仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
見合いの日
 雨上がりの庭の濃い緑の山茶花の木とつつじの木の間に、大きな蜘蛛の巣がかかっている。幾何学模様を作る透明な糸に、ずらりと並ぶ雨の雫、そのひとつひとつがまるで水晶のようにキラキラと輝いていた。
『くもさんのシャンデリアだ!』
 小さい頃、母と庭を散歩した時にこんな蜘蛛の巣を見つけたら、澪は飛び上がって喜んだものだ。
『わ、本当だ。今日はいいことありそうね!』
 母は必ずそう言って、一緒に喜んでくれた。だから雨上がりの庭を散策するのが澪は今でも大好きだ。
 着なれない振袖を着て、自宅の庭とは比べものにならないくらいの立派な日本庭園にいる澪は、偶然見つけた蜘蛛の巣に少しだけ肩の力を抜く。そして庭の片隅に立ち、涼しい表情で電話をかけている背の高い男性に視線を移した。
 澪の見合い相手、向坂圭一郎だ。
 伯父の来訪からわずか一週間足らず。澪は会社は辞めて見合い用の写真を撮り大急ぎで準備した振袖を着てここにいる。
 ほかに選択肢がない以上、意に染まぬ結婚を無駄に嘆くのはやめようと心に決めた澪だったが、二時間ほど前にこの料亭に到着し、夫となる向坂圭一郎を前にしてその決心が揺らいでしまいそうだった。
 今年三十五歳だという彼は、百八十センチはあるであろう長身に、少しだけクセのある黒い髪、高い鼻梁と涼やかな目元の精悍な顔つきの男性だった。
 ついさっきまでいた日本庭園を望む和室ではじめて顔を合わせた時、彼は澪を真正面から見て優雅に微笑んだ。
『はじめて、澪さん。向坂圭一郎です』
 低くてどこか甘い響きを帯びたよく通る声音で澪に向かって挨拶をするその笑顔を、澪は本能的に冷たいと感じた。
 そこに温かな感情など微塵も流れていない偽物の微笑みだ。口もとは、穏やかに微笑んでいるけれど、目はまったく笑っていない。ジッと見つめるその視線に、観察されているような気分だった。
 いや実際、そうだったのだろう。
 お互いにお互いを望んでの結婚ではないのだし、どんな奴なのだろう、夫婦としてやっていけるだろうかと、警戒していてもおかしくはない。
 その場は、父親代わりとして同席した康彦伯父と、向坂自動車の社長向坂圭介が中心となって、和やかにことは進んだ。そして少し前にふたりだけで庭を散策しようと圭一郎に誘われて、出てきたのだ。
 ところが庭に出た直後に圭一郎の胸ポケットの携帯が鳴り、彼は澪に断ってから声の聞こえないくらいの距離に離れていった。今澪は、彼の電話が終わるのを待っている状態だった。
 電話をかける圭一郎から澪は視線を蜘蛛の巣に戻す。風がそよそよと吹いて、シャンデリアをキラキラと揺らしていた。その素朴なその煌めきに澪の心は少しだけ慰められ、まるで母に見守られているような気分になる。
 強制された結婚で幸せになるなんてやっぱり無理かもしれないと、しおしおに萎んでいた気持ちにまた勇気が湧いてくる。
 そうだ、まだ相手のことをなにも知らないじゃないか。
「お待たせして、申し訳ありませんでした」
 電話を終えた圭一郎が澪のところへやってきて、ふたりはゆっくりと広い庭を歩きだした。
「最近までイギリスにいたんですね」
 ふたりきりになり、やや親しげな様子の圭一郎からの問いかけに、ドギマギしながら、澪は答えた。
「はい、……留学で」
 坪井家の娘として恥ずかしくない行儀作法を身につけろと伯父は言ったけれど、見合いが決まってからの一週間足らずではどだい無理な話だった。
 それは本家側もわかっていたようで、とにかく澪にこの結婚についての自分の立ち位置を頭に叩き込めと命じた。
 まず澪は父の実子で、分家筋とはいえ坪井家の令嬢として行儀作法と高い教養を身につけた深層の令嬢であり、伯父とは親子同然の親しい間柄であるという設定だ。
 つい最近まで語学留学でイギリスにいて帰国が遅れ、そのせいで見合いを何度か延期したことになっている。
「お見合いの日程を延ばして頂くことになって申し訳ありませんでした」
「いえ、それは大丈夫です。少し急な話でしたから。それにイギリスはいいところだ。離れ難かったのでしょう」
 少し砕けた口調で笑みを浮かべ彼は言う。
「もしかして、また行きたい?」
 イギリスになど行ったことのない澪は留学の内容を尋ねられたらどうしようと、ヒヤヒヤしながら首を横に振った。
「い、いえ……もう十分学びましたから」
「そうですか……。大学では社会学部だとお聞きしましたが」
「はい、人の心理と社会のつながりについて学びました」
「なるほど、興味深いテーマですね。サークルなどには入られていたのですか?」
 少しムッとするような濃い土の匂いと瑞々しい緑の香りが混ざり合う木漏れ日の中、ゆっくりと歩きながら圭一郎は澪に対して質問を繰り返す。紳士的で穏やかな口調だ。強要するような雰囲気は微塵もなく、答えにくいような内容でもない。
 でもそれに答えながら澪は妙な不快感を覚えていた。
 あの日、家に来た伯父にあれこれと聞かれた時と同じような心地がする。
 もちろん彼には澪を知ろうする権利がある。ふたりは夫婦となるのだから。伯父と違って、踏み込みすぎの不愉快な質問もない。でも彼の質問の動機の元となる感情は、未来の妻について知りたいというような明るいものではないと澪は感じていた。
 探りを入れられて、値踏みされているような。
 向坂家の嫁として相応しいかどうかを見定めようとしているのだろうか?
 それとも……?
「結婚後の新居は、今のところ私がひとりで住むマンションと考えています。ふたりで住むには十分な広さですが、別の物件を探してもいい。なにか希望はありますか? 結婚したらこうしたいと考えていたとか……」
 繰り返される質問に、澪は思わず足を止める。つられるように立ち止まり、首を傾げる彼を見上げて、その端正な顔をジッと見つめた。
 不思議でたまらなかった。
 この見た目で立派な社会的地位のある間違いなく有能な男性が、周囲に決められた結婚をすんなりと受け入れている。それなりに恋愛もしてきただろうに、いったいどういう感情なのだろう。
 親に逆らえなくて仕方なく?
 あるいは、ビジネスのためならば、個人の感情などどうでもいいという伯父と同じ考えの持ち主なのだろうか。
 でも、ほかでもない自分自身の結婚話だというのに……。
「澪さん? どうかされましたか?」
 圭一郎が心配そうに眉を寄せる。どこか白々しいその顔を見つめながら澪は考えを巡らせる。
 深層の令嬢ならば、質問におとなしく答えるべきなのだ。
"新居については、お任せいたします"
 ひと言そう言えばいい。
 でもそれでは、幸せな結婚にはならない。
 伯父から厳命されたことはしっかり頭にあるけれど、本当の自分を少しくらいは出してもいいはずだ。
「お疲れですか? 一旦部屋へ戻りましょう」
 そう言って圭一郎は振袖の帯に手を添えて澪を促し、今きた道を引き返そうとする。それに従うことなく、澪は彼に問いかけた。
「あの、ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」
 すると圭一郎は不意を突かれたような表情で振り返り、瞬きをして澪を見る。返事を待たずに澪は続きを口にした。
「圭一郎さんは、この結婚をどう思われているのですか?」
 澪としてはこの場で一番先に確認しておくべき真っ当な質問をしたつもりだった。それなのに彼は、なぜそんなことを聞くのだとでもいうような表情で、すぐには答えを口にしない。そんなことを聞かれるなんてまったく想定外の出来事だ、とでもいうような彼の様子に、澪は無性に腹が立った。
 自分の方はさっきまで散々質問していたくせに、こちらから質問してはいけないとでもいうのだろうか。
 深層の令嬢は、黙って聞かれたことに答えていればいいとでも?
 バカバカしい、と澪は思う。
 深層の令嬢というものを澪は嫌というほど知っている。学水院の同級生たちが皆そうだからだ。
 おしとやかで控えめで、気配り上手なおとなしい娘。
 一般的にいえばそんなところなのだろう。そういう者も確かにいるが、澪の知る限りではせいぜいが二割くらい。残りはまったく逆だった。
 坪井本家から指示されて入学した学水院で、澪はずっと本家のひとり娘である琴音を中心としたグループから嫌がらせを受けていた。
 琴音は、坪井家の血を引いていないにも関わらず学水院に入学した澪が気に食わなかったようだ。ことあるごとに目の仇にされて、陰口を言われていた。
『あの子偽物のお嬢さまよ、本当は庶民なの。こんなとこにいちゃいけないのに』
 そもそも澪は琴音の代わりでここにいる。だったら彼女をお手本にしたっていいはずだ。
 圭一郎をジッと見据えて、澪は口を開いた。
「私たちの結婚は、家と家のつながりを作るためのものだということはわかっています。五菱銀行と向坂自動車の因縁を水に流し、新しい関係を築いていくために必要なことも。でもそれにしても圭一郎さんは、すんなりと受け入れておれますね。……初対面の人と結婚することに抵抗はないのですか?」
 一気に言って息を吐き、彼の目を見つめ返した。
 言いたいことを口にして、心が少しスッキリとする。優しくて紳士的、でもどこか不愉快な質問責めに、やりかえした気分だった。
 もしかしたら令嬢らしくない澪を、彼が不快に思うかもしれないということがチラリと頭を掠めるけれど、一方で、だからなんだ、とも思う。
 この一週間で澪は五菱銀行と向坂自動車の関係を自分なりに調べていた。専門知識はないけれど、経済誌や過去の新聞をあたる限り両者の関係は、フィフティフィフティ。関係を再開させるメリットはどちらにもあるということだ。
 そのためにこの結婚が必要不可欠なのだとしたら、少しくらい澪が気に食わないとしても断られることはないはずだ。
「恋愛もされてきたんじゃないでしょうか。それなのに私みたいな年下の女と結婚なんて、不満には思われないのですか?」
 わざと少し挑発するような言葉を口にすると、澪を見る圭一郎の視線の色が少し変わる。もしかしたら、怒らせてしまったのもしれないと澪は一瞬ドキリとするが、返ってきたのは意外な反応だった。
「……なるほど」
 呟いて彼は笑みを漏らしたのだ。
「ここまではっきりと口にされるとは思わなかったが、当然の質問だ」
 そう言って腕を組み少し首を傾けた。
「知りたいのはそれだけ?」
 口調と雰囲気が、一瞬にしてガラリと変わった彼の様子に、少し怯みながらも澪は答える。
「……とりあえずは」
 彼の放つ威圧的な空気に負けないように、お腹に力を入れて彼を見据えた。切長の目が面白いものを見つけたように澪を見下ろしている。
「わかった。だがそれならば、先に君の意見を聞かせてくれ。自分の考えを示す前に相手に意見を求めるのは、マナー違反だと私は思う」
 からかうようにそう言って、彼は首を傾げた。
「君はこの結婚をどう考えているんだ?」
 自分だってさっきまでどうでもいい質問を散々していたくせにという言葉が喉のところまで出かかるが、澪はそれをグッと堪える。
 どこか不敵な笑みを浮かべて圭一郎は、澪の言葉を待っている。
 きっとこれが本当の彼なのだ。
 優雅だけれど嘘くさい紳士の仮面を剥がすことに成功した。
 あとはもうなるようになれと心の中で呟いて、この一週間心の中で繰り返していた言葉を口にした。
「私はこの結婚で幸せになりたいと思っています」
 きっぱりとそう言うと、圭一郎の目が驚いたようにわずかに開いた。
「この結婚は、私が望んだものではありません。お断りしても問題ないのなら、そうさせていただきます。でもそれができないのなら、私は幸せになる努力をしたい。お互いに信頼し信頼されるような夫婦になりたいと思います」
 一か八かの賭けだった。
 いくら本当の気持ちだとはいえ、あまりにもはっきりと言いすぎだ。
 もし彼が澪と同じようにこの結婚に対してわずかでも戸惑いを見せていたら、ここまではっきりと言わなかった。少しずつゆっくりと距離を縮めていけばいいのだから。
 でも目の前のこの男性にきっとそれは通じない。無駄な努力になるだろう。
 互いに慈しみ合う夫婦として幸せになりたいとは思うけれど、無駄な努力をして神経をすり減らすような結婚生活は嫌だった。どうしても無理そうならば、別の道を模索したい。
「出会いがどうであれ、結果的に愛し合い幸せになれた夫婦も世の中にはたくさんいらっしゃいます。私たちがそうならないとは限らないでしょう? でも圭一郎さんにそのおつもりがないのなら、すべて意味のない話です。例えば結婚と恋愛は別物だと考えておられてほかに大切にしたい方がいらっしゃるのなら、私は私で振る舞い方を考えます。もちろん、妻としての役割は果たします」
 言いたいことを言い終えて、澪はホッと息を吐く。そして瞬きをしながら沈黙したままの圭一郎を見つめた。
 さっきまで口もとに浮かんでいた笑みは消えている。なにか思案しているようにも思えるが、その表情からはなにも読み取ることはできなかった。
 少し強い風が吹いて、楓の木をザザザと揺らし、頭の上をムクドリが飛んでいく。池の鯉がバチャンと跳ねても圭一郎はなにも言わなかった。そのあまりにも長い沈黙に、さすがに澪は不安になる。意図が伝わらなかったのだろうかと、再び口を開きかけた時。
「……なるほど」
 ようやく彼が反応した。
「つまり君は、決められた結婚をなんの疑問もなく受け入れる世間知らずの箱入り娘でもなければ、恵まれた環境でむやみやたらと反発する自由奔放なお嬢さまでもないわけだ。……今日の私の態度を不快に思ったのなら申し訳ない」
 突然の謝罪に澪は戸惑い動揺する。
「い、いえ、それは……」
 慌てて首を横に振ると、圭一郎がニヤリと笑った。
「耳障りのいいことを言う胡散くさいやつだと思っていただろう?」
「……」
 図星を刺されて口を閉じると、今度は彼はフッと笑う。その笑みに澪の胸がドキンと跳ねた。
 圭一郎が肩をすくめた。
「ただ一応言い訳をさせてもらうと、いろいろ尋ねていたのは、結婚生活をなるべく君の希望に沿うようにするためだ。結婚式までそれほど時間がないのに、私は君のことをまったく知らないからね」
「でもそれは、私のためではないですよね」
 思わず口を挟んでしまい、澪は慌てて口を閉じる。余計なひと言だったかもしれない。
 圭一郎がニヤリと笑い呟いた。
「本当に、お嬢さんらしくないお嬢さんだ」
 まるで澪の秘密を言いあてたような彼の言葉に、澪の心臓は飛び跳ねる。
 だが特に深い意味はなさそうだ。
 圭一郎が澪の指摘に同意する。
「そう、君自身のためではない。すべては向坂自動車と五菱銀行の関係再開を円滑にさせるためだ。両者の関係が確かなものになる前に離婚という事態は避けなくてはならないからね」
 つまり彼は、伯父と同じ考えの持ち主だったというわけだ。ビジネスを成功させるためならば、手段は選ばない。
「正直なところ、この結婚を君が前向きに捉えていたとは意外だったよ。日程は伸び伸びになっていたし、写真もなかなか来なかった。嫌がって逃げ回っているのだろうと思っていたんだ。だからこそ、結婚生活は最大限君の希望を優先させるつもりだった」
 ——あくまでも、ビジネスのために。
「言っておくが、私にほかに恋人がいるということもない。私はそんなリスクはおかさない」
「……会社のためにプライベートをすべて犠牲にするということですか?」
 今の話が本当なら、彼は愛していない妻に操を立てることになる。澪には理解できない考え方だ。
 すると圭一郎は澪からスッと視線を逸らす。そして青い空を見上げた。
「それが私の役割だ。向坂家の長男に生まれついた時から、何万人という社員の生活が私の肩に乗っていて、彼らを幸せにする責任がある。そのためなら、私のプライベートなど些細なことに過ぎない」
 日の光が透ける黒い髪を風が揺らす綺麗な横顔を見つめながら、思わず澪は問いかける。
「それで、……つらくはないのですか?」
 だって社員を幸せにしたとしても、自分が幸せではないのなら意味がない。どうしてそこまでできるのか、やっぱり理解できなかった。
 圭一郎がゆっくりと澪に視線を戻した。
「つらいと言ってなにになる? やることは変わらない」
 その真っ直ぐな眼差しに、澪は目を見開いた。
「もちろん会社は巨大な組織なのだから、私だけの力で動いているわけではない。たくさんの才能と優秀な人材が会社を発展させている。でもそれには、リーダーが必要不可欠だ。誰でもいいというわけではない。今のところ我が社でそれができるのは私だけだ。だから私がやるしかない」
 胸を突かれたような心地がした。
 理解できないという反発は一瞬にして吹き飛んで、強いリーダーとしての覚悟を決める目の前の男性に、強く心が惹きつけられる。
 リーダーは自分しかいないと言い切るこの男性を、きっと彼のもとで働く社員たちは信頼しているのだろう。その絆を羨ましいと澪は思う。
「そのために必要な結婚なのだから、私はそれを受け入れる」
 圭一郎がそう話を締めくくる。
 一片の迷いもなくそう言い切る彼に、澪はなぜか正体不明の落胆を覚えていた。
『受け入れる』
 彼にとってこの結婚は、会社のために必要だから仕方なく受け入れるものなのだ。それ以上でも、それ以下でもないのだろう。
 いずれにせよ、状況ははっきりとした。
「よくわかりました。結婚を嫌がったり離婚したいと言ったりはしないので安心してください」
 気持ちを切り替えなくてはと思う。
 幸せになる努力をすると心に決めていたけれどもちろんうまくいかないことも十分にありうると思っていた。だからこの結果は想定内、覚悟はしていた範囲内なのだから。
「なるべく、お仕事の邪魔にはならないようにします。形だけの妻として圭一郎さんが私になにをどこまで求められるのか、おしえていただければそのようにします」
 いわゆる仮面夫婦だ。澪の望んだ形ではないが、彼の本心を無理やりすべて聞いてしまった自分にはその役割を果たす義務がある。仮面をつけたままだとしても波風立てることなく普通の夫婦になろうとしていた彼の心遣いを、台無しにしたのだから。
「形だけの妻、か」
 圭一郎が呟いた。
「はい……役割は果たします」
 本当のところ澪は彼をもっと知りたいと感じていた。彼の覚悟と揺るぎない思いの裏になにがあるのか、普段の彼はいったいどういう人なのか。さらにいうともしかしたら彼とならば、当初思い描いていた夫婦になれるかもしれないという期待の芽が心の奥に芽生えている。
 ……でもそんなこと、彼にとっては迷惑でしかないだろう。
「形だけの妻……」
 圭一郎が口もとに手をあててその言葉を反芻している。
 言い方が気に触ったのだろうかと澪は少し心配になった。彼の口ぶりから考えてそれを望んでいるのは明らかだし、ほかにいい言い方を思いつかなかったのだけれど……。
「あの……、圭一郎さん?」
 呼びかけると、彼は「いや」と呟いて首を横に振る。そしてどこか清々しい眼差しで澪を見た。
「それはやめにしよう」
「え……?」
「腹の探り合いは終わったんだ。君の言う通り、信頼し合う幸せな夫婦とやらを目指すのも悪くない」
「……は⁉︎」
 思いがけず彼の口から出た前向きな言葉に、澪は大きな声を出してしまう。
「……ど、どうして急に?」
 圭一郎が肩をすくめた。
「そうしてみてもいいかなと思ったからだ。どちらにせよ結婚しなくてはならないなら、なるべくそこで前向きに生きていこう。君の考えはこうだろう? その姿勢には賛成だ。協力するよ」
 そう言われてもすぐに飲み込めるわけがない。さっき言っていたこととまったく違うじゃないか。澪は戸惑い目をパチパチとさせて彼を見る。
 圭一郎が、ニヤリと笑ってからかうような言葉を口にした。
「今さらか? 君の方は、こんな胡散くさいやつは信用できないし、夫として愛せそうにないと思った」
「え⁉︎ い、いえ、そんなことは……!」
 むしろその逆だった。そうなればいいなとついさっき思ったところだ。愛し合う……というところまでいけるかどうかはわからないが、それでも彼は信用できる人物のような気がしている。でももちろんそれを口にすることはできなかった。
「あの……でも、その……!」
 頬が熱くなるのを感じながら、澪はあたふたとしてしまう。突然の展開に頭がついていけていなかった。困り果てて彼を見ると、切長の目が、心底愉快そうに澪を見つめていた。
「君が、やっぱり形だけの妻がいいと言うなら、無理にとは言わない。好きな方を選べばいい。俺は、結婚生活は君の希望に沿うようにすると決めていたからね」
 確かに彼はさっきもそう言っていた。会社のためにこの結婚に失敗するわけにはいかないからと。あくまでも会社のために。
 でも今は……。
「どうする?」
 そう言って圭一郎は、澪に向かって右手を差し出した。さっきの彼の提案に乗るなら、合意の証の握手をしようということだろう。
 澪はこくりと喉を鳴らす。
 圭一郎が形のいい眉をあげて待っている。
 目を閉じて深呼吸をひとつすると、澪はその大きな手を取った。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
 力強く握られた瞬間に、澪の鼓動がとくんと跳ねる。
『今日はいいことがありそうね』
 母の声を聞いたような気がした。
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