が見えなくなるまで見送った羽月は、深呼吸をして深夜とは別の方へと歩き出す。とはいえ、夢月の病室はもう見えている。だからあとはドアの前に立ち、ノックをするだけ。

ひとつ、深呼吸。大丈夫。きっと伝えられる。
しっかり3回音を響かせる。今日、手はあまり震えていなかった。しばらく夢月の返答を待つ。しかしどうしてか、今日はいつまで経っても声がかからない。聴き逃してしまっただろうかと、今度は羽月が声をかけてみる。


「羽月です、お姉ちゃん、いる…?」


それでも返答は聞こえず首を捻る。もしかしていないのだろうか。その可能性はあまり高くはないが、ともかく夢月の所在を確認しないことには帰るに帰れない。勇気を出して病室のドアを開けると、先日とは別の理由で羽月は固まった。


「お姉ちゃん…?」


視線の先で、点滴を刺された夢月が地面にへたり込んでいたのだ。慌てて駆け寄ると羽月は悲鳴のような声を上げた。


「どうしたの!?大丈夫!?」


その声を聞いて夢月はやっと顔をあげ、目の前に飛び込んできた羽月の姿を見て目を見開く。自分がつけた罪の証が、ない。


「羽月、髪…」


「今はそれどころじゃないでしょ…!」


ピシャリと言い放たれ、夢月はおずおずと口を開いた。


「ごめん。ドア開けようとしたら、立てなくなって…」


「怪我人なんだから安静にしてないと…!無茶しちゃダメ…!」


その言い方に夢月は瞬く。羽月の手を借りながらベッドに戻り、浅く腰掛けてから彼女を見つめる。


「羽月…怒れたんだ」


そう、彼女は怒っていた。それも夢月に対して。
一体いつぶりだろう。それともはじめてだろうか。ともかく昔の羽月からは考えられない言動だった。
驚く夢月に羽月は首を捻ると、幽見も使った椅子を引き寄せゆっくり腰を下ろした。


「だって、お姉ちゃんが死んじゃやだもん」


極端な言葉に夢月は呆気にとられた。確かに自分は死にかけたのかもしれないが、まだ生きている。今は羽月の方がよっぽど死に近い。
しかし、羽月の言いたいことはそうではないのだろうということもわかってしまった。つまるところ、大切に思われているのだ。夢月自身が否定してもなお余りあるほどに。


「どうして…」


問いかけて、止まる。
どうして自分を気にかけるのか。
どうして責めないのか。
どうしてそんなに、優しいのか。
聞きたいことはたくさんあるのに、言葉にできない。

押し黙る夢月を眺めていた羽月は、そっとその手を握った。思考がまとめられず不安そうに瞳を揺らす姿が自分と重なって、なんだか嬉しくなってしまう。


「私ね、お姉ちゃんが大好きだよ」


あたたかい手の温もりと思いがけない言葉に夢月は狼狽する。そんなふうに思ってもらう資格なんてない。そう言おうとして、しかし言葉にはならなかった。


「でもね、お姉ちゃんは私のこと嫌いなんじゃないかって思ってたの」


当然だ、と夢月は思う。彼女の羽月に対する態度はそう思われても仕方のないものばかりだったから。


「思ってた、けど」


ゆらりと羽月は視線を泳がせる。未だに自分は信じきれていないのかもしれない。しかし大切な人たちがそう思ってくれているなら、信じてみようと口を開く。


「お姉ちゃんはずっと、私を大事にしてくれてた…よね」


控えめに首を傾げて微笑む姿に息を飲む。
問いかけだけど、確信がある。彼女にそう思われることを、自分は何もしていないはずなのに。


「私は多分、自分を大事にするってことがわからない。だって私は私が許せないから」


「許せないって…」


「私がたくさん迷惑かけたのは事実だもの」


反論しようとして言葉が詰まる。彼女の罪を明確に、目に見える形にしたのは他でもない夢月自身だったのだから。


「だけど、私の大切な人がね。『例え私自身だったとしても、好きなものを否定されたら悲しい』って言ってくれたの」


嬉しそうに頬を染める羽月。深夜の言葉が、考えが、今の彼女を形作っていた。


「大切な人にそう思わせちゃうなら、私はもっと自分を大切にしなきゃいけないんだって気づいた」


そして羽月は繋いだ手をぎゅっと握る。少し冷たい、彼女にとって“好きなもの”の手を。夢月は小さく肩を揺らし、ゆるゆると視線を羽月に向ける。


「だから、お姉ちゃんも自分を大切にしてほしい。お姉ちゃんが辛そうだと、私も辛いから」


傷ついたように眉を下げる羽月。先程の夢月を見てようやく実感が湧いた。大切な人が己をすり減らして生きていく姿というのは、こんなにも胸が締め付けられるものなのだと。


「どうして羽月は、いつもそうなの…っ」


怒ったような、困ったような声だった。曖昧な問いに羽月はゆるく首を傾ける。


「自分は散々辛い思いして、傷つけられてっ、なのに人に優しくする…!怒っていい、恨んでいいの…!なのに、どうして…っ」


それは慟哭だった。これまで羽月にぶつけることができなかった、彼女の後悔の念だった。
責めてくれれば、断罪してくれればいいと思うのは羽月だけではない。夢月もまた、羽月からの裁きを求めていた。


「怒ってないわけじゃない、と思う。でもそれはお姉ちゃんに対してじゃない。だってお姉ちゃんがどれだけ頑張って、我慢して、それでも私の面倒を見てくれてたか、私は知ってる。…怒れないよ」


「そんなっ、羽月の経験したことに比べたら私なんて大したことない!」


「ううん。きっと私が同い年でも、お姉ちゃんと同じことはできなかった。お姉ちゃんは、すごいんだよ」


まっすぐな眼差しに射抜かれ、夢月は顔を歪める。羽月は頑なに認めない。きっと彼女の中で自分はいつまでも“大好きなお姉ちゃん”だから。


「…どうして、責めてくれないの…っ」


ポロリと、かすれるような声が零れた。それは限りなく本音に近い、彼女の悲鳴だった。
潤む瞳を羽月は見つめる。この瞳だけは、自分と姉が紛れもなく姉妹であることを思い出させてくれる。夢月が家族であると、味方であると。


「ぁ…でも…」


ふとある日を思い出し、羽月の胸が詰まる。いじめがはじまって辛かった時、もしかしたら姉なら味方になってくれるんじゃないかと淡い期待を持ったあの日。結果として羽月は否定されてしまった。唯一の味方だと思っていた相手にさえ、自分が異端であると突きつけられたようで。


「お姉ちゃんに追い返されちゃった時は、つらかったな…」


どこか遠くを見るような瞳に夢月は息を飲む。
あぁ、そうか。自分はこの子にこんな孤独を背負わせてしまったのか。一生消えない傷をつけてしまったのか。

自分はどうしたら、この罪を償えるだろうか。


「っ───!」


言葉よりも先に、体が動いた。ガシャンと音を立てて点滴の針が抜ける。夢月は羽月に手を伸ばして強く、強く抱きしめた。突然の行動に、羽月は思わず驚きの声を上げる。


「お、お姉ちゃ───」


「ごめんなさい…っ」


遮るように声が重なる。
点滴の針を戻さなきゃ、とか。急に動いちゃだめだよ、とか。そんな思考は彼女の悲痛な謝罪に掻き消された。それほどまでに羽月の胸を締め付ける声だったのだ。


「ごめんなさい…私はあなたの味方でいなくちゃいけなかったのに…。突き放して、見ないふりして、傷つけて…っ。ごめん、ごめんね…っ!」


夢月の表情は見えない。しかし肩を濡らすあたたかい雫が、彼女の後悔を教えてくれた。


「ちがう、ちがうよ。傷つけたのは私だよ…」


声が震える。喉がつっかえて上手く言葉が紡げない。
知らず溢れた涙が一筋、羽月の頬を流れて落ちた。


「私が、生まれてこなければ…」


「それは違うっ!!」


耳元で響く大声に、羽月はビクリと肩を揺らす。しかしその否定を理解すると目を丸くした。髪が紅く染まったあの日、夢月は言った。「あんたが生まれてから、私は不幸になった」と。その彼女が。


「あなたを否定した私が言う資格がないのはわかってる!でも、でも私はあなたが生まれて来なければよかったなんて思わない!」


夢月の涙が、羽月の白髪を伝う。窓から差し込む陽の光が、それを朝露のように輝かせた。


「だって私は羽月が生まれた時、すごく嬉しかったんだから…!!」


見開かれた羽月の瞳からぼろっと大粒の涙が零れ落ちた。他の誰でもない、夢月から告げられた自分の生を祝福する言葉。

ずっと苦しかった。自分が生まれたことで大好きな人たちに絶望を与えてしまったことが。だから姉は、母は、本当は羽月が生まれたことを疎ましく思っているのだと思い込んでいた。けれど。


「嬉し、かった…?」


「そうだよ!ずっとずっと、あなたが生まれてくるのを私は待ってたんだから…!」


嗚咽の混ざる言葉は切実だった。嘘や慰めではない夢月の本心。羽月の知らない、幼き日の彼女の期待。

涙が溢れて止まらない。夢月の言葉を理解することができずにいる反面、本能ではわかっているのだろう。もう羽月は、胸を張って夢月の“妹”でいていいのだと。


「ぅ…ぁ、うぅ…っ」


堪えていた嗚咽が零れる。詰まる喉を無理やり動かして、羽月は夢月に問いかけた。


「わたし…っ、生まれて、きて…よかったのかな、ぁ」


一瞬、夢月の体が硬直する。涙に濡れる羽月の問いをゆっくり理解し、不器用な笑顔をつくる。白髪の頭を手のひらで抱き込んで、優しく撫でた。


「あたりまえでしょ。羽月は私の、大切な妹なんだから」


見開いた紅が涙を反射して煌めく。
たった一言。羽月がずっと欲していた言葉。

もう鳴き声を抑えることはなかった。堰を切ったように溢れる涙と泣き声。生まれてから溜め込んでいた不安や疑念が、まっさらな雫に洗い流されていく。

肩に顔を埋めて泣き続ける羽月の頭を、夢月は何度も何度も撫でる。本当はずっとこうしたかった。文字が書けたとき、絵が描けたとき、頭を撫でると嬉しそうにはにかむ羽月の顔が好きだったから。今は泣かせてしまったけれど、きっとこれから昔のように頭を撫でたら羽月は微笑んでくれるだろう。

卑怯だろうか。自分は許されてはいけないと言っておきながら羽月の許しを何よりも望んで、あまつさえ許されてしまった。それが嬉しくて、自分はまた“羽月の大好きなお姉ちゃん”に戻ろうとしている。羽月を傷つけ、孤独にした罪は消えないのに。

それでも、もう二度と羽月をひとりにしたくないから。だから彼女は自分の罪を背負いながら、大好きな妹を守るように抱き、涙に濡れる瞳を閉じた。




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