泡沫の恋
少しレトロ感漂う本屋の軒先に春野は立っていた。

「春野!」

目の前まで駆け寄って声をかけると、春野が驚いたように俺を見上げた。

「ちょっ、九条大丈夫?びしょ濡れだよ?」

Yシャツが肌にくっつき気持ちが悪い。

「一回風にあおられて傘がひっくり返った」

「大丈夫?ごめんね、私のせいで」

「俺が勝手にしたことだから。入って。家まで送ってく」

「うん。ありがと」

骨が一本折れてしまったビニール傘に春野を入れて歩き出す。

この辺りは車の往来の多い場所だ。

車道側に立ち体が触れないように気を付けながら歩いていると、春野が俺の肩を指差した。

「九条、肩濡れてるよ」

雨音で春野の声がうまく聞こえなくて「ん?」と首を傾げる。

今度は更に大きな声で春野が「肩濡れちゃってるよ」と言った。

「ああ、大丈夫」

「私が大丈夫じゃないよ。風邪ひいて大会出れなくなったら大変でし」

「俺は春野が風邪ひく方が嫌だから」

「なにそれ。九条って時々なんかさ……」

春野がうつむいてブツブツ言う。でも、その声は雨音にかき消されていく。

雨の日は嫌いだったけど、こうやって小さな傘の中で一緒にいられるのなら悪くない。

「ごめん、聞こえなかった。もう一回言って?」

「いい。ただの独り言だから」

「そっか」

その瞬間、ぶわっと強い風が吹き傘が裏返った。

「やべ」

一瞬にして俺達の体に大粒の雨がシャワーのように降り注ぐ。

急いで傘を直していると、春野が叫んだ。

「やだやだやだ!メイク落ちちゃう!!」

敬礼するみたいに前髪付近に手を重ね合わせて必死に顔を守ろうとする春野の姿が可笑しくて吹き出す。

「ははっ、もう無理だろ。諦めろ」

「あぁぁ、前髪が!!命の前髪が崩れる……!!」

「気にすんなって」

「無理無理!メイク崩れちゃう!!!」

「落ちたって平気だろ。修学旅行の時のすっぴんの春野可愛いかったし」

「か、可愛くないもん……」

照れているのか春野は俺と目を合わせようとしない。

春野が照れるせいでなんだか俺まで恥ずかしくなってきた。

なんとか傘を直し再び傘に入ると、春野は上目遣いになりながら人差し指と親指で前髪を直す。

濡れた髪の春野にドキリとしながらも、俺は必死に平静を装おう。

雨の匂いとザアアっと傘を叩くくぐもった雨音。

「雨って嫌いだったけど……なんか今日は嫌じゃないや」

「……俺も」

話したいことも聞きたいことも言いたいこともたくさんあるはずなのになんの言葉も出てこない。

それはきっと隣に春野がいるだけで幸せだったから。

言葉なんてなくても、春野と一緒にいるこの時間は心が繋がっている気がした。

時々、春野が次の交差点右とか突き当りを左とか指示を出す。

俺は春野の指示通りに家を目指して歩き続ける。

あんなに激しく降り続いていた雨は家に着く頃には小雨になった。傘を叩く音が小さくなる。

もう傘も差さずに歩けたかもしれない。

それでも俺はかたくなに傘を閉じようとしなかったし、春野も傘から出ようとしなかった。

いつの間にか二人の距離感は近くなり、俺の腕と春野の肩はぴったりとくっついていた。

このまま肩に腕を回して自分の方に引き寄せてしまいたい衝動を必死に抑える。

感情のまま動けば春野と付き合うどころか、友達ですらいられなくなってしまう。

「着いた。ここだよ」

春野が指さしたのはオープン外構の茶色いレンガ調の洋風な一軒家だった。

入り口には綺麗に手入れされた草花が植えられている。

「送ってくれてありがと。帰り大丈夫?」

「俺は大丈夫。濡れてるし早く風呂入れよ?」

「うん。九条、また明日ね」

今もまだメイク崩れが気になってソワソワしている様子の春野。

「じゃあな」

手を振って別れる。

もうすっかり雨は止んでいた。

傘をそっと閉じ、俺はさっき来た道とは反対の方向へと足取り軽く歩き出した。
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