仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
愛を知るとき
 圭一郎が帰ってきた頃はもう日が落ちていた。仕事ではないという言葉通り、彼は出ていった時と同じ、ラフな格好のままだった。
 彼がいない間、澪はベッドでゆっくりとしながら、たくさん寝てスッキリとした頭で今後のことに考えを巡らせていた。
 相変わらず道筋ははっきりとしない。でもひとつだけわかるのは、彼との子の将来を自分ひとりで決めてはいけないということだった。夫婦がどんな風になろうともお腹の子にとっては父親は彼であり母親は自分であることは間違いないのだから。
「ゆっくりできた? あれからまた寝たのか?」
 小さな座卓に鍵を置いて圭一郎が澪に尋ねる。
「はい、ゆっくりできました。さすがに寝てはいませんけど……」
 澪が言うと圭一郎は安堵したように頷いて台所へ行き、手洗いとうがいをしてから戻ってくる。そして澪を抱きしめた。
「澪、ただいま」
「……おかえりなさい」
 本当に不思議だと澪は思う。彼が帰ってきただけで、部屋の温度が一、二度上がるような気がする。このアパートは古くて狭くて明らかに彼には不似合いなのに、彼がいるとあのマンションと同じふたりの居場所みたいに感じるのだ。
 このままこの温もりに身を任せていたい。お腹の子とふたり彼の大きな腕に守られる、そんな未来を夢見たくなる。でもそのためには、乗り越えなくてはならないことがあるのだ。
 決心が鈍らないうちに、澪は口を開いた。
「圭一郎さん、私、圭一郎さんに言わなくちゃいけないことがあるんです」
 決意を込めた澪の言葉に、圭一郎はとくに驚きもせず、少し身を離し額と額をくっつける。
「うん、……話してくれ」
「……本当は結婚する前に言わなくちゃいけなかったんです。私嘘をついていたんです」
 緊張で声がうわずってしまう澪の言葉を、圭一郎が静かな眼差しで待っている。
 ああ、やっぱり彼は知っている。
 いつからかは不明だけれど、少なくとも今朝部屋を出る時は、わかっていたのだろう。
 だとしても自分の口から言わなくてはと澪は思う。ちゃんと自分の口から言ってそれでも一緒にいたいと告げるのだ。
 澪の秘密が暴露されて、彼が被る損害は一生かけて償うから……。
 それが今日一日で澪が出した答えだった。
「圭一郎さん、私、私……本当は……父とは血がつながっていないんです。……養子なんです。私の本当のお父さんは私が生まれてすぐに亡くなって……。小さい私を抱えて途方に暮れる母を支えてくれたのが父だったんです。だから厳密には坪井家の娘とはいえなくて……圭一郎さんの政略結婚の相手としては相応しくない。嘘をついて結婚して……ごめんなさい」
 一気に言って目を閉じると、すぐさま温かい腕に包まれる。耳元で低い声が囁いた。
「話してくれてありがとう。相応しくないなんてことはない。俺の妻は澪しかいない」
「圭一郎さん……」
 目を閉じると熱い雫が頬を伝う。背中に腕を回して力を込めた。
「圭一郎さん、ごめんなさい」
「謝らなくていい。その嘘があったから俺は君と結婚できた。俺にとっては必要なことだった。ありがたいと思うくらいだ」
 まさか、そんなことありえない。
 裏切りは裏切りで、しかも今後の彼のキャリアに影を落としかねないほど重要な部分なのだ。それでもそう言ってくれる彼が愛おしくてありがたかった。
「圭一郎さん、私、圭一郎さんを愛しています」
 彼の胸に顔を埋めて、澪はようやくその言葉を口にした。重要な秘密を抱えたままでは伝えたくても伝えられなかった言葉だった。
「愛してる、大好きなんです。私にとっても旦那さまは圭一郎さんしかいません。このまま夫婦でいてください」
「もちろんだ、澪。もちろんだよ。嫌だと言っても離さない。俺の妻は澪しかいない」
 さっきの言葉を繰り返して、彼は腕に力を込める。澪の胸が、熱いものでいっぱいになった。
 愛する人に、本当の姿の自分を愛される。
 シンプルだけど、これ以上ないくらい幸せなことだ。
「澪」
 頬にあてられた手に促されるように顔を上げると圭一郎が熱い眼差しで澪を見つめている。
 ゆっくりと近づく、ふたりの唇。
 ——でもその時。
 ピンポンピンポンと玄関の呼び鈴がけたたましく鳴り、同時にドンドンドンとドアを叩く音がする。ふたりは眉を寄せてドアに視線を移し、しばらくジッと見つめる。その間も呼び鈴は鳴り続けていた。
 どう考えても尋常じゃない訪問客に澪は胸騒ぎを覚え圭一郎の服をギュッと握る。一方で、彼は冷静だった。
「大丈夫だ。俺が出るから、澪はなるべく部屋の奥へ行ってて」
 そう言ってポケットから携帯を出して素早くなにかを打ち込んだ。そしてドアに歩み寄り覗き穴で外の人物を確認してからゆっくりとドアを開ける。
 立っていたのは、琴音だった。
 腕を組んで仁王立ちをしている。澪は驚いて声を漏らした。
「琴音……」
「ちょっと澪、話が違うじゃない!」
 圭一郎には目もくれず彼女は澪に向かって開口一番そう言った。
「あんたが家を出たって、旦那を連れ込んでたら、意味ないじゃない! そんなこともわからないの? あんたこんなに頭悪かったっけ?」
 あまりの口の悪さに、圭一郎が彼にしては珍しく嫌悪の表情を浮かべている。そして彼女の視線から澪を庇うようにふたりの間に割って入り、琴音に向かって問いかけた。
「君が、坪井琴音さんだね」
 琴音が圭一郎に視線を移す。ふたりはまったくの初対面だが、ここ一週間ほどリコールの件でニュースを賑わせていた彼の顔は把握しているようだ。あんた誰?とは言わなかった。
「君が妻に言ったことは、もうすべて私は把握している。もう脅しにはならないからこうやって来ても無意味だ。今後一切彼女に関わるのはやめてくれ」
 圭一郎がきっぱりと言う。
 その内容に澪は目を見開いた。では彼は養子の件だけではなく、マンションを出なくてはいけなくなった一連の出来事についても把握しているのだ。
 と、いうことは……。
「琴音!」
 カンカンカンと外階段を上る音と怒号がアパートの廊下に響き渡る。同時に彼女の後ろから康彦伯父が姿を現した。
「やっと見つけたぞ! まったく手間ばっかりかけやがって」
 琴音の手首を乱暴に掴んだ。
「痛い! 離してよ!」
 琴音が茶色い髪を振り乱して抵抗する。するとさらに後ろから彼女の母親が現れた。
「琴音! あなたは……! お父さまにどれだけ恥をかかせれば気が済むの!」
 伯父と一緒になって琴音をなじる。
「なによ!」
 琴音が手を乱暴に振り払い。振り返り両親を睨みつけた。
「恥って……澪の方が恥だってお母さま言ってたじゃない。由緒正しい坪井家の苗字をどこの馬の骨かわからない娘が名乗るなんて恥ずかしいって。それなのに、よりによってこの子が私の代わりなんて、おかしいじゃない!」
「それはあなたが逃げたからでしょう⁉︎」
 ひと目も気にせず親子は激しい言い合いになる。それを見ながら澪は堪らない気持ちになっていた。
 娘が見つかっても喜ぶわけでもなく怒り狂うふたりに、彼女がなぜ自分に執着し、憎んでいたのかわかったような気がしたからだ。
 琴音が澪を指差した。
「あの子は偽物! 汚らわしい存在! お父さまとお母さまはいつもそう言ってた。でもじゃあどうしてあの子が私より親に大切にされるのよ? 愛されて幸せになれるのよ!」
 本家のひとり娘として琴音は何不自由なく大切に育てられた。学校でも、どこぞのブランドバックを買ってもらった、あるいは夏休みはまるまる海外で過ごすと自慢げに言っていた。でもそこに愛はなかったのだ。
 行方不明になった琴音を伯父は一貫して心配する素振りはなかったし、そもそも結婚も見合いもすべて伯父の都合で決められたのだ。彼女の意思などは関係なく。
 おそらくは今までずっとそうだったのだろう。
 琴音が血走った目で澪を睨んだ。
「学水院時代から私、あんたが大嫌いだった。あんたの父親は家に来てあんたを養子にしたい本当の娘と同じなんだって言ってお祖父さまに頭を下げてたの。その後も、あんたの学費のために何度も何度も家に来て頭を下げていたのよ。大切な娘なんだって言って。そんなのおかしいじゃない! 偽物の娘なのに! 本物の私より大切にされているなんて。だから私、常にあんたが偽物だってことを忘れないようにしてあげていたのよ」
 とにかく胸が痛かった。
 彼女が異常なまでに澪に執着をし、学生時代ずっと偽物だと言いふらしていたのは、血のつながりはないのに父に愛されていた澪が妬ましかったからなのだ。正真正銘坪井家の血を引いている自分がこんなにも苦しい思いをしているのにと澪に嫉妬していたのだ。
 もちろんその感情は、綺麗なものではない。
 でもその根底にある、両親に愛されたいという思いは、人としてあたりまえの感情だ。
 突然、抱えていた胸の内を暴露し始めた琴音に、伯父と伯母が唖然として固まっている。
 代わりに口を開いたのは、圭一郎だった。
「琴音さん、君には同情する」
 琴音たち親子が怪訝な表情で彼に注目した。
「私も君とまったく同じ家庭で育ったから。君の気持ちはよくわかる。両親に愛されていないという無力感を常に抱えながら生きてきた。そうだろう?」
 その言葉に澪はハッとする。そういえば以前、彼は"幸せな夫婦などフィクションの世界の言葉だと思っていた"と言っていた。
 圭一郎が諭すような声音で琴音に向かって語りかける。
「愛に飢えて生きてきたという心の傷は、それぞれの方法で乗り越えていくしかない。だが、少なくとも誰かを不幸にした先に、君の幸せがあるわけではないということだけは確かだ」
 圭一郎からの忠告に琴音が悔しそうに歯噛みをする。でも彼女にしては珍しく、なにも言い返さなかった。
「頭取」
 圭一郎が伯父に向かって呼びかけた。
「澪がお義父さんの養子だったという事実が、御社と向坂自動車(うち)の関係に影響しないことは約束します。ですから、もう二度と澪とお義父さんに関わらないと約束をしてください。……もちろん、琴音さんも含めて」
「あ、ああ、もちろんだ。よ、よろしくお願いします」
 伯父がカクカクと頷いた。
「で、では私たちはこれで。騒がせてしまってすまなかった」
 そして圭一郎の気が変わらないうちにと、琴音と妻を追い立てるようにしてアパートを去っていった。
 バタンとドアを閉めて深いため息をついてから、圭一郎は部屋の中に戻ってきてベッドに腰を下ろす。澪も隣に座った。
 圭一郎がことの経緯を説明する。
「今日の昼間に頭取と君のことについて話をつけてきたんだよ。その時に君がマンションを出なくてはならなかった一連の出来事も聞いたんだ。しかもこのアパートの周りを坪井琴音がウロウロしているという情報が調査会社から入ってね。俺が出入りしてると知ったらなにかアクションを起こすと思ったんだよ。で念のため近くでおふたりには待機してもらっていた」
 彼の言葉に澪は頷く。
「もう二度と彼女が君に危害を加えないように、捕まえる必要があったからちょっと囮作戦みたいなことになって申し訳なかった。嫌な思いをさせてしまった」
「私は大丈夫です」
 澪は首を横に振った。あれくらいは慣れている。今さらなんとも思わない。でもそれよりも圭一郎のことの方が心配だった。
 むしろ澪よりも彼の方がダメージを受けているように思えたからだ。
「……圭一郎さんは大丈夫ですか?」
 恐る恐る尋ねると、彼は頭をくしゃくしゃとして、深いため息をついた。
「彼女が澪にしたことは許せないけど、かわいそうな人だと思ったよ。……彼女と俺は、紙一重だ」
 まさか、いう言葉を澪はすんでのところで飲み込んだ。そこから先は澪の知らない世界のように思えたからだ。
 見合いの日、はじめて顔を合わせた時の冷たい目をした彼が頭に浮かんだ。
「俺の場合は……そうだな、祖父から向坂自動車を背負って立つのはお前だと常に言い聞かせられていて、それを目標に生きてきた。向坂自動車と社員のために働いている間は自分に価値があるように思えたからだ。……たとえ、両親から愛されていなくても」
「圭一郎さん」
 たまらずに澪は、膝に置かれた彼の手に自らの手を重ねた。
「私は、あなたを愛しています。圭一郎さんが向坂自動車の副社長でもそうでなくても、関係ありません」
 胸が張り裂けそうだった。過去へ行き、幼い彼を抱きしめたいと思うくらいだ。あなたは生まれてきただけで大切な存在なのだと言ってあげたい。
「うん、ありがとう」
 圭一郎が澪の頭を優しくなでて穏やかな笑みを浮かべた。
「君に出会えたのは、俺の人生で一番幸運な出来事だった」
 少し瞳に力が戻ったように思えて、澪は安堵する。
 圭一郎が意味深な言葉を口にした。
「あの時、自分の勘を信じて正解だったと思うよ。もし別の道を選んでいたらもしかしたら俺もいずれは彼女のようにと思うと、大袈裟じゃなくてゾッとする」
 澪は首を傾げた。
「……勘を信じた?」
「うん」
 圭一郎が頷いた。
「本当は結婚式より前……見合いのすぐ後に、養子の件は把握していたんだ。君のことを調べておしえてくれた人がいて。……疑うようなことをして申し訳なかったけど、いろいろなリスクを想定しておく必要があるから」
 申し訳なさそう圭一郎は言う。
 澪は首を横に振った。
 彼の立場としては当然だ。ただ内容には驚いていた。養子の件に彼が気づいているのはわかっていたけれど、まさかそれが結婚前からとは。
「圭一郎さん、だったらどうして私と結婚したんですか?」
 せっかく調べて不都合な部分が見つかったのに、そのまま結婚したのでは意味がない。
「リスク回避できていないじゃないですか!」
 自分との結婚だったことも忘れてそう言うと、圭一郎がフッと笑う。そして澪の頬に手をあてて親指で優しく瞼に触れた。
「見合いの日の君の真っ直ぐな視線に惹かれたからだ」
「視線……?」
「ああ、幸せになりたいという言葉も衝撃的だった。それまでの俺だったらありえないことだけど、リスクを負ってでも君の言葉通りにしてみたいと思ったんだ。どうしてそう思ったのか、あの時は自分でもよくわからなかったけど、今はわかる。澪、俺はあの日、君に恋をしてしまったんだ」
「圭一郎さん……」
 圭一郎の眼差しがゆっくりと下りてきてふたりは長いキスを交わす。
 澪だって見合いの日に特別なものを感じていた。彼に恋をしていると自覚したのは新婚旅行だったけれど、あの時にもうはじまっていたのだろう。
 短いけれど、たくさんの思いがギュッと詰まったふたりの歴史に思いを馳せて交わす彼とのキスは、これ以上ないくらいに心地よくて幸せな味がする。ずっとずっとこうしていたい気分だった。
「……俺にとって一番大切なのはこの気持ちだ」
 圭一郎の言葉に、澪はゆっくりと目を開いた。
「君と一緒にいるためなら、今の立場を失ったってかまわない」
「け、圭一郎さん! そんなのダメです……!」
 とんでもないことを言う彼に、途端に澪は夢から覚めて慌てて声をあげる。
 でもそういえばと重要なことを思い出した。澪の件が明るみになれば、本当にそうなるかもしれないのだ。
「……もし本当にそんなことになったらごめんなさい」
 圭一郎が笑って澪の頭をぽんぽんとした。
「そういう気分だと言うだけだ。大丈夫、そんなことにはならないよ」
「でも圭一郎さんのお家は立派なお家だから結婚相手に家柄を求めるって聞きました。私の件がバレたら大変なことになるんでしょう?」
「どうかな」
 圭一郎が肩をすくめた。
「でも、どうなったとしても俺は君を離さないし、会社の件も譲らないつもりだ。自分の立場を守りたいんじゃなくて、社員たちを守るために」
 そう言う彼の綺麗な瞳に、澪の胸はどきりとする。巨大な組織を率いていく覚悟を持った唯一無二の強いリーダーの目だ。
「だから、澪は心配しなくていい」
 その言葉に頷きながら、澪はまた見合いの日のことを思い出していた。
 そうだ、あの日自分はこの眼差しに強く惹かれたのだ。
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