仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
ハイキング
 塩の効いた真っ白なおにぎりにぱくりとかぶりつきもぐもぐとして澪は思わず笑顔になる。午前中いっぱい森の中をたっぷり歩いて、お腹はぺこぺこだから特別に美味しく感じられた。
 背の高い木々の間から白線のような真っ直ぐな光がいくつもいくつも差しているみずみずしい空気に満ちた原生林の東屋で、澪は圭一郎とふたりベンチに座り、ホテルが用意してくれた弁当を広げている。
 海苔を巻いたおにぎりと、唐揚げ、インゲンの胡麻和え、卵焼きというシンプルなメニューだが、どれもこれも美味しかった。
「外で食べるとどうしてこんなに美味しく感じるだろ」
 そうひとり言を言って唐揚げを食べようと口を開く。そこで圭一郎と目があって、澪は慌てて口を閉じた。
 彼はどこか楽しげに澪のことを見つめていたからだ。またなにかやらかしてしまったのだろうか。
 結婚式を終えてからここまでで、すでに澪は何回もお嬢さまらしくない言動をしてしまっている。そのたびに彼は、おかしそうに笑うのだ。
 まさかそれだけで、澪が本物のお嬢さまではないとバレているわけではないだろうが、随分変わったお嬢さまだと思われているのは確かだ。今もまたなにかおかしなことを言うんじゃないかと思われているのかもしれない。
 余計なことは言わないことにして、澪はもくもくと弁当を口に運んだ。
「こんなに歩いたのは久しぶりだな」
 あっという間に自分の分を食べ終えて、圭一郎が気持ちよさそうに森を見上げる。その横顔に澪の胸がどきんと跳ねた。木漏れ日に透ける黒い髪が、とても綺麗だった。
 今日の彼は、昨日買った紺色のウインドブレーカーとスニーカーという森を散策するのに最適なラフな服装だ。結婚式や見合いの日のスーツ姿とは違うけれど、やっぱりとても素敵だった。
 もともと素敵な人はどんな服を着ていてもカッコいいんだろう、とそこまで澪は考えて、そんな自分にハッとする。
 彼のことをいつのまにこんな風に思うようになったのだろう。
「それにしても君があんなに植物にくわしいなんて意外だったよ。好きだとは聞いていたけど、専門的な知識もあるみたいじゃないか。ガイドも驚いていた」
 圭一郎が澪に視線を移す。
「そんなことは……昨日の午前中に、予習してたんです。ホテルの方がここの森の植物についての本を貸して下さって。ここでしか見られない種類のつゆ草を見つられたので嬉しかったです」
 圭一郎が微笑んだ。
「それはよかった」
 その笑顔に澪の鼓動はとくとくとくとスピードをあげていく。頬が熱くなるのを感じて、澪は彼から視線を逸らした。顔が赤くなっているのを、気付かれないといいけれど。
 それにしても彼のちょっとした言動に、どうしてこんなにも身体が反応してしまうのだろう。
 内心で動揺しているのをごまかそうと、弁当に視線を落としたまま、澪は別の話題を振る。
「わ、私の方も意外でした。その……圭一郎さんがこんなによく笑う人だなんて。お見合いの時は、ちょっと怖い人なのかもしれないって思ったくらいだから」
 あの時の彼は一応微笑んではいたが、目は全然笑っていなかった。澪は、こんな人と夫婦としてやっていけるだろうかと不安になったのだ。
 でも今の彼は、本当によく笑うというのが澪の感想だ。
 ここまでくる間も、立ち止まり花の写真を撮る澪を柔らかな笑顔で見守っていた。
『何枚撮るんだ?』
 そんなことを、からかうように言いながら。
 お嬢さまとしては少し外れた澪の言動に、吹き出して肩を揺らしている様子は、心底おかしそうに見える。
「私が変なことばっかり言ったりしたからかもしれないですけど……」
 そう言って澪は目を上げる。彼を見ると、圭一郎は眉を寄せ、少し怪訝な表情になっていた。
「あの……圭一郎さん?」
 その彼の様子にいけないことを言っただろうかと心配になって呼びかけると、彼は空咳をして澪から目を逸らした。
「……いや、なんでもない」
 その時、ふたりがお弁当を食べ終えたのを見計らったようにガイドが、東屋の方へやってきた。
「休憩できましたか? 午後からも少し歩きますよ」
 圭一郎が気を取り直したように彼に答えた。
「大丈夫です。腹ごしらえもしましたし」
「それはよかった。それにしても天気がよくてよかったですね。明日からもしばらく崩れないようですから、いい時期に来られました。ちなみに明日もどこかへ行かれるんですか?」
 ガイドからの問いかけに、圭一郎が答える。
「ワインの醸造所の見学に行こうと思っています」
「え?」
 澪は思わず声をあげて、すぐに圭一郎に睨まれて口を閉じる。でも頭の中には大きなハテナが浮かんでいた。
 確かに明日澪は醸造所見学に行くことになっている。朝食の時にコンシェルジュに尋ねられて、そうすることに決めたのだ。でも、ひとりで行くつもりだったのに……まさか明日も彼は、一緒に行くつもりなのだろうか。
 醸造所は少し離れたところにあるから、見学は一日がかりになる。
 だって……仕事は?
「醸造所ではワインのラベルにおふたりの名前と記念の日付を入れてもらうことができるんですよ。お土産に人気です。ワインはお好きですか?」
「ええ、だから楽しみなんですよ。ただ車で行くので試飲ができないのが残念ですが」
 圭一郎がにこやかにガイドに答えている。
 と、いうことはやっぱり彼は一緒に行くつもりなのだ。朝食時のコンシェルジュの前ではそんな素振りはなかったから、とにかく予想外のひと言だった。
 でも思い返してみれば、そもそもこのハイキングだってまさか一緒に来ることなるとは思っていなかったのだ。アウトドア用品の店で彼が、自分の分を選ぶと言った時も、澪はさっきみたいに驚いてしまい今のように睨まれた。
 もちろん彼と一緒に行動するのが、嫌だというわけではないけれど……。
 この旅行、バラバラに別々で過ごすものだと思っていたけれど、なんだか少し違うようだ。そんなことを考えながら澪は弁当の蓋を閉じた。
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