仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
運命の親族会議
 毎年恒例の向坂家の親族会議が開かれたのは、澪が圭一郎のマンションに戻ってから二カ月後のことだった。
 親族の集まりといってもそこは世界的企業の創業者一族である向坂家のこと。夏の株主総会を睨んだ対策会議という意味合いもあるから、都内の老舗ホテルの会議室を貸し切っての格式貼ったものだった。
 つわりも収まり体調が戻った澪は圭一郎とともに出席した。
 あまり気持ちのいいやり取りがあるわけではないから来ない方がいいと彼は言ったが、澪は出席することを希望した。彼の妻としてしっかりと役割を果たしたいと思ったからだ。
 会に先立って澪は一家の長であり向坂自動車会長である向坂宗安に挨拶をした。
「結婚式は出られなくて申し訳なかったね」
 彼は夏風邪をひいていて大事を取って欠席だったのだ。年齢も年齢だから、澪は随分心配したが、会ってみると柔和に微笑む宗安会長は、九十を過ぎているとは思えないほどかくしゃくとしていた。
「いえ、体調が戻られてよかったです」
 澪が言うと、彼はカラカラと笑った。
「圭一郎の子を見るまではくたばるわけにはいかんからな」
 澪が身籠っていることはあらかじめ伝えてあるからそれを受けての言葉だ。澪は頬を染めて頷いた。
「あなたと結婚してから圭一郎の表情が随分と穏やかになった。お礼を言うよ、ありがとう」
「いえ」
 思いがけず優しい言葉をかけられて澪の胸は温かくなる。でも同時にチクリと針で刺したような痛みを感じた。
 こんなにも喜んでくれているのに、澪が実は父の養子だったと知ったらどう思われるだろう?
 養子の件については琴音がリークしなくても、圭一郎を陥れようとするほかの取締役は掴んでいるかもしれないと、圭一郎は言った。けれど結果としてこの二カ月間で特になにか言われることはなかった。
 彼の父親か祖父には伝えておいた方がいいのでは?と澪は提案したのだが、それに圭一郎は首を縦に振らなかった。
『澪とお義父さんにとってはセンシティブな部分だ。あえて言う必要はない』
 その彼の判断を澪はありがたいと思ったけれど。
 普段は小規模な結婚披露宴も行われるという豪華なシャンデリアが下がる中ホールで親族会は表向き和やかに始まった。集まった30人ほどの男女がテーブルを挟み座り談笑しながら食事を楽しむ。真ん中に座る宗安会長の両脇を現社長である向坂圭介とその弟だという人物が囲んでいた。
 澪の向かいに座る圭一郎の従兄弟の向坂和信がさっきからねっとりとした目でこちらを見てくるのが不快だった。
「会長、そろそろ……」
 食事が終わりに近づく頃、圭介が水を向ける。会場が静まり返った。
 宗安がナフキンで口を拭き一同を見回した。
「ああ、そうじゃな。皆よく聞いてくれ。わしももう年じゃ、これから先はいつなんどき、どうなるかもわからん。目の黒いうちに、わしが保有している向坂自動車の株式を次の世代に引き継いでおこうと思う」
 よく通る声で語る宗安の言葉に皆、耳を傾けた。
「次の世代、つまりこれからの向坂自動車を背負って立つ人物じゃ。実力、人望、人柄において圭一郎が相応しいとわしは判断した。圭一郎を正式に後継者に指名する」
 その言葉を、一同特に驚きもなく受け止めた。こうなることは皆予想していたからだ。もちろん圭一郎自身もあらかじめ直接祖父から聞いていた。
「とはいえ、今や向坂自動車は巨大な組織と相成った。圭一郎ひとりでどうにかなるものではない。皆彼をよく支え、会社を発展させ、ひいてはひとりでも多くの社員を幸せにするように。社員は家族じゃぞ」
"社員は家族"という家訓を口にして宗安は話を締めくくる。
 後継者が正式に決まるまでは親族間にどこか緊張したやり取りが続いていたのだという。収まるところに収まったと一同、やや安堵したように頷いた。
 ……一部の者を除いては。
「待ってください、会長」
 異を唱えたのは、和信だった。
「私は承服致しかねます」
 彼の隣の父親だという男性も大きく頷いている。宗安が眉を寄せて彼らに視線を移した。
「圭一郎は確かに優秀です。それは私も認めます。だが彼は会長の知らない秘密を抱えています。その件を黙ったままというのはフェアじゃないでしょう。それを明らかにした上で、もう一度考えるべきです」
 そう言って彼は圭一郎の隣に座る澪を見る。その視線に、テーブルの下の膝に置いた手が震えた。澪が養子だったという件を持ち出しそうとしているのは明白だ。
 でもまさかこのタイミングで?
 血の気が引いて指先が冷たくなっていく。その手を圭一郎がギュッと握った。
 宗安が圭一郎に問いかけた。
「秘密? ……圭一郎、心あたりはあるのか?」
「なんのことでしょう? 私にはやましいことなどありません」
 圭一郎が言い切ると和信は声をあげる。
「嘘をつけ!」
 そして立ち上がり、澪を見た。
「そこにいるお前の妻坪井澪は、五菱銀行の坪井家のご令嬢という触れ込みだが、それは真っ赤な嘘だ! 父親は坪井頭取の従兄弟だがそもそもその父親と血の繋がりはない。養女だろう!」
 突然の暴露に場がざわざわとする。皆驚き、澪をチラチラと見てヒソヒソと言葉を交わしている。和信はさらに続ける。
「坪井頭取とは親子のように親しい間柄だという話だったが、それも嘘だ! そもそも彼女は本家への出入りすら許されていない。圭一郎! つまりお前はスカをつかまされたというわけだ。それなのに夫婦だなどと恥ずかしいとは……」
「口を慎め、和信!」
 圭一郎が鋭く言い放つ。
 和信がびくっとして口を閉じ、その場にびりりと緊張が走った。
「お前、どういうつもりだ? 人の妻を侮辱しておいてただで済むと思うなよ?」
 普段の圭一郎からは想像もつかないほど激昂する姿に、和信が怯みながら言い返す。
「ほほほ本当のことじゃないか。長年の因縁を水に流してもらう代わりに大切な娘を差し出すと五菱の頭取は言ったんだ。そそそれなのに、その娘が養子で、しかも本家にも出入りしていない者だったんだから」
「だからといって、言っていいことと悪いことがあるだろう!」
 圭一郎が立ち上がり、和信を睨む。
「やめなさい、ふたりとも」
 割って入ったのは宗安だった。
「座りなさい」
 一家の長の指示にふたりがたんと音を立てて座る。だが睨み合ったままだった。
 宗安がため息をついて澪を見た。
「澪さん、このような場で失礼なことを。孫に代わりましてお詫びします」
「い、いえ、そんなことは……!」
 思いがけず謝罪されて、澪は弾かれたように頭を下げた。
「あの、私……」
「もし差し支えなければ、事実を話していただけませんか? 中途半端なままでは、いらぬ憶測を呼ぶでしょう。決してあなたに不利なようにはしないから」
 穏やかに尋ねられて、澪は頷いた。
「はい」
「澪、言わなくていい!」
 圭一郎は言うけれど、澪は首を横に振った。
「大丈夫です」
 そして宗安に向かってはっきりと言う。
「和信さんがおっしゃったことは本当です。……黙っていて、申し訳ありませんでした」
「いや、あなたが謝ることはない。あなたの立場ではそうせざるを得んかったんだろうて」
 さすがは名家の長だけあって皆まで言わずとも澪の置かれた境遇くらいは容易に想像がつくのだろう。
「だがそうじゃな……普通なら養子だからと言ってどうということはないが、この場合、五菱側に不誠実な対応をされたということは事実じゃろう。勘違いするなよ。だからといって今さら五菱との関係を切れと言っているわけではない。この間のリコール回避の件では随分とバックアップをしてもらった」
 そこまで言って、宗安は圭一郎に問いかけた。
「して圭一郎、お前はこの件を知っておったのか?」
「はい」
「いつからじゃ?」
「見合いのすぐ後です」
 包み隠さず答える圭一郎に、その場がざわざわとする。結婚前に知っていたのになぜやめなかったのかと囁き合っている。
 宗安も彼のこの回答には驚いたようだ。
「結婚前から知っておったのか?」と聞き返す。
「はい」
「なるほど……」
 呟いて黙り込んだ。
「はっ!」
 和信が笑い出した。
「知っていたのに結婚した? ありえないだろう! 知らずに結婚しただけでも相当な間抜けだと思っていたが、まさか知っていたのにそのまま結婚する愚か者だったとは! 会長、圭一郎はどう考えても後継者に相応しくないと思います!」
「うるさい、和信! お前は黙っておれ!」
 宗安が一喝して再び圭一郎に問いかけた。
「圭一郎、その時に坪井家側にその件を問いたださなかったのはなぜじゃ? 養子の件はともかくとして坪井頭取と親子のような関係だというのも嘘だったのだろう?」
「それは……」
 圭一郎が口籠り、そのまま沈黙する。それを宗安が鋭い目でジッと見ている。息が詰まるような重苦しい空気がその場に横たわり誰もがふたりを交互に見ながらことの成り行きを見守った。
 先に口を開いたのは宗安だった。
 意外なことに、突然彼はぷっと吹き出してそのままはははと笑い出し「わかったぞ! 圭一郎!」と声をあげた。
 そして、その意外な反応に皆が唖然とする中高らかに言い放った。
「お前、澪さんにひと目惚れしたんじゃろう! だから頭取を問い詰めて破談になるのは嫌だった。そうじゃろう!」
 その言葉に、圭一郎がなにか言おうとしてごふっとむせる。
 澪は真っ赤になってしまった。
「お前が新妻にぞっこんだというのは、そこかしこから聞こえてくる。つまりはそういうことじゃな!」
 そんな噂が流れているのかと澪は目を剥きながら、とにかく早く圭一郎に否定してほしいと思うのに、いつもは冷静なはずの彼は、ごほごほといつまでも咳き込んだままだ。
 そこへ宗安が畳みかける。
「圭一郎、本当のことを言え。養子だろうがなんだろうがお前結婚したかった。そうじゃろう!」
「会長、あ、あの……!」
 いてもたってもいられなくて澪は口を開きかける。するとそれにかぶせるように圭一郎が自ら宗安に向かって答えた。
「その通りです……」
 それだけ言って、目を閉じる。
 その様子に、何人かが思わずといった様子で吹き出した。あちこちから忍び笑いが起こるのを聴きながら、澪は穴があったら一目散に飛び込みたい気持ちだった。穴はないからテーブルの下に潜り込みたい。
「なるほど、なるほど! いや愉快、愉快」
 宗安が満足げに声をあげる。その朗らかな様子に、ほかの親族たちの空気も解けていくようだった。ニヤニヤとして圭一郎を見ている。
 ただ和信だけが納得がいかないようで悔しそうに歯ぎしりをしている。
 そして「なんの問題もないじゃないか。後継者は圭一郎だ」言う宗久の言葉に反論した。
「仕事に私情を挟む男ですよ!」
 宗安がうんざりしたように和信を睨んだ。
「五菱との関係は順調なんだろう? しかも夫婦もうまくいってる。いったいなにが問題なんだ?」
「そ、それは……」
「もう黙れ、和信」
 すると代わりに彼の父親が口を開いた。
「ですが、会長。以前会長は圭一郎には、後継者として決定的に欠けている部分があるとおっしゃっていました。それはもうよいのですか?」
 宗安が頷いた。
「ああ、もうよい。よいことが今わかった」
「え? 今?」
「圭一郎」
 宗安が圭一郎に呼びかけた。
「はい」
「私はお前に随分と厳しく接してきた。それはお前に後継者としての資質があると思ったからだ。向坂自動車のリーダーは並大抵の覚悟でなくては務まらん。お前はそれによく応えてくれたな。だがお前にもひとつだけ足りないものがあると思っておった」
 宗安はそこで言葉を切って隣の圭介をチラリと見た。そしてまた圭一郎を見た。
「誰かを愛するという気持ちじゃ。お前は特殊な環境で育った。お世辞にも幸せな家庭とは言えんかっただろう。それはお前のせいではないが、リーダーに家族を大切に思う心がわからなければ、向坂家の家訓である"社員は家族"が形骸化してゆく。だからわしはそれを心配しておったのじゃが……もう心配はいらんな? 今のお前にはよくわかっているはずだ。誰かを愛するという気持ちがどのようなものなのかを」
「はい、よくわかりました」
 圭一郎がはっきりとした声で答える。
「よし、向坂自動車を頼んだぞ」
「はい」
 ふたりのやり取りに、どこからかパチパチと拍手が起こる。めでたいめでたいという言葉も聞こえた。
 だが和信はそれでもまだ納得できない様子だった。
「せ、政略結婚を推奨していたのはお祖父さまではないですか⁉︎」
 宗安が一喝した。
「ばかもん! わしは、早く家庭を持てとは言っていたがなにも政略結婚しろとは言っとらん!」
「でででもそもそもお祖父さまが政略結婚だったんじゃ……」
「結婚したいと思った相手がたまたま当時の閣僚の娘でその後の仕事に有利になっただけじゃ。はじめは駆け落ちみたいなもんじゃった!」
「じゃあ、どうして私の元妻の父親が選挙に落ちた時、私まで降格になったんです?」
 和信はなおも食い下がる。
 そういえば、以前琴音からそんな話を聞いたことを澪は思い出していた。向坂家が結婚相手に家柄や利用価値を求めるいい例だと彼女は自慢げに言っていた。あれは、彼の話だったのか。
「わ、私は妻とはすぐに離婚したのに……」
「だからだ! ばかもん! 利用価値がなくなったらすぐに捨てるなど言語道断、自分の妻を大切にできないやつがどうして社員を大切にできる? なぜ降格になったのか理由をよく考えろとあの時わしは言ったが、なんにもわかっとらんようだ! お前は南米の工場でまた一からやり直してこい!」
「そんな……」
 宗安がやれやれというように首を振って深いため息をついてから澪を見た。
「澪さん」
「はい」
 背筋を正して澪は答えた。
「本当に嫌な思いをさせてしまって、申し訳ない。養子だなんだとごちゃごちゃ言って申し訳なかったが、あなたは圭一郎に人を愛することを教えてくれた。幸せに育てられた素晴らしい女性なのだと思います。圭一郎と一緒になってくれてありがとう。感謝します」
「はい……。こちらそ、ありがとうございます」
 温かい言葉に、澪の目から涙が溢れた。
 幸せな家庭ではなかったと圭一郎は言った。だけどそれでも彼が強く真っ直ぐに育ったのは、この厳しくも優しい祖父が見守っていたからだろう。
「圭一郎」
「はい」
「澪さんを大切にな。愛する人を大切にできんやつが社員を大切にできるはずがない」
「……肝に銘じます」
 はっきりとした声で答えて、圭一郎が澪の手をギュッと握った。
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