仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
圭一郎の縁談
「副社長、社長がお見えになっておられますが」
 向坂自動車本社ビルの高層階にある副社長室で、約三十分後に始まる会議のための資料を読み込んでいた向坂圭一郎は、第一秘書の渡辺(わたなべ)に声をかけられて顔を上げた。
「お通ししてよろしいですか?」
 形だけの確認だ。相手は社長なのだから、今現在資料を読むことくらいしかしていない状況で、断るという選択肢はない。
 いったいなんだろうと訝しみながら圭一郎は資料を置いて頷いた。
 社長がアポイントもなしに、わざわざこちらに来るなんて記憶にある限りはじめてだ。ちょっとしたやり取りなら、社内ネットワーク上でやり取りする方が遥かに便利で時間の節約にもなる。なにか会社にとって不測の事態でも起きたのだろうかという不安が頭を掠めた。
 やがて渡辺と入れ替わるようにして、社長である向坂圭介(けいすけ)が現れた。
 圭一郎は立ち上がり、応接スペースに誘導する。社長と副社長という関係ではあるものの、彼は圭一郎の父親である。親子でもあるという気安さで、向かい合わせに腰を下ろすと、挨拶もそこそこに用件を尋ねた。
「おつかれさまです、社長。どうかされましたか?」
 圭介が手にしていた封筒を圭一郎に向かって差し出した。
「先方からやっと見合写真が届いたんだ。渡しておこうと思ってな」
 その言葉に、圭一郎の肩から力が抜ける。
 なるほど、用向きがこの件ならば、直接父親が来たのは納得だった。いくらなんでも見合写真を社内便で送るのは都合が悪い。さりとて家に帰ってから、というのは無理な話だった。ふたりとも会社の近くに別々に住んでいるからだ。
 目の前の茶封筒を圭一郎は無言で受け取り、そのまま開けずにセンターテーブルに置く。
「まったく」
 圭介がため息をついた。
「見合いは来週だぞ。こんなにギリギリまで写真がこないなどありえん。相手の娘さんは海外留学中でなかなか帰国できんかったという話だが」
「……まぁ、海外にいたというなら仕方がないでしょう」
 圭一郎は、気のない相槌を打った。
「だからといって写真も渡せんというのは……」
 と、そこで父は一旦言葉を切る。そして声をひそめて続きの言葉を口にする。
「実は、よほど見せたくないような娘なのかと内心疑っておったんだ。つまり、写真を見たらこちらが断るかもしれないと心配になるような……もしそうなら、お前が気の毒だと思っていたんだが、さっき見たらなんてことはない、なかなか可愛らしい方だったぞ」
「そうですか、ならよかったです」
 答えながら圭一郎の思考は、すでに別のことに移っている。正直いって見合い相手の容姿など、まったく興味がなかった。そんなことよりも聞いておくべきことがある。
「社長、五菱銀行との件は順調にいきそうですか?」
 急に話の方向を変えた圭一郎に、圭介がやや驚いたように瞬きをする。そしてすぐに頷いた。
「ああ、まったく問題ない」
「向坂(うち)の会長はなんと?」
「お前の縁談の話をしたらしぶしぶではあるが、ゴーサインが出た」
 圭一郎は息を吐いて、グレーのソファに身を沈める。気がかりだったことがひとつ減った。
 向坂自動車は、国内最大手の都市銀行三社と取引があって、今のところ資金面では盤石な体勢だ。だが巨大なグローバル企業としてこれからも海外において事業を展開していく予定で、だとすれば予測のつかない事態に巻き込まれることも考えられる。
 そんな時も社員を守り抜くため、もう一社取引銀行を作っておくべきだと圭介と圭一郎は考えていた。もちろんどの銀行でもいいというわけではなく、不測の事態に耐えうる大手都市銀行でないと意味がない。
 すなわちそれが、五菱銀行だった。
 ある因縁から長年敬遠していた相手だが、そうはいってもほかに候補となる銀行はない。向こうとしても向坂と関係を再開することはメリットしかないのだから、ビジネス上の話はすぐにまとまった。
 だが因縁の元となった事件の生き証人である圭一郎の祖父、向坂宗安会長が、その話に渋い顔をした。
『五菱は信用できん』と言って首を立てに振ろうとしない。床に頭を擦り付けて懇願する父親を前にして、追加融資を断った当時の頭取の冷たい目が忘れられないという。
 坪井家の娘と圭一郎の縁談は、現五菱銀行頭取坪井康彦からの提案だった。娘を差し出すから、信用してくれということだろう。
 圭一郎自身は時代錯誤な方法だと思ったが、祖父に対してはうまくいったようだ。
「写真だけじゃなくて、見合い自体も延び延びになっていたからどうなることかと思ったが、今回は予定通りやれそうだ。まったく……海外留学と言いながらどうせ遊び回っていたんだろう。わがままなお嬢さまなのかもしれん」
 圭介はそう言ってやれやれというようにため息をついた。そしてやや気の毒そうに圭一郎を見る。
 だが仮にそうだとしても圭一郎としてはどうでもいい話だった。この縁談で大事なのは、坪井家の娘と自分が結婚したという事実だけなのだから。
「まぁ、だが、圭一郎……あれだ。その……そういう相手の方がある意味扱いやすいというものだ。小遣いをたっぷりやって自由にさせてやれば満足するからな。結婚後、また海外に行きたいと言うなら、そうさせてやればいい。それが夫婦円満の秘訣だ」
 父親からの言葉に圭一郎は頷いた。決して一般的とはいえないこの助言は、彼の経験からくるものだ。彼の妻、すなわち圭一郎の母親がまさにそういう人なのだ。
 彼女は国内最大手のエネルギー会社の創業者一族の娘でふたりは恋愛結婚ではない。愛情などはなく利害だけで結びついているいわゆる政略結婚というやつだ。彼女は一年の半分以上は海外にいて、自由にやっている。そしてその分、圭介も国内で"自由に"やっているのだ。
「わかりました。希望されるならそうしていただきましょう。その方が私も仕事に集中できますし」
 圭一郎がそう言うと、父親は眉を上げて、センターテーブルの上の茶封筒を顎で指し示す。
「見ないのか?」
「……後で確認しておきます」
 答えると、それを見てフッと笑みを漏らす。そして用件は済んだとばかりに立ち上がった。
「とにかく、来週末は空けておけよ」
 そして部屋を出ていった。
 圭一郎もデスクに戻り再び資料を手に取ると、父と入れ替わりに渡辺が入室する。すぐに応接コーナーに置きっぱなしになっている封筒に気が付いた。
「副社長、こちらは?」
「見合い写真だそうだ。用向きはその件だった。片付けておいてくれ」
 圭一郎が指示すると、彼は素直に頷いてそれを手に取ってから圭一郎の元へやってくる。そして「副社長、少しよろしいでしょうか?」と尋ねた。
「なんだ?」
 聞き返すと彼は、躊躇して口籠る。
 それを圭一郎は珍しいものを見るような気持ちで見ていた。
 副社長就任以来ずっと自分についている渡辺は、若くて有能、圭一郎にとっては欠かせない存在だ。圭一郎と話をする時はいかなる時も無駄なく要点をはっきりとさせてから口を開く。その彼がこんな風に言いにくそうにする姿ははじめてだった。
 無理には急かさずに黙ったまま彼の言葉を待っていると、やがて彼は思い切ったように口を開いた。
「私ごとにはなりますが、十二月に子供が生まれる予定です」
「……そうなのか。それは、おめでとう」
 圭一郎は笑みを浮かべてまずは祝福する。
 渡辺が「ありがとうございます」と答えた。
「それで……大変恐縮ですが、出産後私もお休みをいただけないかと思いまして……」
 育児休業をくれということだ。
「現場を離れるのは心苦しいのですが、なにぶん妻の実家が遠方で頼れる人がいないものですから……」
「もちろん、そうしてくれてかまわない」
 あれこれと言いにくそうに理由を説明しようとする渡辺を、圭一郎はきっぱりとした言葉で止める。
「育児休業を取るのは社員全員の権利だから」
 男性社員の育児休業は圭一郎が副社長に就任した五年前に創設された制度だが、本格的に利用され始めたのはここ二年くらいだ。取得した事実がその後の査定にまったく影響しないという協定を労働組合と結んだことをきっかけに、徐々に取得率が上がってきた。世間からも注目を集めていて、メディアにもよく取り上げられている。
 結構なことだ、と圭一郎は思う。
 そもそもグローバル企業としては、こういった社員の福利厚生を整えることは必要不可欠で、世界的に見れば当たり前のことなのだ。
「上司として私は賛成するよ」
 心からそう言うと、彼はホッとしたように表情を緩めて頭を下げた。
「ありがとうございます」
「期間はどのくらいだ?」
「六ヶ月お願いしたいと考えております」
「わかった」
 答えながら圭一郎は頭の中で彼がいなくなるであろう期間の大まかな年間スケジュールを思い浮かべる。出産をずらすわけにいかないのだから、彼の不在がどれほど痛手でも会社としてはカバーするしかない。幸いそれほど大きなプロジェクトもないから人員を補充しなくてもなんとかなりそうだ。
「もちろん、君がいないのは私にとっては痛手だが、家族の支えあっての社員だからな。秘書室は優秀な社員ばかりだからなんとかなるだろう。しっかりと奥さんをサポートしてあげてくれ」
 教科書通りの言葉を口すると、彼は安堵したように表情を緩ませた。
「ありがとうございます」
 会社では育児休業取得を願い出た社員にハラスメント的な言葉をかけることがないよう管理職への教育を徹底している。当然圭一郎も内容を把握しているが、実際にそれが役に立ったのははじめてだった。
「十二月が楽しみだな、もう性別はわかっているのか?」
「いえ、それがまだ……」
 その後、生まれてくる子供についてのひと通りの雑談をする。いつもは真面目一辺倒な彼の、はにかむ様子が新鮮だった。
「……お時間いただきありがとうございました。もう間も無くしましたら、呼びに参ります」
 そう話を締め括って、彼は部屋を出ていった。
 そのドアがパタンと閉まるのを確認してから、圭一郎はくるりと椅子を回し、足元まである大きな窓の外の景色を眺めた。
 眼下には、初夏の日差しに照らされた向坂自動車の広大な敷地が広がっている。今圭一郎がいる本社ビルは主に事務系の部署が集まっている建物で一番高い建物だ。その周りを取り囲むようにテクニカルセンターと呼ばれる技術系の部署が入るビルが併せて三棟、さらにその周りに本社工場が広がっている。
 会社の敷地としてはそこまでだが、さらにその向こうに広がる街には、社員とその家族が住んでいる。関連企業や取引先は数え切れないほどあるし、この街に暮らす人々のための、飲食店やサービス業を考えると、この地域の経済の中心は間違いなく向坂自動車だった。
 この景色を見るたびに、身が引き締まるような思いがする。数万人という人々を幸せにする責任が自分の肩に乗っているのだ。ほんのひとつの判断ミスも許されない。
 青い空を見つめながら、圭一郎はさっきの渡辺の照れたような笑顔を思い出していた。
 彼らのあのような笑顔のために自分は存在する。向坂家の長男として生を受けた瞬間からそう運命づけられている。
 だから彼のあのような様子を見られたことは素直に嬉しいと感じた。
 ……だがその彼の"心"についてはまったく共感できなかった。
 誰かを慈しみ、愛し愛されることに圭一郎自身は興味を持てないでいるからだ。
 おそらくは特殊な環境で育ったせいだろう。愛よりも事業を拡大することを優先させるべきという風潮が、昔から向坂家には存在して、親戚のほとんどが向坂自動車に有利になる相手と結婚している。より由緒ある家柄、力のある相手と結婚することを競うような空気もあるくらいだ。
 圭一郎自身は、その競争にはまったく興味はなかったものの、いずれは自分も同じような結婚するのだと考えていた。そして実際にそうなった今、正直いってなんの感情も湧いてこなかった。
 圭一郎は肘をついて振り返り、さっきまで見合い写真が置いてあったセンターテーブルをジッと見つめた。
 相手に対する興味はない。
 温かい家庭も、愛情も、圭一郎は望んでいない。
 だがこの結婚に失敗するわけにはいかなかった。少なくとも、五菱銀行との関係が強固になるまでの間に、離婚などという事態になることだけは避けなくてはならない。
 見合い相手がどんな人物か現時点ではわからないが、父親の言う通りであれば話は簡単だ。互いに政略結婚だと割り切って、形だけの夫婦を演じればいいのだから。
 だがそうではなく、相手が圭一郎に普通の夫としての愛情を求めるとしたら、少々やっかいだと圭一郎は考えていた。たとえ相手になんの興味も持てなくても、それに応えなくてはならないからだ。面倒臭くて煩わしい。
 圭一郎は眉間に皺を寄せて、深いため息をついた。
 ……この上なく煩わしい。
 だがこれもビジネスだと考えて、やるしかないと自分自身に言い聞かせる。
 愛してほしいと言うのなら、愛しているふりをして完璧な夫を演じ切る。それが向坂自動車の未来のために必要なことなのだ。
 ……とにかく。
 来週の見合いでは、相手がどんな人物か、圭一郎になにを求めているのかを慎重に見極める必要がある。その上で、これからどう振る舞うかを決めればいい。そう心に留めて、圭一郎はまた会議資料に戻った。
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