仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
アパートにて
 ——寒い。
 毛布の中でうずくまっていた澪はそう感じて薄く目を開ける。エアコンはついているはずなのに手足が冷えてつらかった。
 ベッドに入った時は、まだ昼間だったと思うのに、もう部屋の中は薄暗い。どれだけ寝ていたのだろう。
 今日一日を澪はベッドの中で過ごした。
 これがつわりというものなのだろうか。とにかく眠くてたまらないという状況が続いている。
 圭一郎のマンションを出て二週間が過ぎた。それから今日にいたるまで伯父が準備した古いアパートの一室で朝も夜もなくひたすら眠り続ける日々だ。あまり買い物なども行けないから、父が何日かに一度コンビニで買ってくる食料が頼りだった。
 父は、明らかに体調が悪いのに病気ではないと言いはる澪を心配して何度も病院へ行けと言う。それに澪は曖昧に答えていた。
 今はまだ妊娠を知られるわけにいかない。知られてしまったら父は圭一郎に連絡を取り澪の居場所をおしえてしまうからだ。
 父が持ってきた物の中から食べられるものを食べて、また眠る。そんなことを繰り返すうちに澪の頭はある考えに支配されてゆく。
 ……このまま、消えてなくなりたい。
 お腹の中の小さな命には申し訳ないけれど、もうなにかを頑張れる気力は自分にはない。
 どんな困難も笑顔でいれば乗り切れるという母の魔法もまったく効かなかった。
 圭一郎の迷惑になりたくない、その一心でマンションを出たけれど……。
「寒い……圭一郎さん」
 ほとんど無意識のうちに澪は彼の名を口にして、紺色のウインドブレーカーにくるまった。
 新婚旅行で圭一郎がハイキングの際に着ていたものだ。
 これを澪は秋の庭仕事でよく借りていたのだ。サイズは随分と大きいけれどだからこそお尻まですっぽりと包み込んでくれるから暖かくて重宝した。そしたらそれを知った圭一郎が、じゃあそれはあげるよと言ってくれたのだ。
 結婚してから彼に買ってもらった物はすべて自分がもらう資格はないからと、マンションに置いてきたけれど、このウインドウブレーカーだけは持ってきた。
 これから先、どうなるかまったく先が見えずに心細くてたまらなかったから。
 ウインドウブレーカーにくるまって、澪はまた目を閉じる。もうとっくに彼の香りはしないけれど、それでもこうしていると身体の震えが少しだけ収まるような気がした。
「圭一郎さん……」
 澪がまた呟いた、その時。
 ピンポンと玄関のチャイムが鳴る。澪は目を開き首を傾げた。
 誰だろう?
 このアパートに澪がいることを知っているのは父と伯父だけだ。
 父なら事前に連絡が入るはずだし、伯父が来るはずはないし……。
 ベッドに寝転んだまま澪がドアを見つめていると、またピンポンと鳴る。そして薄いドアの向こう側から、呼びかける声がした。
「澪、いるんだろう? 開けてくれ。俺だ」
 聞き覚えのあるその声に、澪の胸がどきんと大きな音を立てる。絶対に聞き間違えるはずがない、澪が今一番会いたくて、でも会ってはいけない男性だ。
「澪、いるんだろう?」
 圭一郎がもう一度、今度は少し大きな声で澪を呼ぶ。玄関横のガラス窓から中の灯りが漏れてしまっている。居留守を使うのは無理そうだ。
「澪! お願いだ、出てきてくれ」
 聞いたこともない切羽詰まったような彼の声音に、澪の胸は切なくなる。でも出ていくわけにはいかなかった。どうして彼がこの場所を知っているのかは不明だが、出ていかなければ勘違いだったとなるだろう。
「出てくるまで、ここで待ってるからな。一晩中でも」
 その言葉に、澪の胸がどきりとした。どう考えてもそれはまずい。彼はこの街ではよく知られている顔で、道ゆく人が、彼の会社の社員だという可能性もあるくらいだ。プライベートでも振る舞いには気を付けていると以前なにかのタイミングで言っていた。
 古いアパートのドアの前で女性の名前を呼びながら夜を明かすところなんて、誰かに見られるわけにはいかない。
 澪はベッドから下りて玄関のドアをそうっと開ける。すると向こう側から強い力で捕まれてぐいっと大きくドアが開いた。その先に、圭一郎が立っていた。
「澪、心配したんだ!」
 途端に大きくて温かな腕に包まれる。久しぶりの彼の香りと耳元に感じる熱い息に、澪の視界が滲んでいく。
 心と身体、爪の先から髪の毛にいたるまで澪のすべてが彼を求めているのを強く感じる。心配なんてしてもらう資格は、自分にはないのに、こんな風にされたら決心が鈍ってしまう。
 このままずっと彼の腕の中にいたいと願いたくなってしまう。
 胸の痛みを堪えながら、澪は彼の胸をそっと押す。
「圭一郎さん、私……」
 でもその時、アパートの外階段をカツンカツンと誰かが上ってくる音が聞こえてハッとする。
「と、とにかく中へ」
 慌てて彼の手を引いた。
 玄関を入ってすぐのところにあるキッチンとその向こうのユニットバス。ガラス戸で仕切られただけのリビング兼寝室がひと部屋だけの狭いアパートで、澪は圭一郎と向かい合っている。
 彼は会社から直接来たようなスーツ姿だった。
 どうしてここがわかったのかと尋ねようとして口を閉じる。あまり意味のない質問だと思ったからだ。
 ここは、本社からもマンションからも近い。彼がその気になればすぐに見つかってしまうのは明白だ。
 本当は、なるべく遠くに住む方がいいのはわかっていたけれど、今の体調で通っている産院から離れる勇気がなかったのだ。
「……澪、なにがあった?」
 部屋に入り圭一郎は、少し冷静さを取り戻したようだ。低い声で問いかける。
「携帯に送った通りです。私、圭一郎さんの妻失格です」
 うつむいて固い声で澪は答える。
 でも圭一郎はそれで納得しなかった。
「嘘だろう。あんなこと信じられるわけがない」
「本当です。圭一郎さんがドイツに行っている間に、以前付き合っていた彼から連絡があって、それで私……」
 早口で、ありもしないストーリーを口にすると、それを圭一郎が一蹴した。
「キスより先には進めなかった恋人と?」
「つっ……! それは……」
「澪」
 圭一郎が澪の両肩をガシッと掴み揺さぶった。
「俺は君を愛してる。君を信じている。君が家を出ていったのはなにか理由があるはずだ」
 そこで彼は言葉を切って、唇を噛む。そして思い切ったようにまた口を開きかけて、テーブルの上に置きっぱなしになっているある物に目を停めた。
「あれは……?」
 つられるように視線を移し、澪はハッとしてそれを手に取り隠そうとする。でも素早く動いた圭一郎に取り上げられてしまい叶わなかった。
「澪、これ……?」
 母子手帳だった。
 数日前に検診へ行った後、テーブルの上に置きそのままになっていたのだ。表紙には澪の名前が書いてある。
 うかつだった。でもまさか彼が家に来るなんて思わなかったのだから仕方がない。
 圭一郎が澪をジッと見つめて掠れた声を出した。
「子供が……?」
 ごまかすことなどできなくて、澪はこくんと頷いた。
 その瞬間、温かい腕に包まれる。耳元で圭一郎が苦しげに囁いた。
「言わないでいるつもりだったのか? 俺たちふたりの子なのに」
 その言葉に澪の目から熱い涙が溢れだす。
 そうだ、この小さな命は澪のお腹にいるけれど、紛れもなくふたりの子。ふたりが出会い愛を紡いだ証なのだ。この命の行く末を澪ひとりで決めていいはずがない。
「ごめんなさい……!」
 大きな背中に腕をまわして澪は声をあげて泣いてしまう。
 複雑な事情と、どうにもならない状況にがんじがらめにされて、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 彼と自分ふたりだけが存在する世界に行きたかった。
 取り乱す澪の背中を圭一郎の手が優しく撫で続ける。その感覚に、少しずつ冷静さが戻ってくる。
 彼の胸に手をついて少しだけ身を離し、澪は彼を見上げた。
「圭一郎さん、私……」
 その時、頭の中がくらりとして澪の世界が一瞬歪む。
「澪!」
 身体の力が抜けて崩れ落ちそうになるのを圭一郎に支えられる。そのままベッドに運ばれて寝かされた。
「……そうか、体調がよくなかったのは、妊娠していたからなんだな」
 圭一郎が呟いた。
「病院へ行こう」
 その言葉に澪は首を横に振った。
「大丈夫です。たぶんつわりなんですけど、私の場合はとにかく疲れやすくて眠いんです。食べるより寝てたいくらいだから、朝からなにも食べてなくて……急に動いたから貧血になっただけだと思います」
 そう言うと圭一郎は眉を寄せて深刻な表情になる。
「気分が悪くて、食べられないわけじゃないんだな?」
「……ちょっとそういうのもありますけど、そこまでは……。なんとなく柑橘系のゼリーが食べやすいので父に買ってきてもらって、冷蔵庫に入れてあります」
 すると彼は頷いて、冷凍庫から飲むタイプのゼリーを持ってきた。
「あ、ありがとうございます」
 彼に支えられながら起き上がりゼリーを飲むと、何時間かぶりに食べ物を口にして少し気分がよくなった。
「おいしかった」
 圭一郎がホッとしたように表情を緩めた。
「じゃあ、今日はもう寝て」
 そう言って、布団をめくり中へ入るように促してウインドブレーカーに気がついた。
「これ、俺があげた……?」
 尋ねられて澪の頬が熱くなった。
 ひとりぼっちが寂しくて、彼のウインドブレーカーを抱いて寝ていたのが、よりによって本人にバレてしまった。
「ここ、すごく寒いから……」
 ごまかすようにそう言うとふわりと優しく腕に抱かれた。
「いつでも本物が、抱いてやるのに」
 その言葉にまた涙が溢れそうになってしまう。もともとは泣き虫な方ではないのに、まるで涙腺が故障してしまったみたいだった。
「もうひとりでは寝かせない。これからはずっと俺の腕の中だからな」
「圭一郎さん、でも私……」
 言いかける澪の唇を圭一郎は優しいキスで塞いだ。そして澪を腕に抱いたままベッドに横になる。澪を毛布と自分の身体で包み込んだ。
「とにかく今は君の体調が優先だ。心配ごとは全部俺が解決しておくから、なにも心配せずに眠るんだ。ずっとそばにいるから」
 そんなわけにはいかないと頭の片隅で澪は思う。自分は彼のそばにいるだけで迷惑がかかる存在なのだ。すぐにでも事情を話して帰ってもらわなくては。
 でも大きな手が布団の上から優しくトントンとする感覚に、急激な眠気に襲われる。瞼が鉛のように重かった。
 頬に感じる彼の温もり、彼の香りが澪の思考を鈍らせた。
 ——とにかく今は彼の言う通りにして、難しい話は目が覚めてからにしようかな。あったかくて気持ちいい。
 頭を優しくなでられる感覚に、澪は眠りに落ちていった。
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