泡沫の恋
ほとんど眠れないまま朝を迎えるのは今日で何回目だろう。
三年に進級して賢人とも三花とも離れ離れのクラスになってしまった。
ぼんやりとした頭で数学の授業を受けたあと、稲田が私の席まで歩み寄り職員室に来いと呼び出された。
三年に進級して担任でなくなったというのに一体何の話があるんだ。
眠いしダルいし憂鬱と苛立ちをごちゃまぜにしたような気持ちで職員室に入り稲田の席に向かう。
「お前、どうしたんだ。今までちゃんと出せていた課題がまったく提出できてない。授業中も集中してない。高3の自覚ある?」
今までにないぐらい厳しい表情で稲田は私を見た。
「二年の面談で言ってただろ。将来は編集者になりたいって。その夢の実現の為にお前が今すべきことはなんだ?」
「……分かりません」
本当は分かっていたのに、ちょっと反抗してみる。
やらなければいけないことは山積みだ。数学の課題、英語のワーク、予備校のテキスト。
「嘘つけ」
ピシャリと言ったかと思えば、「で、なにがあった?」と今度は優しい口調で尋ねた。
「何もありません」
「だったら、その顔はなんだ」
「どういう意味ですか?」
「今のお前は自分を見失ってる。そうだろ?」
椅子に座って腕組みをして私を見上げる稲田の前で私は両手を握り締めながらワナワナと唇を震わせた。
胸の奥がキリキリと痛んで私は参ったなと苦笑する。
自分を見失っていると一番実感していたのは私自身だ。
今、自分がどうすべきか分からない。賢人との関係どころか、将来のことすら宙ぶらりんだ。
賢人と付き合ってから、嫌なことから目を逸らして知らんぷりをして心の波風を立てないように、傷付かないように過ごすことを覚えた。
それを、大っ嫌いな稲田に見透かされていたのだ。
「……なら、先生。私はどうしたらいいの?」
意地悪な質問をしてるという自覚はあった。稲田は鋭い目を向けた。でも、その瞳には温かさを感じられる。
「まずはゆっくり寝て、ちゃんと飯を食え。規則正しい生活に戻って体力が回復したら自分と向き合う時間をつくるんだ」
「私そんなに不健康に見えますか?」
「見える。目の下にでっかいクマができてるぞ」
「えっ!嘘!やだっ!!」
その言葉に指先で目の下を隠すと、嘘だよと稲田が笑った。
いつも気難しい顔をしている稲田の顔をまじまじ見ると、眼鏡の下の目は涼し気でパッチリとした二重だった。
「先生って可愛い顔してるんですね」
咄嗟に口にすると稲田の顔から笑顔が消え、照れ臭そうに眉をㇵの字にして咳払いする。
「とにかく、今は大切な時期だ。教師にあれこれ言われるのは嫌だろうがこれを言うのはお前のためでもある。そこだけは分かってくれ」
稲田に頭を下げて職員室を出ると、私はトボトボと廊下を歩いて教室へ向かう。
「私の……ため」
途中、階段の踊り場の鏡の前で私はふと立ち止まった。
鏡に映る自分の姿をまじまじと見つめる。
稲田が心配するのも無理はないと思えるぐらい、私は疲れ果てた顔をしていた。
セーラーのリボンは曲がってるし、メイクのノリも最悪だし、前髪も全然決まってない。
こんなの私じゃない。
私は階段を駆け上がって教室に飛び込むと、メイクポーチを持ってトイレへ駆け込んで鏡の前に立った。
よれてしまったファンデをはたいて、イエベの私にピッタリな淡いブラウンのアイシャドウを塗り、茶色のアイラインを引き直してからオレンジ系のリップカラーを塗る。
前髪もくしでとかしてバッチリセットして、リボンも整える。
鏡の中の自分を見つめる。どんよりと沈んでしまっていた瞳に輝きを取り戻した気がした。