終わりを願って恋が始まる。

第3話 友達だった

村松遥 その3

「村松さん、……村松さん?」
「え、あ、ごめん」

 振り向くと、教室の入り口で合唱部の生徒が首をかしげて立っていた。聞こえているはずだよね? と。
 確かに「村松さん」を呼ぶ声は聞こえていたが、それが自分のことだと理解するのに時間がかかった。両親が離婚してもう一ヶ月近く経つのに、未だに「村松」という苗字に慣れていない。まりをはじめ、身近な友人は名前で呼ぶし。
 みんなが散らばる放課後の教室をすり抜けて、合唱部の人たちへと顔を合わせる。要件は分かっているから、最初から申し訳なさそうな顔をして。
 合唱部にはピアノを演奏できる生徒が少ないそうだ。だから各パートに別れて練習する際、臨時でピアノの演奏を頼まれていた。
 肩を落として帰っていく合唱部を見送って教室に戻るとすでに生徒はほとんどいなくなっており、カバンを肩にかけたまりが待っていた。

「どうした?」
「ううん、別に」

 私はまりの顔を見ずにカバンの中に教科書を詰め込む。
 もう随分と私はピアノに触れていない。毎日少しずつ、鍵盤を叩く感触もペダルを踏む加減も少しずつ忘れてしまっているような気がする。
 弾きたくないわけじゃない。だけど……。
 心に影がかかりそうになって慌てて話題を切り替える。

「それよりさ、荻野先生とデートどこ行けばいいと思う?」
「なに? また妄想に付き合えって?」
「違う違う。今度の日曜に行くんだけど」

 え、とまりは声を漏らすが私は気にせず帰りの支度を進める。

「遥、あんた本気で言ってるの?」
「なにが?」
「いや、デートって」
「行くよ。まりが告白よりもデートが先って言ったんじゃん」
「冗談に決まってるじゃん」

 まりの真剣な言い方に、私はやっとまりの顔を見た。

「そんなマジになんなくても」

 そう言って笑いかけるが、まりは笑ってくれなかった。

「最近いつも塾に残ってると思ったら。荻野も荻野だよ。最悪」
「別に荻野先生は悪くないよ。私から無理やり誘った感じだし」
「無理やりでもなんでも、女子高生とデート行くおっさんがまともなわけないじゃん。ちょっと考えればわかるでしょ」
「なにそれ。そんな言い方しなくてもいいじゃん」

 トゲトゲとした沈黙が私たちの間に流れた。どれほど時が経っただろう。バットが白球を捉える音や、吹奏楽部のチューニングの音が遠くに聞こえる。
 それらに紛れて、まりはぼそりと呟いた。

「遥、本当に荻野先生のこと好きなの?」
「何回も言ってんじゃん。好きだって」

 私はなぜかまりから顔をそらした。

「親が離婚したこと、本当は辛いんじゃないの?」
「は? なに急に」
「だってそうじゃん。遥はなんにも言わないけど、荻野のこと好きだって言い始めたのってお父さん出て行った頃でしょ」
「…………」
「寂しさを埋めるために、荻野先生のこと好きだって言い張って……」
「うるさいな! てか家族のことまで口出しして欲しくないんだけど。荻野先生のことだって。まりには関係ないじゃん!」

 顔を上げ再びまりの顔を見るとまりの目は今にも涙が落ちそうなほど潤んでいた。

「……そうだね。もう関係ないね」

 そう言葉を残し、まりは教室を出ていった。
 

荻野要 その3


 寒空の下、雲の切れ間から差し込む暖かな日差しを受け、檻の向こうのツキノワグマはやる気なさげに地面にふして溶けている。
 お前はいいな、気楽そうで。こっちは大変なんだぞ。
 
「見て先生! 超かわいい!」
 
 村松遥はいつのまにか少し先の動物ふれあいコーナーの中におり、ヤギに餌をあげながらキャッキャと喜んでいる。
 最悪だ。こんなところ、塾の関係者に見られたら一発で終わる。
 すると突然、後ろから膝を押され、俺は情けなくよろける。振り返ると小さな男の子が地面に手をついていた。どうやら俺にぶつかって転んだらしい。

「だ、大丈夫かい? ぼく?」

 手を差し出すと小さな男の子は俺を見るなりピューっと向こうへ走り去る。行き場を失った手を引っ込めるといつのまにかすぐ隣に村松遥が立っていた。

「な、なんだよ」
「子ども可愛いですね。私一人っ子だから子どもは二人以上欲しいな」
「変なこと言うなよ」
「え? 普通のことでしょ?」

 ニヤニヤと笑う村松遥。なんだかこいつの方がおじさんっぽい気がする。
 今日はいつもより随分とテンションが高い。ただはしゃいでいるだけかもしれないが、少しばかり無理をしているようにも感じてしまうのは考えすぎだろうか。

「先生は? 子どもどれくらい欲しい?」
「子どもは嫌いだ」
「私は子どもじゃないので」

 しかし次の瞬間、彼女は遠くに見えたヌートリアの展示に向かって走り出していった。

 動物園を出て、昼食を取ろうと村松遥に誘われるままピザが美味しいと評判の店に入った。イタリアンでシックな雰囲気だが、あたりの席を見るとほとんどカップルが座っていてどうにも居心地が悪い。

「やっぱりここでないか?」
「先生ピザ嫌いですか?」
「その先生って呼び方やめろよ。周りにどう思われるか」
「じゃあ荻野さん」

 嬉しそうな彼女を見て、俺は諦める。

「……やっぱり先生でいいや」

 注文を終え、先に出されたコーラをストローで吸う。かまどでじっくり焼き上げるこだわりのピザはとても時間がかかる。

「荻野先生の好きな人ってどんな人だったんですか?」
「なに急に」
「いいから、どんな感じだったんですか? 私に似て可愛かったですか?」
「どんなやつ、……泣き虫かな。初めて会った時も泣いてたし」
「ほう」

 矢崎と初めて会った日のことはよく覚えている。それは劇的な出会いだったという理由ではなく、単に俺がよく思い出すからだ。
 あいつと出会って、仲良くなって、それで。
 不意に店のBGMとして流れるピアノの演奏が聞こえ、瞬間的に忘れていた記憶が蘇ってきた。

「そういえばあいつ、自分の子どもにピアノを習わせたいって言ってたな」
「ピアノ?」
「うん。あいつもよく弾いていた。まぁなんでそんな会話になったかも覚えてないんだけどな」

 あいつとの記憶は、劣化したフィルムのようにところどころ思い出せない。無理やり思い出そうとすると後悔や嫉妬などの強い印象に結びついてこびりついている嫌な記憶しか思い出せなくなっていた。
 だから久しぶりに笑っている矢崎の顔を思い出せた気がする。
 それは、あいつによく似ている村松遥が目の前で笑っているのも要因かもしれない。

「最初から好きだった感じですか? 一目惚れ的な」
「いや、ただの友達だったよ。というか、あいつにとって俺は今も友達だろう。俺がただ一方的に好きになって友達以上の関係を求めただけで」
「もう会ってないんですか?」
「ちょっと前に、ほんと数十年ぶりに」
「どんなこと話したんですか?」
「別に大したことは、って……もういいだろ。こんなおじさんの話聞いてもなにも楽しくないだろ」
「そんなことないです」

 村松遥はじっと俺の目を見つめる。

「私、荻野先生のこと好きですから。好きな人の話はどんなことでも興味深いです」
「前も言ってたけどよくもそんな、恥ずかしげもなく好きだなんて。最近の若い人はみんなそうなのか」
「他の若者は知りませんけど、私の恋の定義は相手に好きだと伝えたところからが始まりですから」
「好きだと伝えたら、それはもう告白じゃないのか?」
「全然違います。告白はもっと大事なんです」

 ようやくピザがやってきた。村松遥は早速写真を撮り、切り分けられた一ピースをゆっくりと上へあげる。糸を引くチーズをすすり、満面の笑みを浮かべる。
 村松遥といると、矢崎のことをたくさん思い出す。
 しかし、矢崎そっくりの顔で矢崎本人から言われたかったことを言われるのは、しんどいな。
 そう思いながら一ピースを掴み取り皿へと移すと上に乗っていた具が全部落ちてしまった。
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