崖っぷちOL、セクハラオヤジと命がけの決闘 ~オフィス街白昼の死闘~
「いいわよ! 殺し合い! 決闘よ!」
 アラサーの直美はセクハラ部長をにらむと啖呵を切った。
 ポリコレが行き過ぎたガチガチの高ストレス社会の対策として、日本政府は『格闘競技規制緩和制度』通称『決闘制度』をスタートさせたのだ。これは誰でも簡単に殴りあうことができ、それを日本政府が支援し、職場などにおける不満の解消を狙い、同時にコンテンツ化して社会の活性化を狙ったものである。

 話は数分前にさかのぼる――――。

「この給料泥棒! 栄養がみんなオッパイに行っちゃったんじゃねーの?」
 脂ぎった中年オヤジはそう言って直美の豊満な胸をはたいた。
「セクハラは止めてください! そもそもこれは部長の指示通りですよ?」
 直美は胸を腕で守り、反論する。
 三十歳の誕生日を目前に控えながら、先日彼氏から別れを切り出されていた直美は、ドロリとした漆黒の(おり)を心に抱えていた。そんな中でも、仕事に穴はあけられないと、崩れそうな自分の心にムチを入れ、必死になって仕事を進めてきたのにこのセクハラである。奥歯をギシギシときしませながら必死に耐えていると部長は続けた。
「ふん! なんだお前生理か?」

 この瞬間、直美の中で何かがプツンと切れた。
「ふざけんな! クソジジイ!」
 直美は一歩迫ると叫んだ。
「はぁ? 何? どうしようっての? 決闘でもすんのか?」
 部長は気圧されつつも、バカにしたような笑みを浮かべて言った。
 直美はキッと加齢で濁った部長の眼をにらむと、持っていたファイルを床に叩きつけて叫ぶ。
「言ったわね! いいわよ! 殺し合い! 決闘よ!」
 バサバサッ! と音を立てながら書類が辺りに散らばっていく。
「うぉぉぉ!」「キャ――――!」「スゲ――――!」
 オフィスにいる人たちは皆立ち上がり、興奮し、直美の決断に歓喜の声をあげた。

 唖然(あぜん)とする部長を尻目に直美はスマホを取り出し、決闘申請アプリを起動する。
 ピロロン!
 部長のスマホが鳴り、メッセージが表示される。
『川端直美より決闘の申請がありました。受諾しますか? はい/いいえ』
「お、おいおい、本気かよ……」
 社内の揉め事を公にするのはマズいことだった。部長は及び腰で冷や汗を浮かべる。

 バーリトゥード! バーリトゥード! バーリトゥード!
 日頃から無能な部長のセクハラパワハラにウンザリしていた社内のスタッフは手拍子をしながら直美を応援する。

「なら、セクハラパワハラを謝罪してください!」
 みんなの応援に気を良くした直美はニヤッと笑い、部長に迫る。
「いや、あれは言葉のアヤというか……」
 しどろもどろの部長。
「決闘はあなたが言い出したんですよ? ちゃんと謝罪して、もう二度とセクハラ、パワハラはしないと誓いなさい!」
 直美は毅然と言い放つ。
「謝罪……?」
 部長の目の色が変わる。
「小娘が……言わせておけば! ギッタンギッタンにしてやる!」
 そう言いながら部長はスマホの「はい」をタップした。

 ブイーン! ブイーン!
 その瞬間、緊急地震速報のように周囲数百メートルのスマホが全てけたたましく鳴り響く。
「うお――――!」「うわぁぁぁ!」「誰だこれ!?」「すごーい!」
 オフィス街は興奮のるつぼと化した。
 全てのスマホの画面には『決闘が行われます。速やかに環境整備にご協力ください』と、表示されている。
 女子社員とセクハラオヤジとの決闘は稀に見る好カードであり、あっという間にSNS上で拡散していく。
『キタ――――!』『セクハラオヤジぶっ潰して!』『ktkr!』『小娘鳴かせちゃえ』『有給取らな!』『うひょ――――!』

 ドタドタドタ!
 人事課長が真っ青な顔をして走ってくる。
「あなたたち! 何をしてるんですか!?」
「あら? セクハラパワハラをあれだけ報告したのに、何もしてくれなかったのは人事課ですよね?」
 直美は腕を組みながら険しい表情で人事課長をにらんだ。
「あ、いや、だからといって君、これはマズいよ。部長もなんで受諾しちゃうんですか?」
 人事課長は困り切った顔で部長に言う。
「降りかかる火の粉は払わんとならん。吹っ掛けてきたのはこいつだ。こいつが死んだら遺族にしっかりと説明してくれよ」
 部長は興奮冷めやらぬ様子でそう言った。
「ふーん、殺すつもりなのね。だったらこっちもその気でやるわ」
 直美はギリッと奥歯を鳴らす。
 部長はいやらしい笑みを浮かべながら直美を指さし喚いた。
「決闘で殺しても犯罪にならんからな。ボクシングと一緒だ。確実にぶっ殺してやる! 遺言書いとけよ!」
 そして、オフィスのみんなを睥睨し、
「一週間後の決闘まで俺はリモートになる。なんかあったらメール入れとけよ。売上落とすんじゃねーぞ!」
 そう叫ぶとカバンを持ち、スマホを見ながらスタスタと足早に退社して行った。

         ◇

「直美さん! サイコーっす!」
 同じチームの康之(やすゆき)が駆け寄って来て叫んだ。
「あのセクハラオヤジ、ギッタンギッタンにしてやるんだから!」
 直美はこぶしをギュッとにぎって見せる。
「うちのメンバーみんなスカッとしてますよ」
「ふふっ、みんなのためにもぶっ飛ばさないとね」
 うれしそうにオフィスのみんなを見回し、ニヤッと笑う直美。
「で、直美さん、対策考えてるんですか?」
「た、対策? あの何とかスーツってのを着てボコボコ殴ればいいんでしょ?」
「えっ!? もしかして何の準備もしてないんですか!?」
 青ざめる康之。
「だ、だって、いきなりだったんだもん……」
 直美は口をとがらせてうつむく。
「ふぅ……、僕が特訓します!」
 康之は大きく息をつくと、真剣なまなざしで直美に言った。
「えっ? 特訓って……康之は決闘やったことあるの?」
「みんなには言ってなかったんですが、実は一度だけ……。勝つためのノウハウは持ってます」
 するとチームリーダーがパチパチパチと拍手しながらやってくる。
「いいね、いいね! じゃあ二人は一週間有給休暇取りなさい。部長のパワハラ止めるためならみんな……協力してくれるよな?」
 そう言って周りを見回すリーダー。
「大丈夫です!」「幾らでも残業するから勝ってください!」「夢、たくしましたよ!」
 メンバーはみんなノリノリで応援してくれる。
「み、みんな……、ありがとう……」
 手を合わせ、ウルッとする直美。
「僕がちゃんと勝たせます! 皆さんのご恩は忘れません!」
 康之は丁寧に頭を下げた。

        ◇

「違います! 違います! もっとこう、腰落として!」
 康之は真剣に直美を指導する。
 決闘は戦闘不能になるまで殴り合うだけの単純なルールだ。ただ、体格差を埋めるため、日本政府提供のパワードスーツを着て、特殊な攻撃ガジェットで攻撃を行う。一番メインの武器は『アームドパンチ』。普通にこぶしで殴るだけで、相手に当たった瞬間に炸薬が破裂し、激しい衝撃を相手に浴びせることができる。逆にアメフトの装備のようなパワードスーツの防御装備は強靭で、普通に殴っただけではほとんど相手にダメージが通らない。いかにこのアームドパンチを相手の頭に叩き込むかという勝負になっているのだ。
 他にもカメハメ波のような火炎放射器や派手な演出ができるプラズマボールなどもあるが、ほとんどの決闘はアームドパンチでケリが付いている。
 それから五日間、二人は朝から晩まで政府の練習場でマンツーマンの必死の練習を続けた。
 しかし、日頃運動していなかった直美にとってその練習は限界を超えてしまっている。全身筋肉痛で身体が悲鳴を上げていたのだ。

「ダメです! ガードが下がってますよ!」
 康之は発破をかけたが、直美は目を閉じてうなだれた。
「ど、どうしたんですか?」
「こんな練習しなくても勝ってやるわ。中年オヤジになんて負けない」
 そう言って、ズシン! とパワードスーツのままあおむけにひっくり返った。
「いやいやいや、部長だって人生かかってます。そう簡単に勝てないですって」
「康之はなんでそこまで私の勝負にこだわるの? 関係ないじゃん」
 すっかりすねてしまった直美はジト目で康之を見る。
「僕にとって直美さんは憧れの人なんです。他人が嫌がる仕事も嫌な顔一つせず淡々とこなし、部長に対してもしっかりと言う事言ってくれて、メンバーを何度も守ってくれました。僕にはできないことをやりのける大切な先輩、先輩は部長になんて負けちゃいけない人なんです!」
 力説する康之。
「ははっ! ありがと。でも、実態は行き遅れのヒステリーババア。こんな決闘なんかしちゃったらもう誰も女としてなんて見てくれないわ。勝っても負けても地獄……自滅よ」
 直美は目に涙を浮かべながら吐き捨てるように言った。
「何言ってるんですか! 正しいことを貫く姿勢はみんなが認めてくれてるんですよ。直美さんはパワハラ、セクハラで悩んでいる多くの人たちの希望の星なんです!」
「ふっ、勝手に自分の夢を背負わせるなって言うのよ。戦うのは、殴られるのは私なのよ? あんた分かってんの? ……、うっ、うっ……」
 腕で顔を隠しながら嗚咽(おえつ)を漏らす直美。
「あっ……、ご、ごめんなさい……」
 初めて見る直美の泣く姿にオロオロする康之。
 目先の技術のことばかりで、ギリギリまで追い込まれていた直美の心の辛さを分かってあげられなかった、それは康之の落ち度だった。康之は硬い床に正座をして直美が落ち着くのを待つ。
「もういいわ……、帰って。こんな行き遅れババアとずっと一緒にいることなんてないわ」
 直美は投げやりに言う。
「ババアなんて止めてください。な、直美さんは、ぼ、僕の理想なんです」
 康之は真っ赤になって言う。
「はぁ? なに、君、私にほれてる……の?」
 信じられないという顔で康之を見る直美。
 静かにうなずく康之。
「ちょ、ちょっと待って! じゃあ何? 特訓してくれてるのも私が目当て?」
「直美さんの力になりたい、それだけです。下心からじゃありません」
 康之は正座のまましっかりとした目で直美を見た。
「はぁ……。君ね、二十四だっけ? 若すぎ。それに私ね、彼氏に振られたばかりで次の男なんてすぐに考えられないからね。特訓してくれたからってなびかないわよ?」
「構いません。直美さんの力になれる事が僕の幸せです」
 直美は肩をすくめ首を振ると、
「何でもいいけど今日はもうおしまい。もう身体が持たないわ」
 そう言ってパワードスーツのベルトをゆるめた。
「はい。ただ、明日は決闘前日。一番大切な日です。今日のこと、全部忘れてください。僕も忘れます。僕を嫌いになっても明日は絶対来てください」
 直美は正座してる康之をキッとにらみ、
「ちょっと考えさせて」
 そう言うと更衣室へと去って行く。
 ふぅ……。康之は目をギュッとつぶって頭を抱えた。

        ◇

 翌日遅れてやってきた直美は、昨日のことを一言も言わず、淡々と攻撃と防御の確認を進めていく。
 康之も直美の心を乱さぬよう、平静を装って淡々と技術的な指摘を続けていった。

        ◇

 うわぁぁぁ!
 大歓声がオフィス街に響き渡る。
 オフィス街の大通りを通行止めにし、道の真ん中に設けられた特設リングに司会が上ったのだ。
「レディース、エンド、ジェントルメン! 今日は見に来てくれてありがとうっ!」
 真っ白のスーツを着てノリノリの司会は、オフィス街にぎっしりとつめかけた観衆に大きく手を振った。
 うぉぉぉぉ!
 まるで地響きのように観衆の熱気が吹け上がる。
 首からIDカードをぶら下げたサラリーマンやスーツ姿のビジネスマン、そして女子社員の集団などが目をキラキラさせながらリングを見つめる。
 中には横断幕を作ってきたフェミニスト集団や、中年男性を擁護したい中高年のオッサンのグループも見える。
「司会はワタクシ、厚生労働省人材活力開発室室長上田正樹が勤めさせていただきます。それでは決闘者の入場です! 青コーナー、中高年オッサンの星、太陽物産営業部部長山田せーいーじー!」

 おぉぉぉぉ!
 控室を兼ねた特殊な大型バスから部長が登場し、青いパワードスーツでリングへと向かう。ズシンズシンと重機のような音を立てながら周りに手を振り、余裕の笑みを浮かべている。

 紅いパワードスーツに身を包んだ直美は、バスの中でつぶやいた。
「ど、どうしよう……」
 地響きのような観衆の熱気に圧倒され、怖気づいてしまっている。心臓がドックンドックンと高鳴り、呼吸が速くなってしまっていた。
 こんな調子では到底まともな試合はできない。
「大きーく深呼吸を、三回」
 康之はニコッと笑って言った。
 直美はチラッと康之を見ると、素直に深呼吸を繰り返す。
「絶対負けない方法を教えます」
 康之は直美の目をまっすぐに見て優しく言った。
「絶対負けない……?」
「諦めなきゃいいんですよ。諦めない限り絶対負けません」
「はぁ?」
 怪訝(けげん)そうな顔をする直美。
「『決闘』は体格差関係ない、つまり、気持ちが強い方が勝つんです。セクハラオヤジに負けていいんですか?」
「いやよ! 泣いて謝らせてやるんだから!」
「そう! それ! どんなピンチになっても最後まで諦めなければ必ず勝てます。絶対です」
「諦めなければ勝つ……。そうね。康之……、ありがと……」
 直美はそう言うとニコッと笑った。

 司会の声が聞こえてくる。
「続いて、赤コーナー、オフィス街に舞い降りた紅い天使、セクハラファイター川端なーおーみー!」
 うぉぉぉぉ! わぁぁぁぁ!
 ひときわ高い歓声がオフィス街に響き渡る。

「諦めない私が勝つ!」
 直美はそう叫ぶとバスを飛び出した。見回すとそこには人人人。みんな何かを叫びながら直美に熱い視線を送っている。そう、セクハラパワハラにみんな困っている。だからわざわざこんなにたくさん応援に来てくれているのだ。
 直美はこの人たちのためにも絶対に負けられないと、決意を新たにし、ギュッと握ったこぶしを高く突き上げた。
 ネットでもこの模様は広く中継され、同時視聴者数は一千万人を超えている。乱れ飛ぶコメントはもはや目にも止まらない速度で流れていった。

          ◇

 リング上でにらみ合う両者。
「ギッタンギッタンにブチ殺してやる!」
 部長は目を血走らしながら吠え、
「泣いて謝らせてやるわ!」
 と、直美はうれしそうに笑った。

 司会は簡単なルールの説明をし、両者の顔を確認すると叫んだ。
「ファイッ!」
 カーン!
 ゴングの鐘がオフィス街に響き渡る。
 部長は開始と同時に腰を低くして両手を合わせ、火炎放射を放った。
 ゴォォォ! という重低音が響き渡り、鮮烈な炎が直美を襲う。その灼熱の炎の熱気はすさまじく、オフィス街はオレンジ色に染まる。

 きゃぁっ!
 その激しい熱線に観衆の女性陣から悲鳴が上がる。
 しかし、直美は冷静だった。両手の腕でしっかりとガードし、左右にステップを踏みながら炎を避けつつ距離を詰めていく。
 火炎放射の有効時間は五秒。直美はカウントダウンしながらタイミングを待つ。部長はパワードスーツで強化されたすばしっこい直美に翻弄(ほんろう)されていた。

「五!」
 直美はそう叫びながら炎が尽きた部長の前に躍り出ると、渾身(こんしん)のパンチを部長の顔めがけて放った。
 ズン!
 こぶしはとっさにガードした部長の腕に当たり、炸薬が破裂し重厚な音を立てながら部長の腕をきしませた。
 くっ!
 部長は苦悶の表情を浮かべる。

 キンキンキン……
 排出された空の薬きょうが床に落ちて澄んだ高い音を奏でた。
 直美はここぞとラッシュする。
「オラオラオラオラァ!」
 繰り出される左右のパンチが次々と部長を襲い、ロープ際に追い込まれた部長は防戦一方だ。

 うおぉぉぉぉ!
 興奮した観衆の大歓声がオフィス街を地鳴りのように響く。
「な・お・み!」「な・お・み!」「な・お・み!」「な・お・み!」
 応援団を組んだ女性陣が横断幕をゆらしながら歓声を上げる。

 しかし、部長のガードは堅く、有効打は入らない。
 焦る直美。
「フックだフック! 直美さーん!」
 リングサイドから康之が叫ぶ。
 直美は大きく振りかぶり、教わったばかりのフックを繰り出そうとした。
 しかしそのわずかなスキを部長は見逃さない。
 シュッと素早いジャブを直美の顔面に放ったのだ。
 ズン!
 きゃぁ!
 吹き飛ばされる直美。
 ジャブであっても炸薬で強化されたパンチは直美の脳を揺らし、軽い脳震盪(のうしんとう)で立ち上がることができない。

 ひゃぁ! あぁぁ!
 会場に悲痛な叫びがこだまする。
 部長はニヤリと笑うと、素早く仰向けになった直美の上に飛び乗りマウントポジションをとった。
 そしてアームドパンチを打ち下ろす。

 ズン! ズン!
 直美のガードした腕をしたたかに打ち据える重い音が、鈍くオフィス街にこだまする。

 くぅっ!
 直美は必死にガードする。もう一度頭に食らったら意識を失いかねない。
「本当はベッドの上でこうやりたかったがな。ぐふふ」
 部長はいやらしい顔で次々とハードなパンチを打ち下ろす。

 ぐはっ!
 直美のパワードスーツはギシギシと悲鳴を上げ、腕がしびれてくる。

「いいぞ!」「やっちまえ!」
 スーツにネクタイの中高年のオッサンたちが声をあげる。
「セクハラ、セクハラってうるさいんだよね」「イケメンがやればセーフなんだろ? 差別だよ」
 オッサンたちはここぞとばかりに日頃のうっ憤を晴らす。
「何言ってんのよ!」「イケメンは迫ってきたりしないの! 一緒にすんな!」
 隣のおばさんたちがすごい剣幕でまくし立てる。
 オッサンたちはリングを指さし、反論する。
「男の方が強く、有能なの! 女は黙ってろ」
 おばさんたちは奥歯をギリッとかみしめると、
「なおみちゃーん!」「がんばってー!」
 と、口々に絶叫した。
 ボコボコに打ち据えられる直美。
 そんな姿に多くの観客は両手のひらを組み、ひたすらに無事を祈る。
「な・お・み!」「な・お・み!」「な・お・み!」「な・お・み!」
 自然と湧いてくる『直美コール』に多くの人が声を合わせる。
 オフィス街には悲痛な『直美コール』が響き渡った。
 『直美コール』に勇気をもらいながら、直美は砕けそうな腕の痛みに必死に耐える。そして、康之の言葉を思い出し、ギュッと目をつぶって、
「諦めない! 諦めない! 絶対、諦めない!」
 そう小さく叫ぶ。

「もう少しだ、お前の腕を砕いてやる!」
 部長は顔を真っ赤にさせながら、鬼のような形相で全体重をかけてパンチを打ち下ろした。
 だが、ぽすっという音がしてアームドパンチは起動しない。
「あれっ!?」
 部長は左右でボコボコと殴ってみるもののアームドパンチは二度と出なかった。
「あんた。説明書ちゃんと読んでないでしょ? 仕事できない奴の典型だわ」
 直美はニヤッと笑うと部長に向けて両手首を合わせる。
 直後、火炎放射器の業火が部長を包んだ。

 ぐわぁぁ!
 たまらず逃げだす部長。
「アームドパンチは使いすぎると熱で止まるのよ。この無能!」
 直美がそう言いながら駆け寄ると、部長は必死に顔面をガードする。
 直美はニヤッと笑うと、部長のがら空きのボディーに強烈な一発をお見舞いした。
 ぐはぁ!
 目を真ん丸に見開き、顔面蒼白の部長。あまりの激痛に思わずガードが下がる。その隙を見逃さなかった直美は、
「セクハラ撲滅!」
 そう叫びながら、思いっきり右ストレートを部長の顔面に叩きこむ。
 ズン!
 炸薬がはじける重い音がして部長の首が変な方向を向く。

 うぉぉぉぉぉ!
 観衆の絶叫が響き渡り、興奮は最高潮に達した。

 そして、吹き飛ばされた部長は半ば意識を失いながらロープに跳ね返されて戻ってくる。
「パワハラ粉砕!」
 直美は左ストレートをがら空きの部長の顔面に叩き込む。
 吹き飛ばされた部長はフラフラになりながらまた戻ってくる。

天誅(てんちゅう)!」
 直美は康之に習ったばかりのアッパーカットを部長のあごに決め、パワードスーツの力を借りて上空へ吹き飛ばす。

 ぐふぅ……。
 部長の身体はオフィス街の空高く舞った。

 きゃぁぁぁぁ! うぉぉぉぉ!
 観衆の歓喜の声が響き渡る。

 ドサッ!
 部長はボロ雑巾のように床に落ちて転がり、司会が駆けつける。
 そして、司会は直美の手を取り、高々と掲げ、
「勝者! なーおーみー!」
 と高らかに宣言したのだった。

 わぁぁぁぁ!
 絶体絶命からの息をつかせぬ逆転劇、それはオフィスでセクハラやパワハラに苦しんでいる者たちの心をガッシリとつかみ、ネットでのスパチャには五万、十万レベルの金が乱れ飛んだ。
 康之は目に涙を浮かべ、うなずきながら拍手をする。
 そして、直美はそんな康之の方に向かって両手を高く突き上げ、勝利を体中で表現したのだった。

 ところが、次の瞬間、直美はチクリとした痛みを背中に感じた。
「え?」
 振り向くとそこには部長がいて、何かを背中に当てている。
「お前が悪いんだからな。警告した通り死んでもらうぞ。ふはっ! ははははっ!」
 直後、複数の警察官が部長を体当たりで取り押さえる。
「確保! 確保ぉ!」「殺人未遂現行犯で逮捕!」
 直美は何があったのか分からなかったが、全身に力が入らなくなって床にパタリと倒れ込む。
 司会が青い顔で叫ぶ。
「救急車! 急いで!」
 なんと、部長は隠し持っていたナイフで背中から直美を刺したのだった。
 おびただしい量の鮮血が床に広がっていく。
「直美さーん! 直美さぁぁぁん!」
 康之は駆け寄って直美の手を握りしめながら絶叫する。
 直美はポロポロと涙をこぼす康之の顔を不思議そうに眺め、そして静かにまぶたを閉じるとパタリと意識を失った。

 ピーポーピーポー!
 悲劇のヒロイン、直美は大観衆が騒然とする中、物々しい雰囲気で救急病院へと搬送されていった。

        ◇

 ピッピッピッピ……。
 病院のICUの前の長いすで康之は一人、手のひらを組みながらかすかに聞こえる心電モニターの音に集中していた。
 緊急手術は成功したものの、医者からは今晩が峠と言われている。
 この心電音が続く限りは直美は生きている。康之はただひたすらに祈り続けた。
「あの時、俺の方なんて向かなかったら避けられたのかもしれない……。俺のせいだ……」
 康之は頭を抱えポトリと涙をこぼす。

        ◇

『康之……、ありがとう……』
 康之の耳に直美の声が響いた。
 気がつくと、康之は青と白の世界で浮いていた。下には広大で清浄な湖面がどこまでも広がり、真っ青な水平線を描いている。空は光に満ち、見る限り延々と白の世界だった。
 直美はオフィスでのスーツ姿で優しい顔をして手を振っている。
 寝ぼけ眼で直美を見ていた康之は、心臓が止まりそうになった。なんと直美の後ろにうっすらと骸骨姿の死神が立っていたのだ。
『直美さん! ダメです! 戻ってきてください!』
『私、勝ったの。もう、思い残すことも無いわ』
 安らかな笑顔を浮かべる直美。
『ダメダメダメ! このままだと部長の勝ちです! セクハラオヤジを勝たしていいんですか!』
 必死に叫ぶ康之。
『え? 勝ったのは私よ?』
『そっち行ったら負けなんです! 戻ってきてください!』
『負け……?』
『そう、こっちに来てください。僕にまでたどり着けたら勝ちです』
『そこが勝ち……?』
 死神は徐々にその姿をくっきりとさせ、直美に向けて大きな鎌を振りかぶった。
『そう、早く!』
 康之は冷や汗をかきながら必死に手を伸ばす。
 直美は良く分かっていない様子だったがそっと手を伸ばした。
 死神が鎌を振り下ろす直前、康之は直美の手を握って一気に引っ張った。

       ◇

 バタン!
 気がつくと康之は長椅子の上に倒れ込んでいた。
「あ、あれ? 夢……?」
 いつの間にか康之は寝入ってしまっていたらしい。
 時計を見るともう朝。ピッピッピッピ……という心電モニターの音を確認して康之はホッとした。

 しばらくするとICUから看護師が出てくる。康之は手のひらを組み、祈るような気持ちで看護師をじっと見つめた。
 すると看護師はニコッと笑って言う。
「直美さん気がつかれましたよ」
「えっ!? もう大丈夫ですか?」
「峠は越えたので、大丈夫でしょう。よく頑張りました」
「やったぁ!」
 康之はガッツポーズをすると、そのままへなへなと床にしゃがみこむ。
 看護師はそんな様子を優しく見守ると声をかける。
「お話しますか?」
「ぜひぜひ!」

 康之は手を消毒し、簡単な防護服を着ると中へと入る。
 心電モニターやパルスオキシメーターなどが並ぶ中、たくさんのチューブに繋がれた直美がいた。
 康之は恐る恐る手を振って様子を見る。
 すると直美はゆっくりと微笑んだ。
「よ、良かった……」
 康之は張りつめていた緊張の糸が一気にほどけ、思わず目に涙が浮かぶ。
 直美も憔悴しきった康之を見て、思わず涙ぐんだ。
「はい、恋人さんが来ましたよー」
 看護師がベッドの脇に丸椅子を置いてくれる。
「え? 恋人……?」
 怪訝そうな直美に、康之は焦って耳元で小声で言った。
「手術承諾書に身内のサインが必要で、その時に『自分は恋人だから』と言ってサインして手術してもらったんです」
「え? 恋人じゃないんですか?」
 いぶかしげに看護師は二人を見る。
 うふふっ。
 直美はそう軽く笑うと、
「大丈夫です。この人は私の大切な、たーいせつな恋人です」
 そう言って康之の頭を引き寄せると、うれしそうに軽くキスをした。
「えっ!?」
 真っ赤になってドギマギとする康之。
「夢にあなたが出てきたわ。あなたのおかげで頑張れたみたい」
 直美は微笑みながらそう言った。
 康之はニコッと笑うと今度は自分から唇を近づけ、熱いキスを交わした。
 お互いを求めあう情熱的なキスに看護師はほほを赤らめながら、
「あらまぁ、若いっていいわねぇ」
 そう言って微笑んだ。
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