仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
愛のはじまり
 ホテルの書斎の椅子に座り、圭一郎はノートパソコンの画面を睨んでいる。湖畔への散歩から帰ってきた後、荷造りをしながら確認してみると渡辺からメールが入っていたのだ。内容は澪の調査結果についてだった。
 もちろん圭一郎が彼に追加の調査を指示してから一週間と経っていないから、その分の報告が上がってきたわけではない。はじめの調査結果に補足としてついていた資料だ。
 前回は澪の出生について注目していたから関係がないと判断し圭一郎に渡さなかった部分のようで、五菱銀行の役員として名を連ねている坪井一族の相関関係が書かれている。
《追加の調査依頼をする前に、こちらでなにかわかることがあるのではと精査してみました》とある。そして報告すべき点を見つけたからこうしてメールをしてきたというわけだ。
 資料によると、澪の父親の坪井治彦は、康彦に多額の借金をしているようだ。坪井本家の元家政婦が澪の学費を工面するために、本家を訪れる治彦を何度か目撃している。詳しい額まではわからないが、大学の研究員としてのおよその年収と、澪が通っていた学水院の学費及び納めるべき寄付金の額を比較すると相当な額にのぼると予想されるとある。
《ですが、これだけでは根拠としては弱いと思います》と、渡辺はメールの中で書いている。
 曰く、治彦には自身名義の自宅がある。場所もよく、広さもあるから建物はともかくとして土地は相当な高値で売れるはず。借金を返済するには十分な金額になるという。
《ほかにもなにかないか、追加で調査を依頼中です。またなにかわかりましたらご連絡いたします》
 渡辺はそう締め括っている。
 意に染まぬ結婚を受けるには、返済可能な借金では弱いと彼は言う。
 だが——。
 これだ、と圭一郎は確信する。
 結婚式の次の日に、実家の庭がどれだけ大切なのかを圭一郎は直接澪の口から聞いている。この一週間でも彼女は折に触れて実家の庭の話をしていた。
 夏は縁側を吹き抜ける風が気持ちいいこと。
 落ち葉が積もる秋の庭をサクサクと音を鳴らして歩くのが好きなこと。
 いい庭を作るためには冬の土づくりが大切なこと……。
 康彦からの借金は自宅を売れば返済できたかもしれないが、実家の庭をなによりも大切に思っている彼女にそれはできなかったのだろう。
 あの日の朝の彼女の涙を思い出し、圭一郎はぎりりと奥歯を噛み締めた。
 取引の相手としか見ていなかった坪井康彦に対して、気持ちの悪い怒りの感情が腹の底から沸き起こるのを感じていた。彼は会社のために澪に犠牲を強いたのだ。
 人を人とも思わない冷血な男。
 だが澪からみれば、圭一郎もまた同じなのだろう。見合いの日、自社の利益を守るためなにがなんでも結婚を継続させると彼女に宣言をした。
 亡くなった母親と血のつながりのない父親、大切な家族の思い出をなんとしても守りたいという彼女の心を利用したのだ。
 圭一郎は天井を仰ぎ目を閉じる。
 今まで経験したことのない胸の痛みを感じていた。
 前回の調査結果によると、澪はもともと文具メーカーに勤めていたという。入社してからの三年間でちゃくちゃくと力をつけて戦力にもなっていた。周囲の評判もよかったという。だがそれもおそらくは無理やりやめさせられたのだ。坪井家の令嬢のフリをするために。
 圭一郎は自分自身に問いかける。
 この結婚の裏事情を知った今、自分はどうすべきなのだろう。
 ——なるべく早く、彼女を解き放つよう努力するべきか。
 五菱との取引に反対しているとはいえ、両者の関係が軌道に乗ってしまえば、祖父とて途中でやめろとは言わないだろう。それまで待って……だが。
『圭一郎さんがこんなに笑う人だなんて』
 森で、澪に言われたことが頭に浮ぶ。あの時、圭一郎はその言葉に衝撃を受け、返事をすることができなかった。今までの恋人たちに言われたのとは真逆の内容だったからだ。
『圭一郎って、いつも難しい顔をしてるのね。笑ってるところを見たことがない気がする』
 いつもそう言われてきた。
 あたりまえだ、へらへら笑っている暇などない。常に業務のことを気にかけていなくてはならない立場にいるのだから。
 でもこの旅行では……。
 ——心からリラックスできているということか。
 確かに彼女を見ていると自然と笑みが浮かんでくる。一生懸命にお嬢さまのフリをする彼女が、可愛らしくおかしかったからだ。いったい次はなにをやらかすのかと思うと目が離せなくなっていた。
 森をゆっくり歩きながら気になる草花を見つけては嬉しそうに写真を撮る彼女の横顔を見るうちに、圭一郎は次の日の醸造所見学も一緒に行こうと心に決めた。そして、そんなことを繰り返しているうちに結局すべての日程をふたりで一緒に過ごしたのだ。
 そして夜は、普段の不眠が嘘のように同じベッドでぐっすりと眠った。
 押し付けられた結婚から澪を解放する。すなわちそれは、このような時間を手放すということだ……。
 圭一郎は、もやもやとした思いを抱いたままノートパソコンをパタンと閉じる。そこでリビングから物音がすることに気がついて立ち上がった。行ってみると、澪がバスルームから出てきていた。
 濡れた髪を拭きながらバックになにかをしまっている。
「……荷造りは済んだのか?」
 尋ねると、こちらを見てにっこりとした。
「はい。でもカバンがパンパンで。どうして旅行の時って、帰る時はこんなに荷物が多くなるんだろう?」
 口を尖らせながら、一生懸命カバンのチャックを閉めようとする姿に、圭一郎の胸は締め付けられるように切なくなった。
「土産をたくさん買うからだ。ガラス工房で」
 ガラス細工工房で彼女は箸置きやグラスを買っていた。ひとつひとつじっくりと見て真剣に悩む姿が可愛かった。
 そのことについてからかうと、彼女は頬を膨らませた。
「け、圭一郎さんが服をたくさん買ったからです! あんなに何枚もいらなかったのに……」
 そこまで言いかけて慌てて口を閉じている。
 アウトドア用品の店で、あっちもいいしこっちもいいと悩む澪の服を、まとめて全部買ってやった圭一郎の行動について言ってるのだ。
「ああいう服は、何枚あってもいいじゃないか」
 言いながら圭一郎は歩み寄り、澪を腕の中に閉じ込める。彼女の無垢を思わせる清潔なシャンプーの香りに、圭一郎の中のなにかに火がついた。
「それにガーデニングにも最適だ」
 真っ赤に染まる小さな耳に囁くと、澪が身体を震わせる。
「で、でも……ガーデニングにはちょっと高級すぎ……んっ!」
 そのまま首筋を唇で辿ると、彼女は甘い吐息を漏らし、腕の中で溶けてゆく。
 力の抜けた身体を支え、大きなソファに寝かせると潤んだ瞳が熱を帯びる。その視線に誘われるように口づけた。
 ……そのまま、中を味わった。
 はじめとは比べものにならないくらいの素直な彼女の反応に、圭一郎自身夢中になっていく。
 澪にすべてを教え込んだのは自分なのだ。今さら手放すつもりはない。
 腹の中で凶暴な思いが暴れ出す。
 この新婚旅行中、圭一郎は毎晩何度も彼女を抱いた。当初の予定では、まだ手を出さないと決めていたことも忘れて。
 手離せないと、心から思う。
 真実を知った今、解放してやるのが正義だとわかっていても、どうしてもできそうになかった。
 ……この気持ちの正体に、圭一郎はもう気づいている。
 それは、自分とはまったく関係なかったはずの感情だ。
「澪、口を開けて……そう、上手だ」
 素直に従う彼女の服を、圭一郎は脱がしていく。
「あ、圭一郎さん……待って」
 澪が、恥ずかしがって身をよじる。
 でも手を止めることはしなかった。シャワーを浴びたばかりのやわらかな肌に口づけて、自分の跡(しるし)をつけてゆく。
「……嫌か?」
 形だけの確認に、澪が唇を噛み首を振る。
「そうじゃないけど、私、シャワーを浴びたばかりなのに……」
「ああ。すごくいい匂いがする」
 本当に予想もしていなかった。自分がこんなにもひとりの女性に溺れるなんて。こんな感情になるなんて。
 だがこうなったら、もう腹を括るしかない。
 望まない結婚だとしても、幸せになりたいと彼女は言った。
 手離せない。
 ならば自分は全力で彼女の望みを叶えよう、持てる力すべてをかけて。
 それが、彼女を愛しはじめた圭一郎が出した答えだった。
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