竜帝陛下と私の攻防戦
 平日でも夏休みは電車の利用者は多い。
 昼前の繁華街へ向かう電車内の混雑は、朝のラッシュ時まではいかないが満員状態だった。

(はぁー、ベルンハルトさんに電車に乗ってみたいと言われて電車で向かうことにしたけど、よく考えてから乗ればよかったな)

 混雑しているのは少し考えれば分かることなのに、最近は通学にしか利用していなかった路線のため、夏休みの昼前時間帯の混雑まで思い付けなかった。

 満員電車特有の息苦しさ、乗客達の制汗スプレーと汗の臭いと密着する他人の体温を感じ、佳穂は身を縮こませて何とか隙間を作ろうとする。
 駅のホームで電車待ちをしていた時、やって来た電車の混雑した車内の様子を見た佳穂は、次の電車に乗ろうと言ったのだが「満員電車を経験したい」と真っ先に車内へ乗り込んだのはベルンハルトだった。

 いくら乗り換えしないで行けるとはいえ、混雑する路線を選択したことを後悔しても、あと一駅で目的の駅へと着くのだ。

 満員の電車内が珍しいのか、楽しそうにしているベルンハルトは真横に立っている。
なるべく彼に体重をかけないよう、佳穂は両足に力を入れて踏ん張っていた。

 ガクンッ
 カーブに差し掛かった電車が大きく揺れ、踏ん張りきれなかった体が後ろへ倒れそうになった。
 後ろに立つ男性へ背中から寄り掛かってしまう前に、佳穂の腰へ腕が回され引き寄せられる。

(あっ!?)

 引き寄せたベルンハルトとは身長差があるため、ちょうど佳穂の目線は彼の胸元へ吸い寄せられる。
 チラリと上を向くと男性らしい喉仏とシャープな顎が見えて、佳穂は慌てて視線を下へ向けた。

 こんなに隙間無くベルンハルトと密着するだなんて初めての経験で、緊張と恥ずかしさに佳穂の心臓の鼓動は壊れてしまいそうなくらい速くなる。
 今の顔は熟れたトマトみたいに赤くなり、どうしようもないくらい熱を持っていた。このままでは火が出るんじゃないかと不安になるくらい、熱い。 

(どうしよう、どうしよう。これじゃあ、勘違いしちゃう。くっついていたら嫌でもベルンハルトさんを意識しちゃうじゃない。お願い、静まれ私の心臓!)

 降車駅まではたった二、三分なのに、身を捩って体を離したくても隙間無くベルンハルトと密着している佳穂は、息をするのも上手くも出来ずに、窒息しそうになってしまう。
 喘ぐように息をして後悔する。
密着しているため否応無しに彼の匂い、汗とは違うミントに似た香りと体温を感じてしまった。


《×××駅、電車とホームの間に隙間があるため……》

 電車は目的の駅へ着き、次々に乗客が降りていく。
 密着していた佳穂とベルンハルトの間に隙間が出来て、腰へ回されていた彼の腕が離れていく。

(あっ)

 離れていく腕を掴みそうになって、佳穂はぎゅっと手のひらを握り締めた。
 こんな気持ちになるのは、満員電車に揺られ疲れたせいだ。
 そうでなければ説明がつかない。ベルンハルトと離れるのが寂しく感じるだなんて、どうかしているのに。

「満員電車というのもなかなか面白い。よくあの状態で乗っていられると感心する」

 密着した感触と体温が生々しく残っているせいで、面白いと感想を述べるベルンハルトの顔をまともに見られない。
 佳穂は相槌を打ち、俯くように視線を下げて歩く。

 顔を見るのが恥ずかしいのもあるが、平凡な容姿の自分と共にいるのがとんでもなく綺麗な青年ときては、周囲からの視線を必要以上に集めてしまいつらくなる。

 少し前を歩くベルンハルトはよく堂々と歩いていられるものだ。元居た世界では、皇帝陛下として人々の注目を浴びていたはずだから、人から見られるのは慣れているのかもしれない。
 彼の生活していた世界と大分違うだろうに、違和感なく街に溶け込んでいるから適応能力は高いのだろう。

(えっ、なに?)

 スクランブル交差点の横断歩道が赤信号に変わり立ち止まった時、無言のまま前を向いていたベルンハルトが急に後ろを振り向く。
 心の声が聞こえてしまったのかと、少し怯えつつ見上げる佳穂に彼は無表情のまま右手を差し出した。

「掴まれ。この状態でお前とはぐれたら面倒だ」
「へ?」

 ぱちくり、ゆっくり瞬きをして脳内で耳に聞こえてきた言葉を噛み砕く。

 今、何と言われたのか。
 差し出した手に「掴まれ」と言われなかったか。
 その言葉を理解するまで、たっぷり数十秒時間がかかった。

 手を取るべきか悩んでいると信号が青に変わり、一気に人の波が動き始める。
 ベルンハルトに睨まれるのが怖いのと、立ち止まったままでいて通行の妨げになるわけにはいかない。佳穂に迷っている時間など無かった。

「失礼、します」

 ぎこちなく繋いだ手のひらから伝わってきた彼の体温は、思った以上に温かかった。
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