仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
消えた澪
「いやーそれにしても、鮮やかなお手並みだった。やはり次の社長は、副社長で決まりだな。半年後の株主総会を待たずして発表があるんじゃないか?」
 向坂自動車本社ビルの副社長室に、専務取締役の上機嫌の声が響く。応接コーナーに向かい合わせに座る圭一郎は明言を避け、代わりにコーヒーをひと口飲んだ。
 彼は向坂家の出身ではないが、父圭介の盟友とも言える存在で、昔から家族ぐるみで親しくしていた。今も若くして向坂自動車の経営に関わる圭一郎に有意義な意見をくれる社になくてはならない存在だ。
「社長も随分とヤキモキしていたようだが、これでひと安心だろう。まさか、リコールを回避できるとは!」
 圭一郎がドイツから帰国して二週間が過ぎた。
 圭一郎のドイツでの功績は日本でも経済界を騒がせた。残務処理をしながらいくつかの新聞社からの取材を受け慌ただしい日々を送っていた圭一郎だが、昨日で少し落ち着いてようやく日常に戻りつつある。
「それで? 会長はなんと言ってる?」
「まだお会いしていません」
 そう言ってコーヒーのカップを置くと、彼は頷いた。
「まぁ、帰国してからお前はずっと忙しかったからな。とはいえ、決まりは決まりだろう。正直言って俺も安心したよ。向坂自動車の次期リーダーは並大抵の器量では務まらん。失礼だが、二番手と言われていた和信常務では……」
 そう言って顔をしかめて首を振った。
「話にならん。ま、何はともあれおつかれさま」
 そう言って彼は立ち上がり、いとまを告げて部屋を出ていこうとする。ドアの前まで来て、見送るために後を追っていた圭一郎を振り返って、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
「そういえば、五菱の新妻とうまくいってるようじゃないか。デレデレだという噂を聞いたぞ」
「……どこからそんな情報を」
 圭一郎が眉を寄せると、相手は愉快そうにはははと笑う。そして圭一郎の肩をポンポンと叩いた。
「お前の家は特殊だから結婚してもちゃんと家庭を築けるかと心配しとったが、大丈夫そうなんで安心したよ。奥さんがいい方なんだろうな」
 小さい頃から圭一郎を見てきた彼は、本当の父親よりも父親らしいことを言って、部屋を出ていった。残された圭一郎は、そのまま応接コーナーの椅子に戻り、髪をぐしゃぐしゃとする。そして深いため息をついた。
 今彼が言った通り、特殊な家庭に育った圭一郎が、人並みの幸せな夫婦関係を築けていたのは、まぎれもなく澪のおかげだ。相手が彼女でなかったら間違いなく自分の両親のような歪な夫婦になっていただろう。
 ……だがその澪は、今圭一郎のマンションにいない。それどころか、連絡の取れない状況が続いていた。
 ドイツから帰国した日に、圭一郎は彼女からメッセージを受け取った。
 圭一郎がドイツへ行っている間に昔の恋人に再会し、圭一郎を裏切ってしまった、申し訳ないから家を出る、離婚届けは置いていくから、仕事に影響のない時期に出してくれ、というものだ。
 そのメッセージの通り家にはすでに彼女の姿はなく、テーブルに記入済みの離婚届けが置かれていた。結婚してから圭一郎が彼女に買ってやったすべての物は服も靴もなにもかもそのままに、彼女の姿だけが消えていたのた。
 すぐさま圭一郎は、彼女の父親と伯父に連絡を取り澪の行方を尋ねたが、今日に至るまで手がかりは掴めていない。そもそもふたりとも多忙を理由に圭一郎と直接話をしようともしない。圭一郎からの追求を恐れているのだろう。
 目を閉じると彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
 胸が締め付けられるように痛かった。
 メッセージの内容は嘘だ、と圭一郎は確信している。
 彼女がこんな形で自分を裏切るなど絶対にあり得ない。なにか事情があるに違いない。
 もしかしたら、養子の件と関係があるのかもしれない。
 だとしたら、その問題は解決してやると伝えたかった。今の自分なら、なにからも彼女を守ってやれる。
 ……だが、会えなくてはどうしようもない。
 圭一郎が暗澹たる思いでもう一度ため息をついた時、ノックの音がして渡辺が入室する。
「失礼します。副社長」
 やや慌てたような様子に圭一郎は首を傾げた。
「どうした?」
「奥さまの居場所がわかりました」
「なに⁉︎」
 唐突にもたらされた朗報に、圭一郎は驚いて立ち上がる。澪の伯父と父親の反応に埒があかないと感じた圭一郎は、彼に澪の行方を探すよう頼んでおいたのだ。
 夫婦のプライベートを曝け出すのは躊躇したが、そもそもふたりの結婚は仕事絡みで彼は裏事情も知っている。背に腹はかえられない。
「澪は、彼女はどこにいる⁉︎ 無事なのか?」
 いつもの冷静さは吹き飛んで余裕なく圭一郎は尋ねる。
 渡辺は頷き、あるアパートの住所とそこを訪れる澪の父親と迎える彼女の写真を差し出した。
「はい、調査担当者はてっきり奥さまの実家近くだと考えていたようですが……」
 アパートの住所はこの街だった。すぐにでも行ける距離にある。
 圭一郎はデスクへ戻り鍵と携帯を手に取った。
「本日はこの後、特に会議等もありませんから、社に戻られなくて大丈夫です。なんならそのまま数日お休みされてもいいですよ。ドイツに行かれてから今日まで副社長は一日もお休みを取られていませんから」
 出口に向かって部屋を横切る圭一郎に、にっこり笑って渡辺が言う。その腹心の部下に向かって、圭一郎は鍵を持つ手を上げた。
「ありがとう! 君は本当に優秀な秘書だ」
「いってらっしゃいませ」
 頭を下げる渡辺を横目に、そのまま部屋を飛び出した。
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