仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
琴音の脅迫
 戸籍上、又従姉妹にあたる坪井琴音が澪の前に現れたのは、妊娠がわかってから二週間後のことだった。産婦人科への健診へ行った帰り道、自宅マンションのエントランスで声をかけられたのだ。
「澪」
 派手な髪色にファーのマフラー、黒いロングコートの見るからに気の強そうな女性を、はじめ澪は彼女だとわからなかった。最後に彼女と会ったのは大学の卒業式だったからあたりまえかもしれない。でもそれにしてもガラリと印象が変わっている。
 学水院の同級生の中でも、家柄と財力で抜きん出た存在だった彼女は、中身はともかくとして、見た目は清楚なお嬢さまらしくしていたはず。でも今は、名乗られないとわからないくらいに派手な印象だった。
「……琴音?」
 訝しみながら澪は尋ねる。
 琴音がくすくすと笑った。
「なぁに? 幽霊にでも会ったみたい」
 実際、気持ちとしてはそんな感じだ。伯父から行方不明だと聞いていた人物が、突然登場したのだから。しかも澪の新居の前でなんて、偶然ではないだろう。待ち伏せされていたのかと思うと気持ち悪かった。
「どうしてここがわかったの?」
 警戒しつつ澪は尋ねる。反射的にお腹に手をあてた。
 彼女には学生時代散々嫌がらせを受けてきた。今さら少しくらいなにか言われたところで平気でいられる自信はあるが、お腹にいる小さな命に危害が加わるのは嫌だった。
 琴音が肩をすくめた。
「あんた私を誰だと思っているの? 坪井本家のひとり娘よ? 情報を流してくれる人はいくらでもいるわ」
「……伯父さまには会ったの? 随分探しておられたけど」
 その質問に、琴音は眉を上げただけで答えなかった。代わりに顎でエントランスを指し示す。
「早く開けてよ、中にロビーがあるんでしょう。寒いじゃない」
 彼女の言う通り、マンションの一階はカフェのようにソファとテーブルが並べられている場所がある。プライベートエリアに入らなくても来客対応ができるようになっているのだ。彼女はそこへ通せと言っている。と、いうことはやはり待ち伏せしてでも澪に話したいことがあるのだ。
 本当は嫌だった。澪の方は彼女と話すことなどなにもない。でもお引き取りくださいと丁寧に頼んだところでその通りにしてくれる相手でないのは確かだ。
 ため息をついて、澪は鞄からカードキーを出す。少なくともコンシェルジュのいるロビーなら、それほどひどいことはされないだろう。
 中に入ると琴音はカツカツと靴を慣らして窓際のソファに腰を下ろす。腕を組んで、向かいに座った澪の、頭のてっぺんから足先までチェックする。そして鼻を鳴らした。
「すっかりセレブ気取りじゃない。庶民のくせに!」
 澪の服装について言っているのだ。
 澪自身は贅沢が好きというわけではないけれど、なるべくそれなりの物を身につけるようにしている。
 なんといってもここは向坂自動車を中心として成り立つ街、圭一郎はその辺りの芸能人よりも知られている顔で、澪はいつなんのタイミングで彼の妻だとバレるかもわからないのだ。
 万が一にでも彼に恥をかかせないようにしなくてはならない。
「……海外にいるって聞いてたけど」
 彼女からの挑発に、澪ははぐらかすような言葉を口にする。売られた喧嘩を買うつもりはない。
 すると彼女はなぜか一瞬、忌々しそうな表情になる。そして、舌打ちをしてから口を開いた。
「ドイツであんたの旦那を見たの。それでそういえばあんたに結婚のお祝いを言ってなかったなーて思い出したのよ」
 澪は目を見開いた。では彼女はドイツにいたというわけか。
「……圭一郎さんに会ったの?」
 琴音が肩をすくめた。
「テレビで見たのよ」
「テレビで……?」
「そう。向こうは今、向坂自動車の話題でもちきりよ。リコールとかなんとか……。難しいことはわからないけど、日本から向坂自動車の若い副社長がやってきて議会で説明をしたとか言ってたわ。その評判がすごくよくて、ジパングから来た黒い騎士なんて呼ばれて、新聞にも載ったりして」
 日本でも多少ニュースにはなっていたけれど、現地ではもっと注目度が高かったのだ。
 琴音がにっこりとして嫌味な言葉を口にする。
「とっても素敵な人じゃない。あんたにはもったいないくらい。まぁでも私が譲ってあげてなきゃ、絶対に結婚できる相手じゃなかったんだから、あたりまえといえばあたりまえか。お礼を言ってもらわないと」
 勝手すぎる言い分だが、あながち間違いではない。彼女が見合いから逃げていなければ、澪は圭一郎と会うことすらなかっただろう。
「……いろいろあったけど、今はなんとかやってる。だから安心して」
 曖昧に澪は言う。
 さすがに、ありがとうとは言えなかった。見合いを強要された時に、伯父から浴びせられた屈辱的な言葉をまだ忘れてはいない。結果がよければそれでいいとすべて水に流せるほど澪はできた人間ではない。
 一方で、彼女の言動に得体の知れない胸騒ぎを覚えていた。
 だって、本当にそれだけを言うために帰国したとは考えられなかった。
 案の定、琴音は忌々しげに澪を睨み「許せない」と呟いた。
「……え?」
「あんただけ、幸せになるなんて許せないって言ったのよ」
 そして不気味な笑みを浮かべて身を乗り出し、内緒話をするように、わざとらしく囁くような声を出した。
「ねえ、"あのこと"あんたの旦那は知ってるの?」
 澪の胸がどきりとする。
 あのことがなにを指すのかわからないほと馬鹿ではない。学生時代からずっとことあるごとに澪を攻撃し続けてきた彼女の一番大好きな部分だ。
 とはいえ、すぐに認めるのは嫌だった。こちらもわざとらしく首を傾げてみせた。
「なんのこと?」
「とぼけないでよ。あんたが本当は坪井家となんの関係もない偽物だってことよ。きっとパパのことだから、黙ってろって言ったんでしょう! あたりまえよね? そんなこと知ったら相手は絶対にあんたと結婚しなかったでしょうし」
"絶対に"の部分に、力を込めて琴音は言う。澪の胸がずきんという音を立てた。
 ひと言も言い返せなかった。
 澪が本当は、坪井家の血を引いていないと結婚前に圭一郎が知っていたら、この結婚は成立しなかった。
「妻に裏切られていたなんて、圭一郎さんだっけ? かわいそう……。私、一度は結婚する予定だった仲なんだもの胸が痛むわ」
 心底愉快そうに彼女は言う。そして可憐に首を傾げる。
「私からおしえてあげようかな?」
「……なに言ってるの?」
 眉を寄せて、澪は精一杯琴音を睨む。
 彼女がわざわざドイツから帰国してまで澪に会いにきた理由はこれだったのだと思いあたる。
 彼女は、澪の結婚を潰そうとしている。
「そんなことして、結婚がダメになったら困るのは伯父さまなのよ?」
 冷たい汗が背中を伝うのを感じながら、澪は一生懸命どうすれば彼女を止められるのかを考えた。
「伯父さまの銀行と彼の会社の関係改善のための結婚なんだから」
 でも。
「はっ! ……どうでもいいわ、そんなこと。いい? 澪。私はあんたが幸せになるのが許せないって言ってるの。パパの銀行のことなんかに興味はない」
 一片の迷いもなく吐き捨てるように言い放つ。
 小手先の言葉は通用しないと澪は思う。お腹に手をあてて、少し心を落ち着けてから口を開いた。
「そう、わかった」
 琴音が、澪を見る目を細めた。
「彼にバラしたいなら、そうすればいい」
 どのみち、彼が帰ってきたら自分から言うつもりだったのだ。少しだけ時期が早まったにすぎない。
 彼女が帰ったらすぐにでもコンタクトを取ってみよう。
 電話やメッセージでは伝えるにしては重たすぎる事情だけれど、彼女に言われるよりはマシだろう。
 琴音が面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「"私たち愛し合っているんだから。そんなことでダメにならないわ"って? ……くだらない」
 そして、腕を組み少し考えてから、口を開く。
「ねえ、あの娘、覚えてる?」
 そして彼女は、ある同級生の名前を口にした。
 澪は無言で頷いた。顔までは思い出せないけど、たくさんいる琴音の取り巻きのひとりだったような。
「彼女、苗字は違うけど向坂家の遠縁にあたるの。今も関連会社で秘書をしてるのよ。だからあちらの内情に詳しいの」
 そこで一旦言葉を切ってふふふと不敵な笑みを浮かべた。
「彼女によると、向坂家ってうちと同じくらい親戚同士ドロドロしてるんだって。会社でのポジションを争って常に足の引っ張り合い。あんたの旦那、正式な後継者ってわけでもないみたいよ」
 少し意外な話だった。伯父は彼は後継者だと決まっているような口ぶりだったのに。
 けれど一方でだからなんだ、とも思う。正式に決まってはいなくてもいずれはそうなるのだろう。見合いの日に彼が見せた澄んだ瞳と強いリーダーとしての覚悟は、澪を強く惹きつけた。彼のような人物が組織に何人もいるはずがない。
「ふふふ、まだ本決まりじゃない人の結婚相手が名家の娘どころか偽物だったってことがバレたら、赤っ恥じゃない? 後継者候補から外れるかも」
「まさか」
 澪は呟いた。
 でもそう言われてみれば、彼だけじゃなく彼の父と祖父にまで澪の秘密を知られるのは、確かにまずいかもしれない。
「……でもさすがにそれだけで仕事にまで影響しないよ」
 恥ずかしいというならば、離婚すればいいだけだ。
「さぁ、それはどうかしら?」
 琴音がわざとらしく首を傾げた。
「彼女の従兄弟にね、政治家の娘と結婚してた人がいるんだけど、その政治家が選挙に落ちただけで、降格になったって話もあるくらいなのよ。ひどい話よね? まぁでも確かにどうなるか、わからないといえばわからないわよね。ふふふ、試してみようか?」
「やめて!」
 反射的に澪は声をあげる。自分のせいで圭一郎の立場が危うくなるなんて、そんなの絶対に嫌だった。
「そんなことしないで!」
 澪の剣幕に、琴音が吹き出してくすくすと笑い出した。心底嬉しそうである。
 その彼女に澪は悲痛な思いで問いかけた。
「ねぇ、どうしてそんなこと言うの? 彼との結婚が嫌だって逃げ出したのは琴音でしょう? 私は代わりに結婚したのよ。なのに……」
 今さらこの結婚に嫌がらせをされる言われはないはずだ。
「私が琴音になにをしたっていうのよ!」
 ほとんど叫ぶように澪が言うと、彼女はぴたりと笑うのをやめる。そして憎悪の目で澪を見た。
「私、あんたが嫌いなの。あんたが幸せになるのが嫌なのよ」
 澪は絶望的な気持ちになる。なぜ自分がここまで彼女に恨まれているのか理由はまったく不明だが、理屈で訴えても無理そうだ。
「まずはそのセレブ生活から突き落とされるあんたが見たい。……家を出て」
「家をって……なに言ってるの?」
「言葉の通りよ。偽物なのにセレブ生活してるなんてルール違反でしょう? なるべくボロいアパートへ引っ越して」
 そう言って彼女は立ち上がり、澪を見下ろした。
「じゃないとあんたが偽物だってこと、向坂家の別の取締役にリークするから」
「で、でも、家を出るって理由もないのに」
「理由なんていくらでも作ればいいじゃない。旦那が長期出張なんだもの。その間に、元カレと浮気したとでも言いなさい」
 無茶苦茶なことを言う。澪はもう返事もできなかった。
「いい? 期限はあんたの旦那がドイツから帰ってくるまで。それまでに荷物をまとめてボロアパートに引っ越して。じゃないとあんたの秘密、暴露してやるから。ふふふ、夫婦の感動の再会は、永遠にお預けよ」
 捨てゼリフを吐いて、琴音はくるりと踵を返し、カツカツと靴音を鳴らしてエントランスを出ていった。
 残された澪はお腹に手をあてたまま、しばらく動くことができなかった。
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