仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
初夜
 静寂の森に包まれたホテルの一室で、キングサイズのベッドを前に、澪は立ち尽くしている。ベッドの向こうの窓からは、昼間なら雑木林の間から湖畔が見えるという話だけれど、今はもうとっぷりと日が沈み真っ暗だ。
 教会で行われた澪と圭一郎の結婚式は滞りなく終了し、招待客たちは帰っていった。澪と圭一郎はホテルに残り、このままこのロイヤルスイートルームに一週間滞在することになっている。
 新婚旅行の代わりだという。
 特別な客しか泊まれないホテルの中のさらに特別なこの部屋は、森に面した大きなバルコニーに繋がるリビングルームと書斎、ベッドルームがふたつある。
 宿泊客が快適に過ごせるように改装が施されているとはいえ、昭和初期に建てられたという部屋の趣はそのままで、調度品はすべて本物のアンティークだ。
 普段の澪だったら、各部屋のあちらこちらを見て回っただろうと思う。どちらかというと新しい物よりも、古くて味わい深い物の方が好きな澪にとっては、憧れのような空間だ。
 でも今の澪にその余裕はまったくない。いつまでもなく新婚初夜だからである。
 今日は長い一日だった。
 挙式からその後の披露宴、招待客の見送り、すべてのスケジュールを終えてこの部屋へ案内された頃には、すでに午後九時を回っていた。
 疲れただろうから先に風呂に入れと圭一郎に促され澪はその通りにした。そしてホテルが準備してくれた真新しいパジャマを着て主寝室へきたところである。そこではじめて澪は寝室のベッドの上に、真紅の薔薇の花が一輪置いてあるのに気がついた。
 新婚夫婦へのホテルからはからいだ。
 その薔薇の花に、否が応でもこの後、このベッドの上で起こるであろう出来事を思い出させられ、動けなくなってしまったというわけである。
 圭一郎の方は、澪と入れ替わりにバスルームを使っているから、もうまもなくしたら出てくるだろう。
 この状況。
 自分はいったいどこで彼を待っているべきなのだろう。
 ベッドの上? 
 ……その勇気はさすがにない。
 リビングルーム?
 ……は、なんだか変な気がするし。
 もうひとつのベッドルーム?
 逃げたのだと思われるだろう。
 薔薇の花を見つめたまま、澪は途方に暮れてしまう。
 どうすればいいか、まったくわからなかった。さらにいうと、少し怖い。
 幸せな夫婦になりたいと見合いの日に豪語したくせにここまできて弱気になるなんて、自分で自分が情けなかった。
 でもそれも仕方がないと澪は心の中で言い訳をする。なにせ澪には恋愛経験はほとんどない。
 学生時代は、本当は庶民だと散々琴音に言いふらされたから、同級生たちには男女問わず遠巻きにされていて彼氏どころか友達もろくにできなかった。
 社会人になってからは一度だけ、取引先の人と請われるままに付き合ったが、深い関係にはならなかった。穏やかな優しい人だったし、彼を知る同僚たちは皆、素敵な人だと言ったけれど、男性としては好きになれなかったのだ。
 ある夜、食事の帰りに車の中でキスをして、彼に対する気持ちは友人としての好意だと気がついた。唇が触れた瞬間に説明のつかない違和感を覚えたのだ。
 目を閉じて澪は圭一郎の誓いのキスを思い出す。ふわりと触れた温もりはほのかに甘い香りがした。鼓動がとくんと跳ねたけれど、あの違和感はなかった。
 大丈夫。
 圭一郎に触れられること自体を、身体が拒否しているわけではない。ただそれらしい段階をまったく踏まずに一足飛びに深い関係になることに、怖気付いているだけなのだ、自分の中の素直な気持ちを確認し、澪が目を開けた時。
「いつまでそうしているつもりだ?」
「ひゃっ‼︎」
 突然話しかけられて澪は声をあげて飛び上がる。恐る恐る振り返ると、圭一郎が腕を組んで立っていた。いつのまにかバスルームから出てきていたようだ。
 大きな声をあげた澪に、彼は一瞬目を見開いて次の瞬間吹き出した。そしてそのまま口元に手をあてて、くっくっと肩を揺らして笑っている。
「そんなに驚かなくても……!」
「だだだって……! い、いきなり声をかけるんだもの! お、驚かさないでください」
 ドギマギする胸を押さえて澪がそう抗議すると、彼は笑ったまま肩をすくめた。
「いきなりじゃないよ。随分前に風呂から上がってきてここにいた。君はあのベッドに夢中で気が付かなかったみたいだけど」
 寝室の薔薇のベッドに視線を送り、からかうように彼は言う。
 その意味深な言葉に、澪の頬が熱くなった。
「む、夢中だったわけじゃ……」
「ふうん、そう?」
 圭一郎は澪を追い越してすたすたと寝室へ入り、ベッドに腰を下ろす。そして余裕たっぷりに微笑で、澪に向かって首を傾げた。
「君もこっちへおいで」
 その言葉に、澪は目を見開いて息を呑む。ついにこの時がきてしまったのだ。 いよいよ覚悟を決めなくてはと、自分自身に言い聞かせた。
 幸せな夫婦になりたいならば、これは避けて通れない。
 どきんどきんとうるさいくらいに鳴っている胸の鼓動を聴きながら、澪がうまく動かない足で無理やり一歩踏みだした、その時。
「くっ……くくく、ごめんごめん。嘘、嘘」
 圭一郎がまた笑い出し、右手でストップの合図をした。
 いったいなにが『ごめん』なのか、そしてどこが『嘘』なのかさっぱりわからない澪は、そのままそこで首を傾げて固まった。
 圭一郎が言葉の意味を口にする。
「まだできそうにないんだろう? 無理をする必要はない。ちょっとからかってみただけだ」
 そう言って笑い続けている。
 その様子に澪はムッとして、思わず頬を膨らませた。
「か、からかったって……。こっちは真剣なのに。……笑うなんて悪趣味だわ」
 そのまま口を尖らせてぶつぶつと言う。
「で、できないなんて、勝手に決めつけて……」
「へぇ」
 圭一郎が眉を上げた。
「誓いのキスだけで、あんなにびびってたのに?」
「なっ……! び、びびってなんかないです! ただちょっと緊張してただけで」
 真っ赤になって澪は反論する。
 それを彼は鼻で笑った。
「眉間に皺を寄せて震えてけど。あまりにもかわいそうなんで、頬に軌道修正した礼を言ってほしいくらいだ」
 そう言って立ち上がり、澪がいる部屋の入口までやってくる。
「とにかく、俺はあっちのベッドルームで寝ることにするよ。君はここを使って」
 そしてそのまま部屋を出ていこうとする。その彼を澪は無意識のうちに引き止めた。
「あ……! 待ってください!」
 圭一郎が足を止めて振り返った。
 背の高い彼を見上げて、澪はこくりと喉を鳴らす。今この瞬間に澪の中で覚悟ができたような気がした。
「あの……、誓いのキスの時はすみませんでした。私、大丈夫です。……だから、その……」
 さすがに続きは言えなくて、最後はごにょごにょと言う。でもそれで意図は伝わったようだ。圭一郎が首を横に振った。
「べつに謝ることはない。君は女性なんだから抵抗があって当然だ。それに時間はたっぷりあるんだから、焦る必要もないだろう。だいいち俺は嫌がる女性を抱く趣味はない」
「い、嫌じゃないんです。あの……」
 言いながら澪は一生懸命に考えを巡らせた。
 さっきまで怖いと思っていたのは確かだし、今だって怖くないわけではない。でも彼となら大丈夫かもしれないという気持ちが芽生えたのも確かなのだ。
 彼との触れ合いに怖気付く澪に、誓いのキスは頬にして『無理をしなくていい』と言ってくれた彼となら。
 だって本当なら責められてもおかしくはない状況だ。
 見合いの日わざと挑発的な言葉を口にして、幸せな夫婦になりたいと宣言したのは澪なのだ。言っていることにまったく行動が伴っていない。それなのに、嫌な顔ひとつせずに気遣いの言葉を彼はくれた。
 べつに今じゃなくていい、それはそうかもしれないけれど、今この機会を逃したらいつまでもできないような気がする。
「い、嫌だというわけではないんです。ただ、私、その……経験が……」
 そこまで言って口籠ると、圭一郎が口を開いた。
「なら、尚さらだろう。俺だって君のつらい思い出にはなりたくない」
 その言葉に澪は被りを振る。
「そうはならないと思います」
 そして圭一郎の手を取った。
 逞しい腕と大きな手、その温もりに胸の鼓動がとくとくとくとスピードを上げていく。やっぱり大丈夫、と澪は確信する。彼に触れることに澪は……。
 圭一郎が訝しむように澪を見ている。有能で、理性的な彼を説得するにはどう言えばいいのだろう。澪は考えながら口を開いた。
「……一度だけ、お付き合いした人がいたんです。とても親切でいい人でしたけど、どうしてもキスより先には進めませんでした。身体に触れられることに抵抗があったんです。……でも」
 そう言って澪は、圭一郎の手を両手でぎゅっと握った。
「圭一郎さんなら、大丈夫だと思います。どうしてかはわからないけど、嫌じゃないんです。だから、その……」
 そこまで言って、その先は言えずにうつむいて目を閉じる。これ以上は恥ずかしくて、とても言えそうにない。
 しばらくの沈黙。
 やっぱり無理だろうかと澪が心配になった時、圭一郎の手がゆっくりと澪の頬に移動した。大きな温もりがすっかり火照った澪の頬を包み込む。
「……これも、嫌じゃない?」
 圭一郎が問いかける。
 目を閉じたまま頬ずりをして、澪は素直な気持ちを言葉にする。
「はい。……心地いい……です」
 目を開くと、眉を寄せて少し困ったような表情の圭一郎と目が合った。
 その彼の反応に澪は急に不安になる。自分の方はいいとしても、もしかしたら彼の方は逆なのではないだろうかと思ったからだ。
 男性だって相手を選ぶ権利がある。
「あの……」
 それならば、と澪は一旦身を引こうとする。
「私、やっぱり……きゃっ!」
 でもそれより先に腰に回された彼の腕にぐいっと引き寄せられて、あっというまに大きな腕の中に収まった。
 ゼロになったふたりの距離と、くらくらするような濃い香りに包まれて、身体の中心に火がつけられたような心地がした。すぐ近くにある圭一郎の眼差しが射抜くように澪を見つめている。親指が、澪の唇をゆっくりと辿りだす。
「つっ……!」
 その感覚に、ぞくぞくするような得体のしれないなにかが澪の背中を駆け抜ける。甘い息が漏れそうになるのを目を閉じて必死に耐えた。
 ゆっくりと近づく、彼の吐息。
 ……はじめては、羽が触れたように優しくて、物足りなさすら感じるくらいだった。
 ……もう一度。
 今度は確かめるようにゆっくりと。
 離れたと同時に、澪は甘い息を吐く。
 ああさっきは我慢できたのに。……でももう一度してほしい。
 そう感じたその刹那、彼の親指が澪の唇をやや強引に割る。そして熱く塞がれた。
「んっ……!」
 彼のパジャマを両手で掴み背中をしならせて、澪はその衝撃を受け止めた。柔らかい彼の熱が澪の中へ入り込みあちらこちらに触れる感触に、頭の中が真っ白になっていく。腰に回された腕に身を任せて、ただされるがままだった。
「ん……! あ……」
 澪が声を漏らすたびに、繰り返される口づけが激しさを増してゆく。息苦しくて彼の胸に手をつくと唇がわずかに離れる。
「……嫌か?」
 その問いかけに、澪は小さく首を振る。
 嫌じゃない、もっとしてほしかった。
 彼のキスが気持ちよくてたまらない。こんな風に感じるなんて、自分はどうかしてしまったのだろうか。
「大丈夫で……きゃっ!」
 最後まで言い終わらないうちに、抱き上げられて、そのままベッドに寝かされた。
 そしてまた熱く唇を塞がれる。
 シーツの冷たい感覚と燃えるような熱い唇、はじめての衝動に、頭が焼け切ってしまいそうだ。大きな手がパジャマの上から身体を辿る。その感覚に体温が上昇する。
「あ、圭一郎さ……」
「どうしても、嫌なら合図しろ」
 耳元で囁かれる低い声に、頷くこともできないままに、澪は彼の腕に身を任せた。
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