仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
テラスで朝食を
「気持ちいい……」
 リビングから続く広いテラスに置かれた椅子に座り、チュンチュンという小鳥のさえずりと木の葉がさわさわと揺れる音に耳をすませて澪はうっとりと目を閉じた。
 目の前のテーブルには、新鮮な野菜とフルーツとフレンチトースト、それから温かいスープがテーブルいっぱいに並んでいる。いい天気だから朝食をリビングではなくテラスでとることにしては?と、コンシェルジュに提案されてそうしてもらったのである。
 向かいには圭一郎が座っていてコーヒーを飲んでいる。今日に限らず彼は普段から朝食は食べないのだという。
「ふふふ、贅沢……」
 さっそくグレープフルーツのフレッシュジュースをひと口飲んで澪はひとり言を言う。大自然に囲まれて、風の音を聞きながら朝食を食べられるなんて、なんて気持ちがいいのだろう。
 でも圭一郎がフッと笑ったのに気がついて慌てて口を閉じた。
 これくらいのことを『贅沢』だと表現するのはよくなかったかもしれない。本物のお嬢さまならどう言うのだろう。
 そんなことを考えながら、カボチャのスープをひと口飲む。そして目を開いた。びっくりするくらい美味しかった。
 カボチャの自然な甘さが胃の中に染み渡る。澪は急に空腹を感じた。考えてみれば夕方に行われた披露宴以来なにも口にしていない。その披露宴でだって、緊張でろくに食べられていなかったのだ。
 もうひと口飲むと、もう止まらなくなってしまう。ほとんど一日ぶりの食事を澪は夢中で平らげた。
 ベビーリーフのサラダにベーコンとふわふわのスクランブルエッグ……フレンチトーストはおかわりをしたほどだ。
 向かいに座る圭一郎は涼しい顔で新聞を読んでいる。食べ終えて澪が自分の分のコーヒーを待っていると、口を開いた。
「お腹いっぱいになった?」
 どこか楽しげに微笑んでいる。
 そこで澪はドキリとした。また失敗したかもしれない。お嬢さまは、男性の前でこんなにたくさん食べないのかも……。
「はい、美味しかったから、つい……」
 気まずい思いで答えて、もじもじとしていると、コーヒーを運んできたコンシェルジュに声をかけられた。
「奥さま、滞在中、よろしければ、こちらはいかがでしょうか」
 いくつかのパンフレットと、ホテル周りの簡単な地図を手にしている。
「この辺りの人気のスポットです」
「わぁ、いろいろあるんですね」
 この辺りには、ワインの醸造所やチーズ工場、ガラス工房、隠れ家的なカフェなどがあるようだ。車でしか行けないけれどブランドショップが集まるショッピングエリアもあり、ちょっとした買い物ならこの辺りで済ませられる。町からでないでも不自由なく滞在できるようになっているのだろう。
 ホテルの宿泊客用のアクティビティもいくつか用意されていて、醸造所の見学やガラス工房での手作り体験とバラエティ豊かだ。
 滞在中圭一郎は仕事をするようだから、澪はひとりで過ごす時間が多くなると思っていたが、これならば退屈することはなさそうだ。
「どれも楽しそう……」
 呟きながらパンフレットをめくり、澪はその中のひとつ『原生林を散策』という文字に目を留めた。
「これは……?」
 尋ねるとコンシェルジュがにっこりとした。
「御料地の森でございます。以前は一般のお客さまは入れなかった森でして、今も専属ガイドがつかないと行けません。貴重な植物が手付かずのまま残っているんですよ」
「貴重な植物が……」
「ご興味がおありですか?」
「はい」
 植物学者だった父と園芸好きの母の影響だろうか、澪は草花が好きだった。人と違って植物は嫌味も悪口も言わないし、手をかければかけるほど綺麗な花を咲かせてくれる。
「朝から出発して、途中あづま屋でお弁当を食べて一日かけてゆっくりとめぐるハイキングコースです。よろしければ明日も天気がいいようですから、いかがですか」
 とても魅力的な話だった。ぜひ行ってみたい。チラリと圭一郎を見ると、彼は新聞を膝に置いた。
「そうしたら?」
「じゃあ」と、澪は言いかける。でもそこで大事なことに気がついた。
「あ、でも私、ハイキングに行けるような服を持って来ませんでした。……靴も」
 この新婚旅行にあたって、澪は坪井家が用意した服や靴を持ってくるようにと言われた。澪が坪井家から大切にされている令嬢だということを取り繕うためだ。
 それらはすべて、このホテルにふさわしいものばかりだけれど、ハイキングに来ていくような服や靴はない。
 コンシェルジュが澪を安心させるように微笑んだ。
「それならば『ガーデンガーデン』で揃いますよ。皆さまそうされます」
 そう言って地図の中のショッピングエリアを指し示す。そこで買えばいいということだろう。
「え……」
 澪はガーデンガーデンのパンフレットに視線を落として呟いた。
「買うのかぁ……」
 ハイキングと言ってもきちんと整備された道を歩くだけのようだから必要なのは、長袖シャツとウインドブレーカー、帽子と運動靴、リュックサックくらいのものだろう。実家に行けば全部あるのに、明日のためだけに新しい物を買うのはもったいない。
 確かにガーデンガーデンにもアウトドア用品の店はあるが、普段の澪なら絶対に手を出さない高級ブランドだ。全部揃えたらいくらくらいになるのか、予想もつかなかった。
 ……本当なら買いたくない。
 でもそれらがないと、ハイキングには行けないし……。
 パンフレットを見比べて澪があれこれと考えていると、向かいに座る圭一郎が吹き出した。そしてそのまま、くっくっと肩を揺らして笑っている。
 その様子に澪が首を傾げていると、彼はコンシェルジュに向かって口を開いた。
「ありがとう、午後に行ってみるよ。ハイキングは明日予定しておいてくれる?」
「かしこまりました」
 コンシェルジュは頭を下げて部屋を出ていく。それを見届けてから、今度は彼は澪に視線を送る。
「買ってあげるから」
 そう言って、くっくと笑いながらまた新聞を広げている。
 しまった、と思い澪は赤くなった。
 お嬢さまは服を買うくらいで迷っていてはいけないのだ。さらにいうとブランドがあたりまえ。ハイキングセットを揃えるのを躊躇するなんて、ケチくさいお嬢さまだと思われたのだろう。
 まさかこれだけのことで、澪が本物のお嬢さまじゃないことまでは、バレていないだろうけれど……。
「ありがとうございます……」
 気をつけなくてはと、澪は気を引き締めてコーヒーを飲む。慣れるまであまり迂闊なことは言わない方がよさそうだ。
 圭一郎が口を開いた。
「そういえば、お義父さんは植物学者だったね」
 澪はコーヒーを置いて、頷いた。
「はい」
「だから君も、植物に興味があるんだな」
 その質問に、澪はすぐに答えられなかった。お嬢さまならどう答えるべきか?という疑問が頭に浮かんだからだ。普通に考えて、お嬢さまだって植物に興味があってもよさそうな気がするけれど。
 ああ、もう少しきっちりと頭の中でシミュレーションをしてくるべきだったのだ、彼の前での振る舞い方が、よくわからない。
 そんなことを考えていつまでも答えない澪に、圭一郎が首を傾げた。
「君が言う幸せな夫婦になるのなら、妻のことをもう少し知る必要があると思ったんだが」
「え⁉︎ あ、そ、そうですね。すみません、ぼーとしちゃって……はい。園芸が趣味なんです」
 あたふたとして澪は口を開いた。
「家の庭、結構広いんですけど亡くなった母が木や花をたくさん植えたんです。その手入れをしたりして」
 とりあえず、お金に関わる発言だけには、気をつけようと思い澪は話しはじめた。
「……なるほどね。お義父さんに手入れの仕方を教わったの?」
 澪は首を横に振った。
「父というより母ですね。小さい頃からよくふたりで庭を散歩していたんです。その時に歩きながらいろいろ教わりました。確かに父は植物学者ですけど、庭については母のテリトリーだから口出しはしないんです。喧嘩のもとだって言っていました。『黙ってる、それが夫婦円満の秘訣だ』なんて言って」
 そこで澪はふたりのやりとりを思い出して、ふふふと笑う。
 植物学者の父からしてみれば、完全に自己流の母のやり方はおかしなところだらけだったのだろうと思う。それでも父は優しく母を見守っていた。
「母が亡くなってから、父は毎朝庭を散歩するようになりましたけど、やっぱり自分ではやりません。なるべくそのままで母を思い出しているんだと思います。だから庭の手入れは、母から教わった私の役目なんです」
 森に囲まれたテラスにいるからだろうか、母がまだ生きていた頃のことが鮮やかに脳裏に浮かんだ。
「小学生の頃にぶどうの木を植えてほしいっておねだりしたことがあるんです。マスカットって高いじゃないですか、なかなか買えないから食べ放題してみたくて……そしたら母が植えてくれて、父が駐車場の屋根にうまく這うようにトレリスを作ってくれたんです。今でも毎年実がなるんですよ」
「へぇ……、ぶどうって家でもできるのか」
「案外簡単にできますよ。ちゃんと実を収穫したかったら、袋をかぶせて保護するんですけど、うちはそのままにしておくんです。鳥が食べに来るように」
 母とふたりで庭先に隠れてその様子を観察したことを思い出し、澪の胸は懐かしい気持ちでいっぱいになる。
「今は父とふたりですから、そんなにたくさんできても食べられないですからね」
 と、そこまで話をして、澪は圭一郎がジッと自分を見つめていることに気がついた。
「あ……すみません、長々と」
 こんなに細かいところまで聞きたかったわけじゃないだろうと思い口を閉じる。話しだしたら懐かしくてつい止まらなくなってしまった。
「いや、君が大切に育てられたことがよくわかったよ。そういえばお義父さんは優しそうな人だったな」
 圭一郎が穏やかに微笑んだ。
「でもそれなら、君が家を出た後、庭の手入れをする人がいなくなるんじゃないか?」
「……それは」
 澪は答えられずに口籠る。
 結婚して家を出るにあたって澪が一番気にしていたところだった。
「……そういうことになりますが……これからは、父がやると思います。手入れを記録したノートがありますから。なんとかしてくれなくちゃ、なんといっても専門家なんですから」
 わざと明るく澪は言う。
 そうでもしないと暗い気持ちになってしまいそうだったからだ。
 きっと父はやらないだろう。母のやり方をそのままにしておきたいから。澪にはそれがわかっていた。
 そしてきっと庭は荒れてゆく。悲しいけれどどうにもならないことだった。
 圭一郎が、少し考えるように視線を落とし、また澪を見て口を開いた。
「君が時々家に帰って続けたらどうだ? マンションからは少し距離があるけど、通えないほどじゃない」
「え? ……い、いいんですか?」
「もちろんだ。それだけ大切にしていた庭なら、君が手入れを続ける方がいいだろう。お義父さんもひとり暮らしは心細いだろうし、顔を見せる意味でも一石二鳥じゃないか」
 思いがけない提案だった。
 伯父からは、結婚したら実家とは縁を切るつもりでいろと言われた。もちろん父が父だということには変わりはないが、しがない植物学者に向坂家との付き合いは無理だというわけだ。
 婚家との付き合いは、父親代わりという設定の伯父がやる。令嬢でないことがバレないように、よほどのことがない限り実家には帰るなと厳命されている。
「通いにくいようなら、もう少し君の実家寄りに引っ越してもいい。もちろんすぐにとはいかないが……」
「い、いえ、そこまでは……!」
 澪はもう仕事をしていないし、これからもする予定はない。時間はたっぷりあるのだから、そこまでしてもらう必要はない。それよりもなにより、庭の手入れを続けてよいと言われただけで十分だった。
「あの……本当にいいんですか?」
「ああ、もちろん」
 こともなげに彼は言う。
 澪の視界がじわりと滲んだ。
「……ありがとうございます」
 こんなことで泣いてしまうなんて、情けない、と自分でも思う。でも涙は止まらなかった。
 理不尽な見合い話を言いつけられて無理やり仕事をやめさせられてから、今この時まで、つらくとも澪は泣くことはしなかった。嘆くなんて意味がない乗り越えろと、自分自身に言い聞かせて。
 でも自分のことはともかくとして、父のことは心配だった。
 思い出が詰まったあの家を守れたことはよかったが、父をひとり残してゆくことが心配でたまらなかったのだ。
 まさかそれをこんなに簡単に取り除いてもらえるなんて。
 澪の胸が温かい感謝の気持ちでいっぱいになっていく。
 きっと彼にとっては些細なことなのだろう。日中、忙しくする間、家にいる妻がなにをしていようがあまり関係ない。
 でも澪にとってはとても大事なことだった。
「すみません……」
 突然泣き出してしまったことを詫び、一生懸命に涙を止めようとするけれど、全然うまくいかなかった。張り詰めていた細い糸が切れたように、あとからあとから涙は溢れる。
「いや……いいよ」
 圭一郎が咳払いをして首を振る。そして静かな眼差しで澪を見ている。
 無理やり押し付けられた結婚は、澪の意思はなにひとつ反映されないままに走り出した。きっとこれからもこんなことの連続で、我慢を強いられることも多いのだろう。
 ……それでも、少なくとも相手になる人が彼でよかった。
 澪は心からそう思った。
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