仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
挙式
 澪と圭一郎の結婚式は、豊かな森に囲まれた古い教会で執り行われた。都内から電車で二時間ほどのこの避暑地は、皇族が夏に訪れることで知られている。
 お金持ち同志の結婚式なのだからきっと豪華なホテルで盛大にやるものだと思っていた澪からしたら、意外なほどこじんまりとしたその教会は、なんでも向坂自動車の創業者である圭一郎の曾祖父が結婚式を挙げた思い出の教会だという。歴史あるクラシックホテルの広大な敷地内にある。
 ステンドグラスから差し込む日の光の中で純白のドレスに身を包み、澪は隣に立ち神父の言葉を聞いている圭一郎の横顔を盗み見る。
 見合いの日から一カ月半の間に、彼と顔を合わせたのは衣装合わせの際の一回のみ。式については花嫁が澪と決まる前から準備は進んでいたようだから、それでなんの問題もなかった。
「……それでは、誓いのキスを」
 神父からの合図で圭一郎と澪は向かい合う。綺麗な瞳と目が合った。
 ドレスの下で、澪の鼓動がトクンと跳ねる。
 深いダークブラウンのスーツを着てキチンと髪を撫でつけた背の高い目の前の男性を、素直に澪は素敵だと思う。あの見合いの日、はじめて顔を合わせた時も彼は高級なスーツを着ていたけれど、こんな風には感じなかったのに。
 淡い光が照らす中、ぼんやりとそんなことを考える澪の頬に大きな手が添えられる。少し乾いたその感触に、澪はぴくりと反応した。思わず肩に力が入る。
 そうだ今から誓いのキスだ。招待客が皆自分たちに注目している。ぼーとしている場合ではない。
 ゆっくりと近づく圭一郎に、澪はギュッと目を閉じた。
 もちろんはじめてのキスではない。
 でも、恋人でもなければ好きだというわけでもない、二回しか会ったことのない相手とキスをする、という経験ははじめてだ。
 これは誓いのキスなのだから、思いを伝え合うものではない。書類に判子を押すようなものだと、澪は自分に言い聞かせてその時を待つ。
 ……右の頬に、ふわりと温もりを感じて目を開くと、彼はゆっくりと離れていく。
「おふたりは夫婦となられました」
 教会内に響き渡る神父の言葉で、唇ではなく頬にキスされたのだと気が付いた。
 古いオルガンが讃美歌を奏でるのを聴きながら、澪は途方に暮れる思いになる。
 夫婦になるということが、実際なにを意味するのか急に実感したからだ。もちろん頭ではわかっている。でもこの一カ月間はとにかくやることが多すぎて、それどころではなかったのだ。
 いや本当は無意識のうちに考えないようにしていたのかもしれない。
 夫婦とは、ただ同じ家に住み同じ苗字を名乗るだけではない、愛し合うのだということを。そしてそれが具体的になにをするのかということを。
 嫌だとは思わない。
 拒否したいわけじゃない。
 ただ今隣にいる彼とそうなることがまったく想像できなくて、不安だった。それなのにもうふたりは夫婦になってしまったのだ。"その時"はもうすぐそこまで迫っている。
 ——どうしよう、まったく覚悟できていないのに。
 柔らかな日差しに包まれた教会に響く讃美歌を聞きながら、澪はぐるぐると考え続けていた。
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