泡沫の恋
公園に着くと、先に来ていた賢人がベンチに座ってスマホを弄っていた。

私の存在に気付いて小さく手を挙げてポケットにスマホを押し込む。

私はほんの少しだけ間隔を取って隣に腰かけた。

「試合、どうだった?」

そう尋ねると賢人は意外そうな顔で私を見た後、少し落胆したように肩を落とした。

「2試合目は負けた。全然歯が立たなかった」

「そっか。残念だったね。明日も試合があるの?」

「明日も。過密スケジュール過ぎだよな。結構しんどい」

「そっか。大変だね」

「今日も疲れて足パンパンだし」

ははっと笑った賢人につられて私は愛想笑いを浮かべる。

私と賢人って今までどんなことを話していたんだっけ。

「そういえば、このあと予備校?」

シンっと静まり返った空気を切り裂くように賢人が尋ねた。

私は小さく頷く。

「第一志望は東京の大学なんだけど、今のままだとちょっと厳しいって。だからもう少し頑張らなくちゃ」

「そっか」

「賢人も進学だよね?」

「俺はサッカーのスポーツ推薦取れたらいいなって思ってる」

「……じゃあ、そのためにも部活頑張らないとだよね」

牽制なのかなと私は賢人の言葉一つ一つに意地悪なことを考えてしまう。

スポーツ推薦取りたいから部活頑張ってるんだよって。

だから、会ったり連絡とったりできないけど我慢しろよって。

言われたわけじゃないけどきっとそう。ずっと前から私たちの関係は宙ぶらりんだった。

それを認めたくなくて私は目を逸らしてきた。きっと賢人も。

だから、もう。

「……今まで本当にありがとう」

私の言葉に賢人が目を見開いた。

「ありがとって、なに?」

「もう私達別れよう」

「待って。なんで急に……」

賢人の顔は引きつり明らかに動揺していた。

「前から思ってたの。このままでいいのかなって。賢人だって私と同じ気持ちでしょ?」

「俺は愛依と別れたいなんて思ったこと一度もないから」

信じられないというように私を見つめる賢人の目に嘘はないと分かっているから、苦しかった。

目に涙が滲む。

自分の決断が揺るぎそうになり私は思いっきり鼻をすすった。

「修学旅行で同じ班になって一緒に行動して、花火大会の日に賢人から告られて。人生で最高に幸せな夏休みだった」

「なんで過去形なの?これからもそういう思い出を作ればいいだろ?」

「台風の日に家まで迎えに来てくれて一緒に登校したとき、傘ひっくり返って骨組みだけになって大笑いしたよね。あれ、今思い出してもお腹痛い」

「やめろって」

「賢人と一緒にいた時間は楽しくて嬉しくて……ホント幸せだった」

「それならー―」

「でも」と私は賢人の言葉を遮った。

「その分、辛いことも悲しいことも苦しいこともあった。会いたくても我慢して連絡もできなくて、言いたいことあっても呑み込んで……そういうのに疲れちゃった」

私の目からポロリと涙が零れ落ちた。それを賢人は黙って見つめていた。

「私ばっかり賢人を好きだった。付き合ったばっかりの時はちゃんと賢人からの愛情を感じてたのに、いつからか分からなくなっちゃった。不安だからいちかちゃんとのことも気になったし、賢人に執着しちゃってた」

言いながら必死に頬に伝う涙を拭う。

「今、賢人といちかちゃんって隣の席なんだってね。さっきいちかちゃんに聞いた。賢人は私に気を使ってそれを言えなかったんだよね?」

「それは……」

「お互いに顔色伺って、言いたいこと言えずに黙ってるなんてこんなの付き合ってるって言える?」

「ごめん。俺が悪い。忙しいって理由付けて愛依の気持ちを考えられてなかった」

「違う。賢人だけじゃない」

私だって賢人のことを考えずにワガママだったから。

勝手に期待してそれが叶わなければ落胆して、賢人に自分の理想を押しつけていた。

そのせいで賢人を縛り付けてしまっていたんだ。

「愛依、頼む。考え直して。俺は愛依のことが好きだし、これからは愛依が寂しくないように連絡もちゃんとする。休みの日もできるだけ時間とるようにする。だからー―」

「私もまだ賢人が好き。だけど、このまま付き合っていてもきっとまた同じことの繰り返しだと思う」

「待って。一人で決めないでくれよ。俺も努力するから」

「そこに気持ちがあれば、努力しようとする必要なんてないんだよ。自然と態度に出るものだから」

声が聞きたいと思えばどんなに短い時間だって電話をかけるし、メッセージもすぐに返信する。

ちょっとだけで会いたいって思えば、会いに来る。

付き合う前と付き合ってすぐの頃の賢人がそうだったように。

私の言葉に賢人はうっすらと唇を開いて苦しそうな表情を浮かべた。

「初めての私の彼氏が賢人でよかった。優しくしてくれてありがとう。私、幸せだった」

泣き笑いの私はそう言うと、ベンチから立ち上がった。

「愛依、待って。ちゃんと話を――」

私を追いかけようと私の手首を掴んだ賢人がハッとする。

「ミサンガは……?」

「もう外した。ピアスも」

賢人の顔がみるみるうちに歪む。私が視線を下げると、賢人の部バッグに目がいった。

そこに私とお揃いの猫のキーホルダーはなかった。

そんな顔しないで。自分だってつけてないのに。

「サッカー頑張ってね。私も勉強頑張るから!」

賢人の手が私の手首から離れたのを合図に、にっこりと笑って言うと今度こそ背中を向けて歩き出す。

公園の出口まで歩いてから、溢れ出る涙を必死に拭った。

私の前を通り過ぎたサラリーマンが同情したような目で私を見る。

両手で顔を覆う。胸が痛み、呼吸が乱れるほどに激しく泣いた。

とてもではないけど、今すぐ予備校へ行ける状況になかった。

公園から少し歩いた人気のない路地で私は三花に電話をかける。

「私、賢人と別れた」

涙声を隠すことなく告げると、三花は『愛依、大丈夫?』と私のすべてを包み込んでくれるんじゃないかというほど優しい声で尋ねた。

三花に報告したことで賢人と別れたという事実が現実味を帯びる。

『今から行って話聞こうか?』

どん底にいた私は三花の言葉に救われる。

賢人と別れたからといって私は一人じゃない。

電話をすれば心配してくれて今から行くってって言ってくれる親友がいる。

賢人と付き合ってから世界は広がった。だけど、狭くて偏った考えになっていた。

賢人という彼氏が私の中の優先順位の一位で、自分自身は二の次になっていたんだ。

稲田にまで指摘されてしまうぐらいそれは誰の目から見ても明らかだったんだろう。

私は、私を失っていた。でも、もう大丈夫。

私は私自身を取り返す。賢人と過ごした泡沫みたいなあの幸せな日々を糧にして。

「平気平気!これから予備校行ってくるから」

『マジで?強すぎない?』

「ふふふっ、私は元々強いんだよ。三花も知ってるでしょ?」

『うん、知ってる』

「私、これからちゃんと勉強する。三花とももっと遊ぶ。で、絶対幸せになる」

ーー私自身の為に。

『よしっ、あたしも頑張る!次の模試終わったらカラオケ行ってプリ撮ろ』

「おっけ!約束!!」

電話を切った頃には、涙は乾いていた。

スマホの待ち受けの笑顔の二人に私は優しく微笑みかけた。

「バイバイ、ありがと」

私は真っ直ぐ前を向いて、背筋を伸ばして歩き出した。
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